更始帝
玄漢・更始(新〜後漢初)|在位 23–25年

- 諱(本名)
- 劉玄
- 在位
- 23–25年
- 在位期間
- 2年189日365名中244位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 4回289名中127位タイ
- 遷都
- 2回45名中3位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
新末の混乱期、緑林軍系の新市兵・平林兵・下江兵の諸将が「衆虽多而无所统一」との状況を打開するため合議し、光武帝の族兄である劉玄(更始帝)を天子に推戴した。原文:「众虽多而无所统一,诸将遂共议立更始为天子」(後漢書・劉玄劉盆子列傳)。即位の場でも「素懦弱,羞愧流汗,举手不能言」と自ら望んで即位したのではない受動的な様子が記されている。漢室の血を引く(光武帝の族兄)者として担がれた点は世襲的要素もあるが、直系の継承ではなく諸将の推戴・擁立によって即位した経緯が明確なため擁立に分類。
出典: 後漢書 劉玄劉盆子列傳
死因の経緯
赤眉軍が長安に侵入すると降伏し、長沙王(後に淮陽王を追贈)に封じられ一度は助命された。しかし後難を恐れた元部下の張卬が赤眉軍の武将謝禄を唆し、謝禄配下の兵により絞殺された。政権交代後の勝者(赤眉軍・別政権)側による処断のため処刑に分類。
出典: 後漢書・劉玄劉盆子列傳
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
原典に「建元曰更始元年」の直接記述があり、即位に伴う建元1回のみで在位終了(滅亡)まで改元なしと判断できる。
大赦回数
原典(『後漢書』劉玄劉盆子列伝)に「於是大赦天下」の直接記述あり。即位時の1回のみで、以後は原文に追加の大赦記事が見当たらない。在位が23年2月〜25年9月と短く、後半(長安遷都後)は趙萌専権・赤眉侵攻による混乱で政権が事実上崩壊していたため、追加の大赦記事がないことは不自然ではない。
立后回数
『後漢書』劉玄劉盆子列伝原文には「更始納趙萌女為夫人,有寵」(趙萌の娘を夫人として迎え寵愛した)とあり、また韓夫人についても「韓夫人尤嗜酒…」の記述があるが、いずれも身位は「夫人」であり、「立皇后」「冊后」等の正式な皇后冊立を示す語は原文に見当たらない。皇后紀下(後漢書)にも更始帝の皇后に関する記載はない(更始政権は正統な後漢皇帝として皇后紀の対象外)。原文の記述密度がやや薄く(列伝の当該記述量が限定的)、冊立儀礼の詳細が省略されている可能性も否定できないため confidence は medium とした。
皇太子廃立回数
『後漢書』劉玄劉盆子列伝の原文に、劉玄が皇太子を立てた(立太子)という記述自体が見当たらない。二次資料でも劉玄の3人の子(劉求・劉歆・劉鯉)はいずれも侯(列侯)として封じられたとの記載のみで、皇太子に立てられた者はいない模様。立太子の記録がない以上、廃立も発生しようがなく count:0 とした。
親征回数
『後漢書』劉玄劉盆子列伝を通読したが、更始帝自身が「自将」して出陣した記述は見当たらない。刘望討伐(刘信)、洛陽・武関攻略(王匡・申屠建・李松)、劉婴討伐(李松・苏茂)、対赤眉戦(苏茂・李松・朱鲔)はいずれも諸将への派遣であり、更始本人が軍を率いた形跡はない。更始二年二月の「更始自洛陽而西」は長安への遷都に伴う移動であり、戦闘・親征を伴わない。以上より親征0回と判定。
反乱鎮圧回数
