中国皇帝統計

光武帝

後漢|在位 25–57年

光武帝の肖像
諱(本名)
劉秀
廟号
世祖
在位
25–57年
在位期間
31年244日365名中21位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
30歳(数え年)172名中・若い順112位タイ
没年齢
62歳(数え年)269名中・長寿順31位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
10267名中38位タイ
立后
2204名中14位タイ
皇太子廃立
129名中5位タイ
親征
7112名中6位タイ
反乱鎮圧
17225名中18位タイ
被反乱
17289名中22位タイ
遷都
0

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:光武帝

即位の経緯

新末の混乱の中、更始帝配下として挙兵し戦功を挙げたが、河北平定後に自立(「光武辞以河北未平、不就征。自是始貳於更始」)。諸将の再三の勧進と符瑞を経て建武元年に即位。景帝の子孫という血縁を正統性の根拠として掲げたが、更始帝からの禅譲・世襲ではなく実力による自立・新政権樹立であるため建国と判定。

出典: 後漢書・巻一上・巻一下 光武帝紀

死因の経緯

泰山での封禅の儀の翌年、洛陽の宮中で崩御(62/63歳)。不審死・暗殺を示す記述はない。

出典: 後漢書・巻一上・巻一下 光武帝紀

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位中、年号は「建武」(即位時に建元)から「中元」への改元が1回あり、即位時の建元と合わせて2回とカウントした。建武32年(56年)は泰山での封禅の儀の後、4月に改元して中元元年とされた(33年目に相当する在位中では中元二年=57年2月に崩御)。『後漢書』では単に「中元」と記すが、祭祀志・東夷伝では「建武中元」と表記され、これは「中元」が「建武中元」の省略・誤写とする説がある(正式名称は諸説あるが、元号としての切り替え自体は1回として数える)。

大赦回数

『後漢書』光武帝紀上・下の原文(zh.wikisource.org 後漢書/卷1上・卷1下)を精査し、「大赦天下」の四文字が明記された記事を全て抽出した。部分的恩赦(建武十三年「詔令天下繫囚自殊死已下及徒各減本罪一等」、建武十八年「赦益州所部殊死已下」等の地域・対象限定の減刑)は基準に従い除外した。建武二年六月戊戌の大赦は郭皇后立后と同日に発せられたもの。

立后回数

『後漢書』光武帝紀上・下の原文により、郭聖通(建武二年)・陰麗華(建武十七年、郭后廃后後)の2度の立后を確認。郭皇后は建武十七年に廃されて中山太后となった(廃后の記録も明確)。

皇太子廃立回数

『後漢書』光武帝紀下(建武十九年)原文により、皇太子劉彊(郭皇后の子)を廃して東海王とし、劉陽(陰皇后の子、後の劉荘=明帝)を新たな皇太子に立てた記事を確認。廃立は1回のみ。

親征回数

『後漢書』光武帝紀上下より、即位(建武元年六月己未=25-08-05)以降に「帝自将」「自将」「帝自征」等の皇帝本人出陣を示す記述がある事例を7件抽出した。対象は反乱(邓奉・庞萌)・独立群雄(五校・赤眉残党・隗嚣・公孙述)・国内盗賊(颍川盗賊)が混在するが、いずれも本人出陣が明記されているため親征として計上した。建武十二年の公孙述滅亡(成都陥落)や建武八年以降の隗嚣残党掃討など、将軍のみが率いた戦役は含めていない。

反乱鎮圧回数

既に漢に服属していた王侯・郡太守・将軍・郡県の民による武力蜂起(反)を反乱として計上し、隗囂・公孫述・盧芳・延岑・蘇茂・張歩(初回自立時)・劉永・董宪・秦豊・田戎ら建国期から独立していた群雄への統一戦争(設問指示により明示的に除外対象)は除いた。国境部族(蛮・羌・胡・征側)の蜂起は「郡県支配下・服属下」の解釈が分かれるため個別に判断し、frontier区分は被反乱回数の集計方針とも連動させた(詳細はrebellionSufferedCountのnote参照)。真定王劉楊・臨邑侯讓の事件は簡潔な記述のため実際の挙兵規模が不明確、河東守兵の乱は結末が記されず確認できない点でconfidenceをmediumとした。

