中国皇帝統計

愍帝

西晋|在位 313–316年

愍帝の肖像
諱(本名)
司馬鄴
在位
313–316年
在位期間
3年188日365名中212位タイ
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
18歳(数え年)269名中・長寿順246位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
4267名中93位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
3225名中129位タイ
被反乱
5289名中97位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:愍帝

即位の経緯

懐帝が漢趙に殺害された後、長安で群臣に擁立され即位(懐帝の甥)。

出典: 晉書 帝紀第五 孝愍帝

死因の経緯

建興4年(316年)11月、長安陥落により漢趙の劉曜に降伏、平陽へ連行された。捕囚生活の中、劉聡の宴席で酌をさせられ盃を洗う役をさせられるなど屈辱を受け、旧臣が悲嘆したことに劉聡が怒りを深めた。建興6年(318年)12月戊戌、平陽で「帝遇弒」(弑逆に遭った)と原文に明記され殺害された(享年18)。同一政権内(勝者側)の実権者による謀殺のため暗殺に分類。

出典: 晉書 帝紀第五 孝愍帝

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

『晋書』帝紀第五(孝愍帝紀)のうち、建興元年(313年)4月の即位から建興4年(316年)11月の漢趙への降伏(皇帝の地位喪失)までの記述を通読。即位に伴う建元(建興への改元)1回のみで、それ以外の改元記事は在位中に確認されなかった。

大赦回数

『晋書』帝紀第五(孝愍帝紀)のうち、建興元年(313年)4月の即位から建興4年(316年)11月の漢趙への降伏(皇帝の地位喪失)までの記述を通読し、「大赦」と明記された全国規模の恩赦を数えた。部分的・地域限定の「曲赦」等の記述は本紀中に確認されなかった。降伏後(建興5年正月~十二月)の記事は在位期間外のため集計対象外とした。

立后回数

『晋書』帝紀第五(孝愍帝紀、建興元年即位~建興4年11月降伏まで)を通読したが、立后(皇后冊立)の記事は見当たらない。即位時は年少(推定10代前半)であり、在位中の皇后不在と判断した。

皇太子廃立回数

『晋書』帝紀第五(孝愍帝紀、建興元年即位~建興4年11月降伏まで)を通読したが、在位中に皇太子(皇太弟・皇太孫を含む)が立てられた記事、およびその廃立の記事はいずれも見当たらない。

親征回数

晋書帝紀第五(愍帝紀部分)には「帝自将」「親征」等、愍帝本人が軍を率いて出陣したことを示す記述は一切ない。愍帝は即位当初から長安に籠城し、食糧窮乏の末、建興四年十一月に匈奴漢(劉曜)に自ら降伏したのみで、能動的な出征・親征の事実は確認できない。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

帝紀本文は簡潔なため、徐馥の乱・夏鉄の乱の詳細は晋書列伝二十八(周玘伝・周勰伝)を参照して補完した。琅邪王睿(後の元帝)が江南で愍帝の権威の下に行った鎮圧行動も『皇帝側(政権側)』の鎮圧として算入した。なお、平夷太守雷照の離反(建興四年五月)と流人楊武の梁州侵攻(建興元年~二年)はいずれも鎮圧記録がなく(前者は李雄への投降、後者は李雄への逃亡で自然終息)、鎮圧回数には含めていない(被反乱回数には含める)。

被反乱回数

鎮圧回数3件(夏鉄・杜弢・徐馥)はそのまま被反乱にも計上。加えて鎮圧記録のない雷照の離反・楊武の梁州侵攻の2件を被反乱にのみ計上した(いずれも朝廷崩壊寸前で鎮圧行動が取られないまま反乱側が離脱・投降して終結したケース)。晋書帝紀は劉聡・劉曜・石勒ら漢趙(独立政権)との戦争記事が大半を占めるが、これらは服属していない対等勢力との対外戦争として鎮圧・被反乱いずれからも除外した。

遷都回数

洛陽陥落後、愍帝は懐帝期に確立された長安をそのまま都とし、在位中に追加の遷都はない(洛陽→長安の遷都自体は懐帝期の出来事として計上済み)。

即位時年齢・没年齢

崩御時年齢18歳は帝紀に「時年十八」と直接記載(建興五年十二月戊戌、平陽にて弑逆)。ただしこの崩御は建興4年11月の漢趙への降伏・皇帝の地位喪失より後の出来事(光禄大夫・懐安侯としての身分で死去)。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし。deathDateはグレゴリオ暦換算未確認のため保留。

在位中の出来事(13件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧313年夏鉄(王恢教唆)の反乱

首謀者: 夏鉄(教唆者:鎮東将軍祭酒王恢)

結果: 鎮圧成功

鎮東将軍祭酒の王恢が執政(刁協ら)排除を企図し、流人帥の夏鉄に挙兵を促した。建興初、夏鉄は数百人を集めた段階で臨淮太守蔡豹に討たれた。王恢自身は発覚を恐れて逃亡し殺害された。帝紀本文には記載がなく、晋書列伝二十八(周玘伝付・周勰伝の前段)にのみ記述がある。