『後漢書』劉玄劉盆子列伝より。劉望・劉嬰(方望)の両事件は、更始の治世下で第三者が独自に天子を僭称し更始の正統性に武力で挑戦した事案であり、更始側の将軍が派遣されこれを討滅した点で反乱鎮圧の性格を持つと判断した。ただし両者とも更始に対する明確な服属関係は記録になく、後漢建国期の隗囂・公孫述・盧芳のような『既に服属していたか否か』の基準では境界事例であり、confidence mediumとした。
被反乱回数
【2026-07-16改訂基準に基づき再監査・改訂】被反乱4件。(1)劉望、(2)方望・弓林はrebellionSuppressionCount.eventsに既に計上済みの反乱であり、改訂基準(鎮圧側・被反乱側は原則として同一の反乱群を両面から集計する)に従い、除外を正当化する例外事由(粒度差・未鎮圧のまま在位終了・皇帝自身が攻撃主体・宮廷内クーデター)がいずれも該当しないため新規追加した。(3)張卬の宮廷政変、(4)赤眉軍による長安陥落・更始弑殺は従来通り被反乱のみに計上(それぞれ例外事由4・例外事由2に該当)。一次史料『後漢書』劉玄劉盆子列伝(china-history/后汉书/列传/第一章-刘玄刘盆子列传-原文.html)で全4事件の記述を確認済み。
遷都回数
在位中に遷都2回(0023年 宛城→雒陽(洛陽)、0024年 雒陽(洛陽)→長安)。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(reigns/deathCause/accessionRoute等)および_corpus_cache/gengshi-di.txt(『後漢書』劉玄劉盆子列伝)を確認したが、劉玄(更始帝)の生年月日・享年・即位時年齢に関する直接記載(「時年」「年◯十」「享年」等)は見当たらなかった。列伝には即位の経緯・治世の混乱・赤眉軍への降伏と絞殺・埋葬(光武帝が大司徒鄧禹に命じ霸陵に葬らせた)までの記述はあるが年齢言及はゼロ。光武帝の族兄という続柄のみが手がかりだが、これだけでは年齢を逆算できない。調査したが原典に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。
在位中の出来事(10件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元23年2月更始元年(23年)2月辛巳、淯水のほとりで即位した際に「建元曰更始元年」(『後漢書』劉玄劉盆子列伝)と建元。
更始元年(23年)2月辛巳、淯水のほとりで即位した際に「建元曰更始元年」(『後漢書』劉玄劉盆子列伝)と建元。以後、25年9月に劉玄が赤眉軍に降伏・殺害され政権が滅亡するまで「更始」の年号が継続して用いられ、追加の改元記事は原文に見当たらない(長安遷都〈更始2年2月〉の記事でも改元の言及なし)。
大赦23年2月更始元年(23年)2月、劉玄が淯水のほとりで皇帝に即位した際「於是大赦天下、建元曰更始元年」(『後漢書』劉玄劉盆子列伝)。
更始元年(23年)2月、劉玄が淯水のほとりで皇帝に即位した際「於是大赦天下、建元曰更始元年」(『後漢書』劉玄劉盆子列伝)。即位に伴う大赦。これ以降、25年に赤眉軍に敗れ長安が陥落・崩壊するまでの間、列伝原文に他の大赦天下の記事は確認できなかった。
反乱鎮圧23年8月〜23年10月劉望(鍾武侯)僭号称帝事件
首謀者: 劉望
結果: 更始が派遣した奮威大将軍劉信により汝南で劉望を撃殺、王莽側から劉望に帰順していた厳尤・陳茂も誅殺され鎮圧成功