被反乱回数

【2026-07-16基準訂正に伴う再判定】旧基準では辺境異民族(蛮・羌・胡・交阯の越人)による蜂起5件を被反乱回数から除外していたが、訂正後の基準では反乱者の身分・規模・標的を問わず、rebellionSuppressionCountに計上した服属集団の武装蜂起(挙兵)は原則として被反乱にも計上する。交阯・徴側(微側)の反乱、安定属国胡の叛乱、南郡蛮の叛乱、武陵蛮の叛乱、参狼羌の武都侵寇・鎮圧の5件はいずれも郡県・属国等、漢の統治機構下にあった服属民による実際の武装蜂起であり、対等勢力との抗争や独立勢力への統一戦争ではないため、rebellionSuppressionCountと同一の17件・同一の粒度で被反乱回数にも追加計上した。

遷都回数

後漢書本紀を通読。洛陽が建国から一貫した都で、在位中に追加の遷都記録はない(献帝期の洛陽→長安→許昌の遷都は献帝自身の代の出来事として計上済み)。

即位時年齢・没年齢

『後漢書』本紀末尾(論曰部分)に「以建平元年十二月甲子夜生光武於県舎」とあり、建平元年(前6年)十二月甲子の夜に誕生したと直接記載。建平元年十二月は暦換算すると前5年1月に相当し、通説として広く引用される生年月日(前5年1月15日、多くの二次資料の定説)と一致するためこれを採用した。崩御は同紀「(中元二年)二月戊戌、帝崩于南宮前殿、年六十二」との直接記載により没年齢は数え62歳と確定(reigns配列の最終endDate 0057-03-29と一致)。生年を前5年(astronomical -4)とすると、没年齢62歳(57-(-4)+1=62、原文の直接記載と完全一致)・即位時年齢(建武元年=25年)30歳(25-(-4)+1=30)がいずれも整合することを確認した(han-huidiで用いた数え年逆算式と同一方法でクロスチェック)。既存のdeathCause.noteには「62/63歳」と両論併記されていたが、本紀原文の直接記載「年六十二」により62歳で確定させた。

在位中の出来事(56件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元25年6月建武元年六月己未、即皇帝位。

建武元年六月己未、即皇帝位。「於是建元為建武,大赦天下,改鄗為高邑」。即位に伴う最初の建元。

大赦25年6月建武元年六月己未、即位の直後に「大赦天下」(建元して建武とするのと同時)。
反乱鎮圧26年1月真定王劉楊・臨邑侯讓の謀反

首謀者: 真定王劉楊・臨邑侯讓

結果: 前将軍耿純により誅殺された

建武二年(正月頃)「真定王楊、臨邑侯讓謀反、遣前将軍耿純誅之。」劉楊は郭皇后の伯父で河北に独自の軍事力を持つ有力者であったため実質的な武力蜂起の可能性が高いが、本紀の記述は簡潔で実際の交戦規模は不明。

被反乱26年1月真定王劉楊・臨邑侯讓の謀反

首謀者: 真定王劉楊・臨邑侯讓

結果: 前将軍耿純により誅殺された

反乱鎮圧回数と同一事件。変更なし。

反乱鎮圧26年2月〜29年2月彭寵の乱

首謀者: 彭寵(元・漁陽太守)

結果: 自立して燕王を称したが建武五年二月に自らの奴僕(蒼頭)に殺害され、漁陽平定

建武二年二月「漁陽太守彭寵反、攻幽州牧朱浮于薊。」建武三年三月「寵自立為燕王。」建武五年二月「彭寵為其蒼頭所殺、漁陽平。」

被反乱26年2月〜29年2月彭寵の乱

首謀者: 彭寵(元・漁陽太守)

