
挙兵した諸将に担がれて天子となり、長安に入ったが、赤眉に降って殺された皇帝である。
更始帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 23年3月11日〜25年
- 没年
- 25年年齢不詳
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 推戴先の君主から位を受けず、まわりの人々に皇帝に立てられた即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓劉諱玄字聖公呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 2回多い順同率2位
出典
- 在位
- 後漢書 巻十一 劉玄劉盆子列傳(即位・
降伏)/後漢書 巻一上 光武帝紀(殺害の所在) - 死因
- 後漢書・
劉玄劉盆子列傳 - 即位経路
- 後漢書 劉玄劉盆子列傳
生涯
どんな皇帝か
後漢書の賛は、名声の無い聖公が漢の風雲を借り、初めは天命に順ったが、終わりには崩れ分かれたと評する。
即位まで
治世と最期
劉縯の名声を忌んで誅殺したが、弟の劉秀が功を誇らず兄の喪にも服さずにいると、恥じて劉秀を武信侯に封じた。王莽の首が宛に届くと、喜んで、王莽がこうでなければ霍光と並んだだろうにと言い、首を宛の市に懸けた。
24年に長安の長楽宮に入ったが、郎吏が居並ぶと恥じてうつむいた。遅れて来た諸将に略奪でどれほど得たかと尋ね、旧来の宮中の役人を驚かせた。趙萌の娘を寵愛して政治を趙萌に委ね、常に酔って群臣に会えず、やむを得ぬときは侍中皇帝のそばに仕える高官。唐では政治の最高職の一つを帷の内に座らせて代わりに応対させた。趙萌の放縦を言った郎吏を剣で撃ってからは誰も物を言わなくなり、諫めた李淑を詔獄に繋いでからは関中の人心が離れ、四方が背いた。
24年の暮れに赤眉が関中に入り、翌25年、張卬らが彼を力ずくで連れ去ろうと謀って宮中で戦いになると新豊へ逃れ、王匡・陳牧・成丹も同謀と疑って呼び出し、先に着いた陳牧・成丹をすぐに斬った。同じ年に赤眉が長安に入ると単騎で城門から逃れ、女たちに城に別れの礼をと呼ばれると、馬を下りて拝してから去った。肌脱ぎで璽綬位や官職を示す印とそれを下げるひもを劉盆子に奉り、赤眉に殺されかけたが劉恭が自ら死のうとしたため赦され、畏威侯ついで長沙王に封じられた。赤眉に苦しむ三輔の人々が彼を憐れんだため、張卬らに説かれた謝禄が兵に絞め殺させた。光武帝はこれを悼み、霸陵に葬らせた。
史料について
殺された年月を劉玄の伝は書かず、光武帝紀は建武元年の終わりの条の後に置く。後漢紀は、謝禄が更始帝を閉じ込めたのちに兵に殺させたとする。
更始帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱4・遷都2・改元1・大赦1
- 改元23年3月11日元号を「更始」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。23年3月11日
- 反乱23年8月〜23年10月劉望(鍾武侯)僭号称帝事件
- 遷都23年10月宛城 → 雒陽(洛陽)
- 遷都24年雒陽(洛陽) → 長安
- 反乱25–26年赤眉軍の関中侵攻と長安陥落・
更始弑殺 - 反乱25年3月方望・
弓林、前孺子劉嬰擁立事件 - 反乱25年8月〜25年9月張卬ら諸将による宮廷武装政変(立秋貙膢の変)
年表
新・
玄漢・