更始元年八月、前鍾武侯劉望が汝南で自立して天子を称した(王莽の敗残将軍厳尤・陳茂もこれに帰順)。更始が既に同年二月に即位していた状況下での対抗的な称帝であり、同年十月に更始側の将軍劉信が討ち滅ぼした。劉望が更始に服属していた臣下であったとの明確な記述はなく、隗囂・公孫述のような『長期独立政権』とまでは言えない一過性の僭称・武力対抗であるため、光武帝の項で除外される群雄割拠(統一戦争)とは性格が異なると判断し反乱鎮圧に計上した(confidence: medium、異説の余地あり)。
被反乱23年8月〜23年10月劉望(鍾武侯)僭号称帝事件
首謀者: 劉望
結果: 更始が派遣した奮威大将軍劉信により汝南で劉望を撃殺、王莽側から劉望に帰順していた厳尤・陳茂も誅殺され鎮圧成功
更始元年八月、前鍾武侯劉望が汝南で自立して天子を称し武力で対抗。2026-07-16改訂基準によりrebellionSuppressionCount計上済みの反乱は原則として被反乱側にも計上するため、例外事由に該当しないことを確認の上新規追加した。
遷都23年10月宛城 → 雒陽(洛陽)
更始元年十月、奮威大将軍劉信が汝南で劉望を撃破し厳尤・陳茂を誅殺した後、『後漢書』劉玄劉盆子列伝に「更始遂北都洛陽、以劉賜為丞相」(更始はついに北のかた洛陽に都した)とある。更始政権は同年六月に宛城へ入都(建国時の最初の定都のため対象外)していたが、この十月に洛陽へ遷都した。光武帝紀にも「更始将北都洛陽、以光武行司隷校尉、使前整修宮府」とあり洛陽遷都準備の記述が確認できる。(出典: 後漢書 列傳第一 劉玄劉盆子列傳/本紀第一 光武帝紀上)
遷都24年2月雒陽(洛陽) → 長安
『後漢書』劉玄劉盆子列伝に「(更始)二年二月、更始洛陽より西す」とあり、直前に「申屠建・李松、長安より乗輿服御を伝送し、又た中黄門従官を遣わして迎え遷都す」と明確に『遷都』の語が用いられている。到着後「更始既に至り、長楽宮に居り、前殿に升る」とあり長安への遷都が確認できる。(出典: 後漢書 列傳第一 劉玄劉盆子列傳)
被反乱24年12月〜25年12月赤眉軍の関中侵攻と長安陥落・更始弑殺
首謀者: 樊崇(赤眉軍首領。三年六月以降は劉盆子を擁立)
結果: 更始三年九月に赤眉が長安に入城、更始は降伏後最終的に絞殺され政権終焉。
既存項目・変更なし。例外事由2(未鎮圧のまま在位終了)に該当するため被反乱のみに計上。
反乱鎮圧25年1月方望・弓林、前孺子劉嬰擁立事件
首謀者: 方望・弓林
結果: 更始が派遣した李松・討難将軍蘇茂らが撃破し、方望・弓林・劉嬰とも斬殺
更始三年正月、平陵人方望が安陵人弓林らと共に前の孺子(平帝の後継予定者)劉嬰を天子に擁立し数千人を集めた。更始が派遣した李松・蘇茂が撃破し、関係者を皆斬った。劉望の事例と同様、更始への正式な服属歴はない一過性の僭称集団であり、隗囂・公孫述型の独立政権とは異なると判断し計上(confidence: medium)。
被反乱25年1月方望・弓林、前孺子劉嬰擁立事件
首謀者: 方望・弓林
結果: 更始が派遣した李松・討難将軍蘇茂らが撃破し、方望・弓林・劉嬰とも斬殺
更始三年正月、方望・弓林が前孺子劉嬰を天子に擁立し武装蜂起。改訂基準によりrebellionSuppressionCount計上済みの反乱として被反乱側にも新規追加した。
被反乱25年8月〜25年9月張卬ら諸将による宮廷武装政変(立秋貙膢の変)
首謀者: 張卬(廖湛・胡殷・申屠建、御史大夫隗囂も共謀とされる)
結果: 更始が大敗し妻子と共に新豊へ敗走。以後反攻し王匡・張卬連合軍を敗走させたが最終的に赤眉に合流された。
既存項目・変更なし。例外事由4(宮廷内クーデターで鎮圧主体が皇帝側でない)に該当するため被反乱のみに計上。