結果: 自立して燕王を称したが自らの奴僕に殺害され、漁陽平定

反乱鎮圧回数と同一事件。変更なし。

大赦26年3月建武二年三月乙未、「大赦天下,詔曰:頃獄多冤人,用刑深刻,朕甚愍之…」。

建武二年三月乙未、「大赦天下,詔曰:頃獄多冤人,用刑深刻,朕甚愍之…」。冤罪・過酷な刑罰を憂いての大赦。

大赦26年6月建武二年六月戊戌、「立貴人郭氏為皇后,子彊為皇太子,大赦天下」。

建武二年六月戊戌、「立貴人郭氏為皇后,子彊為皇太子,大赦天下」。郭皇后冊立・劉彊立太子と同時の大赦。

立后26年6月建武二年六月戊戌、「立貴人郭氏為皇后,子彊為皇太子,大赦天下」。

建武二年六月戊戌、「立貴人郭氏為皇后,子彊為皇太子,大赦天下」。郭聖通を皇后に立てる。

親征26年8月五校(別号諸賊、独立群雄・未服属)

対象: 五校(別号諸賊、独立群雄・未服属)

結果: 大破し降した

建武二年秋八月「帝自将征五校。丙辰、幸内黄、大破五校于羛阳、降之。」同月中に決着。

反乱鎮圧26年8月〜27年4月鄧奉の乱

首謀者: 鄧奉(元・破虜将軍)

結果: 建武三年四月に小長安で大破され斬殺

建武二年秋八月「破虜将軍鄧奉拠淯陽反。」建武三年夏四月「大破鄧奉于小長安、斬之。」帝自身も三月から親征した。

被反乱26年8月〜27年4月鄧奉の乱

首謀者: 鄧奉(元・破虜将軍)

結果: 帝自ら親征し小長安で大破・斬殺

反乱鎮圧回数・親征回数のいずれとも同一事件。変更なし。

大赦27年1月建武三年正月壬午、「大赦天下」。

建武三年正月壬午、「大赦天下」。馮異を征西大将軍とした直後の記事。

親征27年2月赤眉残党(独立群雄・未服属)

対象: 赤眉残党(独立群雄・未服属)

結果: 赤眉君臣が面縛して降伏、伝国璽綬を得た

建武三年閏月「冯異与赤眉戦于崤底、大破之、余衆南向宜陽、帝自将征之。己亥、幸宜陽。甲辰、親勒六軍…丙午、赤眉君臣面縛、奉高皇帝璽綬」。閏月の西暦月への厳密な換算はできないため2月と概算し、datePrecisionはmonthとしたが実際は閏正月相当の可能性がある。

親征27年3月〜27年4月邓奉(元・破虜将軍、既に服属していた漢の武将による反乱)

対象: 邓奉(元・破虜将軍、既に服属していた漢の武将による反乱)

結果: 小長安で大破し斬殺

建武三年三月壬寅の記事に続き「彭寵陥薊城、寵自立為燕王。帝自将征邓奉、幸堵陽。夏四月、大破邓奉于小長安、斬之。」反乱鎮圧回数の邓奉の乱と同一事件。

大赦27年6月建武三年六月壬戌、「大赦天下」。

建武三年六月壬戌、「大赦天下」。赤眉降伏・伝国璽奪還の直後。

反乱鎮圧27年11月〜28年5月張豐の乱

首謀者: 張豐(涿郡太守)

結果: 建武四年五月、祭遵らに討たれ斬られた

建武三年十一月「涿郡太守張豐反。」建武四年五月「遣征虜将軍祭遵率四将軍討張豐于涿郡、斬豐。」

被反乱27年11月〜28年5月張豐の乱

首謀者: 張豐(涿郡太守)

結果: 祭遵らに討たれ斬られた

反乱鎮圧回数と同一事件。変更なし。

大赦28年1月建武四年正月甲申、「大赦天下」。
大赦29年2月建武五年二月丙午、「大赦天下」。
反乱鎮圧29年3月〜30年2月龐萌の乱

首謀者: 龐萌(元・平狄将軍)

結果: 董憲に合流したが建武六年二月に呉漢により董憲ともども捕らえられ、山東平定

建武五年三月「平狄将軍龐萌反、殺楚郡太守孫萌而東附董憲。」建武六年二月「大司馬呉漢拔朐、獲董憲・龐萌、山東悉平。」帝自身も六年(原文では五年)六月に桃城救援で親征した。

被反乱29年3月〜30年2月龐萌の乱

首謀者: 龐萌(元・平狄将軍)

