平帝
前漢|在位 前1–6年
- 諱(本名)
- 劉衎
- 廟号
- 元宗
- 在位
- 前1–6年
- 在位期間
- 5年110日365名中185位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 諸説あり
- 即位時年齢
- 9歳(数え年)172名中・若い順22位タイ
- 没年齢
- 14歳(数え年)269名中・長寿順259位
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 4回267名中93位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:平帝
即位の経緯
元帝の庶孫、中山孝王の子で哀帝の従弟。哀帝が実子なく崩御すると太皇太后が実権を掌握し王莽を大司馬に任命、王莽主導で9歳の中山王を迎立した(「使迎中山王奉成帝後、是為孝平皇帝……委政於莽」)。実権は王莽が握る傀儡的即位。
出典: 漢書・平帝紀/王莽傳上
死因の経緯
9歳で擁立され、王莽の専権下で成長するにつれ外戚衛氏一族の粛清などから王莽への不満を強めたとされる。14歳で崩御。『漢書』王莽伝は病死と明記し、平帝紀に載る太皇太后の詔も発病の経緯(気が上に突き上げ言葉を発せなくなった)を述べる一方、王莽討伐に挙兵した翟義が挙げた王莽の十大罪状の一つに毒殺(臘日の椒酒に毒を盛った)との告発がある。原典内で病死説と毒殺告発が併存し一つに絞れないため諸説ありとする。
出典: 漢書・平帝紀/王莽傳上補記: 現代の一部見解では先天性心疾患(チアノーゼ性)による自然死の可能性も指摘されるが、原典に医学的根拠はない。
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
漢書・平帝紀原文を通読。「元始」への改元を明示的に宣言する詔文(例:「改元○○」)は本紀中に見当たらず、元始元年正月の記事からいきなり新元号表記で始まるため、正確な改元宣言の日付は特定できていない(confidence medium)。即位(元寿2年9月)と改元(元始元年正月)の間に約4ヶ月のずれがあり、通常の慣例(即位翌年から新元号)に従ったとみられる。平帝の在位中(前1年〜西暦6年、実質元始元年〜5年)に元始以外への改元は行われていない。
大赦回数
漢書・平帝紀原文を通読して確認。「大赦天下」と明記された記事は上記4件。なお元始元年秋9月「秋九月,赦天下徒」および元始2年9月戊申晦「赦天下徒」の2件は、文言が「赦天下徒」(刑徒に限定した恩赦)であり「大赦天下」という全国規模の大赦の明記ではないため、タスク定義(全国規模の大赦と明記された記事のみ)に従いカウントから除外した。
立后回数
漢書・平帝紀原文で確認。皇后冊立の記述は元始4年2月丁未の1回のみで、廃后の記述はない。
皇太子廃立回数
漢書・平帝紀原文を通読したが、皇太子の立太子・廃立に関する記述は一切見当たらない。平帝は元寿2年9月(前1年)に9歳で即位し、元始5年12月(西暦5年)に14歳で崩御しており、在位中に皇太子は立てられなかった(崩御時の議論でも「皇帝年十有四歳,宜以禮斂,加元服」とあるのみで、太子への言及なし)。
親征回数
『漢書』平帝紀を通読したが、平帝自身が軍を率いて出陣したとする記述(「帝自将」「上自将兵」等)は一切見当たらない。平帝は元寿2年(前1年)9月に9歳で擁立され、元始5年(西暦5年)12月に14歳で崩御しており、在位中一貫して太皇太后臨朝・大司馬王莽秉政の体制で「百官総己以聽於莽」(原文)と明記される傀儡的治世。元始3年の陽陵任横の乱鎮圧も大司徒掾(属官)が担当しており、平帝本人の出征記事は皆無。該当記事なしのためcount 0。
反乱鎮圧回数
『漢書』平帝紀原文を通読。陽陵任横の乱(元始3年)を武力を伴う組織的反乱として1件計上した。一方、以下2件は反乱鎮圧としてカウントしなかった:(1)同じ元始3年の「安漢公世子宇與帝外家衛氏有謀。宇下獄死,誅衛氏」(王莽の子・王宇が平帝外戚の衛氏一族と謀った事件)は、実際の挙兵・兵力行使に至る前に発覚し逮捕・処刑で終わった謀反計画であり、基準の「未然に発覚し実際の挙兵に至らなかった謀反計画」除外規定に該当するため含めない。(2)元始2年の「遣執金吾侯陳茂假以鉦鼓,募汝南、南陽勇敢吏士三百人,諭説江湖賊成重等二百餘人皆自出」(江湖の賊・成重ら200余人の帰順)は、「賊」(盗賊)と表記され、官署攻撃等の組織的反乱行動の記述がなく、武力鎮圧ではなく説得による自主投降(「諭説…皆自出」)で決着しているため、組織的反乱鎮圧というより通常の盗賊招撫と判断し除外した(境界事例のためconfidence medium)。
被反乱回数
