光武帝の人物データ
- 生年
- 前6年前5年1月15日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 前6年12月6日)
- 在位
- 蕭王24年〜25年
- 皇帝25年8月5日〜57年3月29日
- 没年
- 57年3月29日62歳(数え年)長生き順同率31位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- 明帝後漢明帝は光武帝の子
出典
- 在位
- 後漢書 巻一上・
巻一下 光武帝紀 - 死因
- 後漢書・
巻一上・ 巻一下 光武帝紀 - 即位経路
- 後漢書・
巻一上・ 巻一下 光武帝紀
生涯
どんな皇帝か
郷里の宴で一族の年長の婦人たちが、若いころは柔らかいだけだったと語るのを聞き、天下を治めるのも柔の道でと大笑いした。
即位まで
治世と最期
即位後は赤眉を降し、隴と蜀を平らげた。陰麗華に皇后を固辞されて子のある郭氏を立て、41年に郭氏を廃して陰氏を立てた。27年に赤眉が降り、高皇帝の璽綬位や官職を示す印とそれを下げるひもを差し出した。32年には岑彭への書で、隴を平らげてまた蜀を望む、人は足るを知らずに苦しむと書いた。36年、公孫述が成都で敗れて死ぬと、それからは危急でない限り軍事を語らなかった。
皇太子に戦の仕方を問われると孔子の故事昔からのしきたりや、昔あった出来事を引いて退け、日が傾くまで政務を見て夜中まで経書儒学の教えの基本となる古典を論じ、楽しんでいるから疲れないと言った。旧友の厳光と寝て腹に足を載せられ、太史天文や暦、記録をつかさどった役人が客星が御座を犯したと急報すると、旧友と寝ただけだと笑った。寡婦の姉が宋弘を望むと宋弘の意を探ったが、糟糠の妻は堂から下ろさないと言われ、姉に無理だと告げた。姉の奴を殺した董宣を打ち殺そうとしたが、謝罪を拒む董宣を笑って許した。
晩年まで、田の調べの不正や讖への異論、馬援への讒言には厳しく臨んだ。39年に田と戸口家の数と人の数を調べさせ、40年には不正をした郡守地方の区画である郡を治めた長官十余人が獄死した。讖は経ではないと述べた桓譚を斬れと怒り、桓譚は地方へ出されて道中で没した。陣中で没した馬援が梁松に陥れられると、怒って侯の印綬官職や爵位を示す印とそれを下げるひもを追い取り、のちの讒言でさらに怒った。遺族は六度の上書君主に意見を書いて差し出すことでようやく葬れた。54年に群臣が封禅山の上で天と地をまつり、功を告げる儀式を勧めると、民の怨みが満ちているのに天を欺くのかと退けたが、56年に泰山で封禅を行い、中元と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。57年に南宮前殿で没し、遺詔皇帝が死に際に残した命令で文帝にならう倹約を命じた。
史料について
本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分の末尾は、隴・蜀を平らげたのちは功臣を退けて文吏を用いたとまとめる。郡守らを殺したことを、後漢書の天文志はのちに深く悔いたと書き、資治通鑑は馬援に悔やむと語ったと書く。本紀はどちらも書かない。
光武帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱17・親征7・皇后2・皇太子1・改元2・大赦10
- 改元25年8月5日元号を「建武」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。25年8月5日
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。26年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。26年
- 皇后26年皇后を立てる
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。26年五校(別号諸賊、独立群雄・未服属)
- 反乱26年真定王劉楊・
臨邑侯讓の謀反 - 反乱26–29年彭寵の乱
- 反乱26–27年鄧奉の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。27年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。27年
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。27年赤眉残党(独立群雄・
未服属) - 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。27年鄧奉(元・
破虜将軍、既に服属していた漢の武将による反乱) - 反乱27–28年張豐の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。28年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。29年
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。29年龐萌・
蘇茂(龐萌は元・ 平狄将軍で既に服属していた漢の武将による反乱、蘇茂は更始配下から続く未服属の群雄勢力) - 反乱29–30年龐萌の乱
- 反乱30年楽浪王調の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。31年
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。32年隗囂(独立群雄・
西州大将軍を自称し後に漢に反した勢力、本タスク指示により統一戦争扱い) - 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。32年潁川盗賊(既に服属していた漢の郡県内の武装蜂起)
- 反乱32年潁川盗賊の蜂起
- 反乱32年河東守兵の叛乱
- 反乱32年張歩の再叛(琅邪への逃亡蜂起)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。35年公孫述(独立群雄・
巴蜀に自立し天子を称した勢力、統一戦争扱い) - 反乱40–43年交阯・
徴側(微側)の反乱 - 皇后41年皇后を立てる
- 反乱41年妖巫李広の皖城蜂起
- 反乱42年史歆の乱
- 皇太子43年皇太子を廃する
- 反乱43年妖巫単臣・
傅鎮の原武蜂起 - 反乱45年安定属国胡の叛乱
- 反乱47年南郡蛮の叛乱
- 反乱47–49年武陵蛮の叛乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。48年
- 改元56年元号を「中元」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。56年
- 反乱56年参狼羌の武都侵寇・鎮圧
後漢の歴代皇帝
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