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前漢第14代

平帝劉衎

在位 前1–5年(5年108日)前1年10月17日 〜 6年2月 ( 5年12月まで)

日本は弥生時代

9歳で迎えられて位に就き、政治をすべて王莽に握られ、母にも会えないまま若くして没した前漢の皇帝である。

平帝の人物データ

生年
前9年
在位
  • 前1年10月17日〜6年2月 5年12月まで
5年108日長い順184位/365人9歳で即位(数え年)
没年
6年2月( 5年12月)14歳(数え年)長生き順256位/266人
死因
同じ死因17人/365人
即位経路
先代
  • 哀帝前漢平帝は哀帝の従兄弟
次代
—
呼び名
姓劉諱衎廟号元宗呼び名の見方

出典

在位
漢書 巻十二 平帝紀
死因
漢書・平帝紀/王莽傳上
即位経路
漢書・平帝紀/王莽傳上

生涯

どんな皇帝か

王莽が毒を盛ったという話は、漢書の本文では告発の言葉として出てくるが、資治通鑑は地の文で書く。

即位まで

元帝の孫で、父の中山孝王を幼くして失い、中山王を継いだ。王を継いで1年に満たないころ、たたりによるとされる病にかかり、祖母の馮太后が自ら看病したが、その馮太后は哀帝の代に呪詛の誣告を受けて薬を飲んで自殺した。前1年に哀帝が没すると、となった王莽が中山王を迎え、成帝の後継ぎとして9歳で即位させた。即位したその年に病にかかった。

史料について

中山王を継いだ年齢を、漢書のは3歳、伝は2歳とする。

治世と最期

が朝に臨み、王莽が政を執って安漢公の号を受けた。1年に母を中山孝王后とし、母の兄弟の衛宝・衛玄にの爵、帝の妹4人に君の号が与えられたが、王莽は母とを都に来させなかった。母は日夜泣いて帝に会いたがったが、領地が増えるだけだった。王莽の子の宇は、帝が成長したのちに怨まれることを恐れて衛氏と通じ、夜に王莽の邸の門に血を注がせた。3年、宇は獄で薬を飲んで死に、衛氏は誅された。そのなかで、母だけは生き残った。王莽は自分に徳が無く娘も才が劣ると辞退してみせたが、宮門でする者が日に千余人に及ぶと太皇太后もやむを得ず許し、4年に王莽の娘が皇后に立てられた。

5年の暮れに未央宮で没した。没後の詔は、発作のたびに気が逆上して言葉が出ず、は無かったと述べた。平帝が病んでいたころ、王莽は身代わりを願う祈りの文を作り、金の箱に納めていた。のち7年に翟義が挙兵ので王莽が平帝を毒殺したと訴え、23年に漢兵が同じことを言い立てると、王莽はこの文を開いて群臣に見せた。

史料について

毒殺の話は、漢書の本文では告発の言葉として出るだけで、本紀は触れない。資治通鑑は、王莽が臘日に献じた椒酒に毒を入れ、そのあと平帝が病んだと地の文で書き、漢書の注の引く漢注も同じ筋である。

平帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱1・皇后1・改元1・大赦4
  1. 前1年10月平帝(中山王)即位時。
  2. 改元1年元号を「元始」とする
  3. 1年元始元年5月丁巳朔。
  4. 反乱3年陽陵任横の乱
  5. 4年元始4年2月丁未。
  6. 皇后4年王氏(王莽の娘)を皇后に立てる。
  7. 6年平帝崩御時。

前漢の歴代皇帝

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年表

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