タスク指示にある翟義の王莽討伐挙兵(十大罪状を掲げた事件)については、『漢書』平帝紀原文を通読した限り本紀中に一切記載がなく、時系列上も平帝崩御(元始5年12月〈西暦6年2月〉)後の居摂2年(西暦7年)、次代の孺子嬰(劉嬰、王莽摂政期)の治世に発生した事件であることを確認した(平帝紀「賛曰」に「至乎變異見於上,民怨於下,莽亦不能文也」とあるのみで翟義の名自体は登場しない。平帝紀のdeathCause注記にある翟義の毒殺告発への言及は、翟義挙兵という事件自体が平帝没後に起きたことの根拠として既に整理済み)。したがって翟義の乱は平帝の在位期間(reigns: 前1年10月17日〜6年2月3日)の外side事象であり、標的が平帝本人か王莽かを論じるまでもなく対象期間外としてrebellionSufferedCountに算入しなかった。また元始3年の「安漢公世子宇與帝外家衛氏有謀」(王莽の子と平帝外戚衛氏の謀議)は、標的が王莽であったとみられ、かつ実際の兵力行使(挙兵)に至らず発覚・処刑で終わった謀議に留まるため、二重の理由(対象が皇帝本人でない可能性が高いこと・武力行使を伴わないこと)で除外した。陽陵任横の乱1件のみを計上したが、標的の性質判定に解釈の幅があるためconfidenceはmediumとした。
遷都回数
漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
『漢書』平帝紀原文(_corpus_cache/han-pingdi.txt)で確認。即位時年齢は直接記載:元寿2年(前1年)9月中山王として即位した直後の記事に「帝年九歳,太皇太后臨朝,大司馬莽秉政」とあり、数え年9歳(既存のdeathCause.noteにある「9歳で擁立され」の記述と一致)。没年齢も直接記載:元始5年(西暦6年)12月丙午の崩御記事に続く有司の議に「皇帝年十有四歳,宜以礼斂,加元服」とあり、数え年14歳(既存deathCause.noteの「14歳で崩御」と一致)。deathDateはreigns[0].endDate(0006-02-03)と同一で、平帝は在位中に崩御したため退位後の別没日は存在しない。生年月日の直接記載は原文中に見当たらず(哀帝崩御時に既に「中山王」として在位しており年3歳で王位継承した旨の記述はあるが西暦紀元前の正確な生年月日は不明)、数え年の年齢のみからの逆算では月日精度の生年を確定できないためbirthDateはnullのまま調査済みとする。
在位中の出来事(8件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦0年9月元寿2年9月辛酉、平帝(中山王)即位時。
元寿2年9月辛酉、平帝(中山王)即位時。「辛酉,中山王即皇帝位,謁高廟,大赦天下」(漢書・平帝紀)。※西暦では前1年9月。
改元1年1月元始元年春正月を以て新元号「元始」が開始(原文冒頭「元始元年春正月,越裳氏重譯獻白雉一,黑雉二」)。
元始元年春正月を以て新元号「元始」が開始(原文冒頭「元始元年春正月,越裳氏重譯獻白雉一,黑雉二」)。改元の明示的な詔・宣言記事は原文中に見当たらないが、元寿2年(即位年)から元始元年への切替として即位に伴う最初の建元1回として計上。平帝の在位中に他の改元は行われていない(元始元年〜5年で崩御)。
大赦1年5月元始元年5月丁巳朔。
元始元年5月丁巳朔。「夏五月丁巳朔,日有蝕之。大赦天下」(漢書・平帝紀)。日食を機に大赦天下を実施。
反乱鎮圧3年陽陵任横の乱
首謀者: 任横
結果: 鎮圧成功。首謀者ら全員捕縛・処罰(「皆伏辜」)
元始3年(西暦3年)、陽陵の任横らが「自称将軍」し武器庫を襲って兵器を奪い(盗庫兵)、官署を攻撃し(攻官寺)、囚人を解放した(出囚徒)という原文記事(「陽陵任橫等自稱將軍,盜庫兵,攻官寺,出囚徒」)。大司徒の属官が追討し、首謀者らは全員捕らえられ処罰された(「大司徒掾督逐,皆伏辜」)。皇帝本人ではなく将軍・属官による鎮圧だが、政権側(朝廷)が鎮圧主体であるため基準に従いカウント。原文に具体的な月日の記載がなく、記事の位置から元始3年(夏以降とみられる)内で発生・終結したとみられるためdatePrecision:yearとした。
被反乱3年陽陵任横の乱
首謀者: 任横
結果: 鎮圧され首謀者ら全員処罰
上記rebellionSuppressionCountと同一事件。任横らは「自称将軍」を名乗り官署を攻撃・武器庫を襲撃・囚人を解放するという、朝廷(漢の統治機構)に対する武力蜂起であった。標的が平帝個人を名指ししたわけではないが、政権・王朝の統治機構への実力行使であり、他の皇帝(例:秦二世に対する陳勝呉広の乱)と同様の扱い方針に従い、在位中に発生した政権への武装反乱としてrebellionSufferedCountに算入した。
大赦4年2月元始4年2月丁未。
元始4年2月丁未。「二月丁未,立皇后王氏,大赦天下」(漢書・平帝紀)。皇后王氏(王莽の娘)立后に伴う大赦。
立后4年2月元始4年2月丁未、王氏(王莽の娘)を皇后に立てる。
元始4年2月丁未、王氏(王莽の娘)を皇后に立てる。「二月丁未,立皇后王氏,大赦天下」(漢書・平帝紀)。夏には「皇后見于高廟」と高廟に謁見する記事もあり。
大赦5年12月元始5年12月丙午、平帝崩御時。
元始5年12月丙午、平帝崩御時。「帝崩于未央宮。大赦天下」(漢書・平帝紀)。