被反乱313年夏鉄(王恢教唆)の反乱

首謀者: 夏鉄(教唆者:王恢)

結果: 鎮圧された(夏鉄は臨淮太守蔡豹に討たれる)

鎮圧回数と同一事件。晋書列伝二十八(周玘伝付・周勰伝前段)参照。

改元313年6月7日建興元年四月壬申、司馬鄴の即位に伴い建元(「建興」に改元)。

建興元年四月壬申、司馬鄴の即位に伴い建元(「建興」に改元)。原文:「壬申,即皇帝位,大赦,改元。」

出典: 晉書 帝紀第五 孝愍帝

大赦313年6月7日建興元年四月壬申、即位に伴う大赦。

建興元年四月壬申、即位に伴う大赦。原文:「壬申,即皇帝位,大赦,改元。」

出典: 晉書 帝紀第五 孝愍帝

反乱鎮圧313年8月〜315年8月杜弢の乱(湘州流民反乱・鎮圧完了)

首謀者: 杜弢

結果: 鎮圧成功(杜弢は敗走中に死去、湘州平定)

永嘉五年(311)、懐帝期に発生した湘州流民杜弢の乱が愍帝期にも継続。建興元年八月頃に武昌侵攻・焚焼、沔陽襲撃、荊州刺史周顗の敗走等があり、建興二年にも荊州刺史陶侃が敗れるなど一進一退が続いたが、建興三年八月頃、陶侃が杜弢を撃破し、杜弢は敗走中に死去、湘州が平定された(帝紀)。反乱の開始自体は懐帝代であり懐帝側の集計と重複しうるが、鎮圧完了行動は愍帝代の出来事として計上した。

被反乱313年8月〜315年8月杜弢の乱(湘州流民反乱・鎮圧完了)

首謀者: 杜弢

結果: 最終的に鎮圧された(杜弢敗死、湘州平定)

鎮圧回数と同一事件。懐帝期からの継続反乱で、愍帝期にも武昌侵攻・沔陽襲撃等の被害が続いた。

被反乱313年11月〜314年2月流人楊武の梁州侵攻

首謀者: 楊武

結果: 未鎮圧のまま李雄(成漢)へ逃亡

流人楊武が建興元年十一月に梁州を攻略・占拠し、翌建興二年二月には漢中を略奪した後、成漢の李雄のもとへ逃亡した(帝紀)。晋朝廷側が楊武を鎮圧したとの記録はなく、反乱者自身の離脱により事態が終息した。鎮圧行動が在位終了までついに行われなかった点で例外理由2に準じるものとして被反乱回数に計上し、鎮圧回数には含めなかった。

反乱鎮圧315年1月周勰・徐馥の反乱(呉興)

首謀者: 徐馥(教唆者:周勰、擁立予定者:周札)

結果: 鎮圧成功(徐馥は自派に殺害され、呼応した孫弼勢も討滅)

呉興郡功曹の徐馥が周勰の教唆を受け、周札の命と偽って挙兵。呉興太守袁琇を殺害し数千の衆を集め、周札を主に擁立しようとしたが、周札本人がこれを拒絶・告発したため周勰は動けず、馥党は恐れて徐馥自身を殺害した。呼応して広徳で挙兵した孫皓の一族孫弼の勢力も宣城太守陶猷が討滅した(晋書列伝二十八)。帝紀本文(建興三年正月条)には「吴兴人徐馥害太守袁琇」とのみ簡潔に記載。

被反乱315年1月周勰・徐馥の反乱(呉興)

首謀者: 徐馥(教唆者:周勰)

結果: 鎮圧された(徐馥は自派に殺害、孫弼勢も討滅)

鎮圧回数と同一事件。呉興太守袁琇が殺害される等の実害あり。

被反乱316年5月平夷太守雷照の離反

首謀者: 雷照

結果: 未鎮圧のまま李雄(成漢)へ投降・離脱

平夷太守雷照が南広太守孟桓を殺害し、二郡三千余家を率いて成漢の李雄に投降・離反(帝紀建興四年五月条)。この時点で長安の晋朝廷は劉曜軍に包囲され機能不全に陥っており、鎮圧行動の記録はない。同年十一月の愍帝降伏(在位終了)までに鎮圧行動は着手・完了しなかったため、鎮圧回数には含めず被反乱回数のみに計上(対称基準の例外理由2に該当)。

大赦日付不詳建興二年(314年)正月丁丑、大赦。

建興二年(314年)正月丁丑、大赦。原文:「丁丑,大赦。」干支日は判明しているが西暦換算日は未検証のためdateはnullとした。

出典: 晉書 帝紀第五 孝愍帝

大赦日付不詳建興三年(315年)四月、大赦。

建興三年(315年)四月、大赦。原文:「夏四月,大赦。」日(干支)は原文に明記なし。

出典: 晉書 帝紀第五 孝愍帝

大赦日付不詳建興三年(315年)六月辛巳、大赦。

建興三年(315年)六月辛巳、大赦。原文:「辛巳,大赦。」干支日は判明しているが西暦換算日は未検証のためdateはnullとした。

出典: 晉書 帝紀第五 孝愍帝

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