平帝の人物データ
- 生年
- 前9年
- 在位
- 前1年10月17日〜6年2月旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 5年12月まで
- 没年
- 6年2月(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 5年12月)14歳(数え年)長生き順256位/266人
- 死因
- 諸説あり死因について史書の記述が食い違い、一つに絞れない。同じ死因17人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 哀帝前漢平帝は哀帝の従兄弟
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓劉諱衎廟号元宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 漢書 巻十二 平帝紀
- 死因
- 漢書・
平帝紀/王莽傳上 - 即位経路
- 漢書・
平帝紀/王莽傳上
生涯
どんな皇帝か
王莽が毒を盛ったという話は、漢書の本文では告発の言葉として出てくるが、資治通鑑は地の文で書く。
即位まで
治世と最期
太皇太后皇帝の祖母の代の后に贈る称号が朝に臨み、王莽が政を執って安漢公の号を受けた。1年に母を中山孝王后とし、母の兄弟の衛宝・衛玄に関内侯自分の領国を持たない侯の爵位の爵、帝の妹4人に君の号が与えられたが、王莽は母と外家皇帝の母方や皇后の実家の一族を都に来させなかった。母は日夜泣いて帝に会いたがったが、領地が増えるだけだった。王莽の子の宇は、帝が成長したのちに怨まれることを恐れて衛氏と通じ、夜に王莽の邸の門に血を注がせた。3年、宇は獄で薬を飲んで死に、衛氏は誅された。そのなかで、母だけは生き残った。王莽は自分に徳が無く娘も才が劣ると辞退してみせたが、宮門で上書君主に意見を書いて差し出すことする者が日に千余人に及ぶと太皇太后もやむを得ず許し、4年に王莽の娘が皇后に立てられた。
5年の暮れに未央宮で没した。没後の詔は、発作のたびに気が逆上して言葉が出ず、遺詔皇帝が死に際に残した命令は無かったと述べた。平帝が病んでいたころ、王莽は身代わりを願う祈りの文を作り、金の箱に納めていた。のち7年に翟義が挙兵の檄文相手の罪を述べ、人々に決起を呼びかける文書で王莽が平帝を毒殺したと訴え、23年に漢兵が同じことを言い立てると、王莽はこの文を開いて群臣に見せた。
史料について
毒殺の話は、漢書の本文では告発の言葉として出るだけで、本紀は触れない。資治通鑑は、王莽が臘日に献じた椒酒に毒を入れ、そのあと平帝が病んだと地の文で書き、漢書の注の引く漢注も同じ筋である。
平帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・皇后1・改元1・大赦4
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前1年10月平帝(中山王)即位時。
- 改元1年元号を「元始」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。1年元始元年5月丁巳朔。
- 反乱3年陽陵任横の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。4年元始4年2月丁未。
- 皇后4年王氏(王莽の娘)を皇后に立てる。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。6年平帝崩御時。
前漢の歴代皇帝
歴代14人の一覧年表
秦・
前漢が