結果: 董憲に合流したが最終的に捕らえられ、山東平定

反乱鎮圧回数・親征回数のいずれとも関連する事件。変更なし。

親征29年6月庞萌・蘇茂(庞萌は元・平狄将軍で既に服属していた漢の武将による反乱、蘇茂は更始配下から続く未服属の群雄勢力)

対象: 庞萌・蘇茂(庞萌は元・平狄将軍で既に服属していた漢の武将による反乱、蘇茂は更始配下から続く未服属の群雄勢力)

結果: 桃城を救援し庞萌らを大破

建武五年六月「而庞萌・蘇茂囲桃城。帝時幸蒙、因自将征之。先理兵任城、乃進救桃城、大破萌等。」反乱鎮圧回数の庞萌の乱と同一事件(桃城救援の段階のみ)。

反乱鎮圧30年楽浪王調の乱

首謀者: 王調(楽浪人)

結果: 楽浪太守王遵の討伐を受け、郡吏が王調を殺害して降伏

建武六年「初、楽浪人王調拠郡不服。秋、遣楽浪太守王遵撃之、郡吏殺調降。」同年秋九月の詔に「赦楽浪謀反大逆殊死已下」とあり、正式に「謀反大逆」と扱われている。王調に民族的出自を示す語(蛮・夷等)は付されていないため服属していた地方官・有力者の反乱として扱った。

被反乱30年楽浪王調の乱

首謀者: 王調(楽浪人)

結果: 楽浪太守の討伐を受け、郡吏が王調を殺害して降伏

反乱鎮圧回数と同一事件。詔で「謀反大逆」と明記される。変更なし。

大赦31年4月建武七年夏四月壬午、「詔曰:比陰陽錯謬,日月薄食。

建武七年夏四月壬午、「詔曰:比陰陽錯謬,日月薄食。百姓有過,在予一人,大赦天下」。同年三月の日食を承けての引責の大赦。

反乱鎮圧32年河東守兵の叛乱

首謀者: 不詳(河東の郡兵)

結果: 詳細不明。本紀にはこれ以上の記述なし

建武八年「潁川盗賊寇没属県、河東守守兵亦叛、京師騒動。」既に服属していた漢の郡兵自体の反乱と読めるが、鎮圧経緯・結末が本紀に一切記されず、confidence低め。

被反乱32年河東守兵の叛乱

首謀者: 不詳(河東の郡兵)

結果: 詳細不明

反乱鎮圧回数と同一事件。結末が本紀に記されないため確認できない。変更なし。

親征32年5月〜32年9月隗囂(独立群雄・西州大将軍を自称し後に漢に反した勢力、本タスク指示により統一戦争扱い)

対象: 隗囂(独立群雄・西州大将軍を自称し後に漢に反した勢力、本タスク指示により統一戦争扱い)

結果: 隴右が崩壊し隗囂は西城に敗走、上邽まで進んだが未降伏のまま帝は帰還

建武八年「閏月、帝自征囂、河西大将軍竇融率五郡太守与車駕会高平。隴右潰、隗囂奔西城…進幸上邽、不降…八月、帝自上邽晨夜東馳。九月乙卯、車駕還宮。」閏月の具体月は特定困難のため5月と概算。

反乱鎮圧32年5月〜32年9月潁川盗賊の蜂起

首謀者: 不詳(潁川郡内の盗賊)

結果: 建武八年九月、帝自ら親征し全員降伏

建武八年「隗囂攻来歙、不能下。」の頃「潁川盗賊寇没属県、河東守守兵亦叛、京師騒動。」九月「庚申、帝自征潁川盗賊、皆降。」開始時期は隗囂親征中(閏月頃)とみられるが本紀に明記されないため概算。

被反乱32年5月〜32年9月潁川盗賊の蜂起

首謀者: 不詳(潁川郡内の盗賊)

結果: 帝自ら親征し全員降伏

反乱鎮圧回数・親征回数のいずれとも同一事件。変更なし。

親征32年9月潁川盗賊(既に服属していた漢の郡県内の武装蜂起)

対象: 潁川盗賊(既に服属していた漢の郡県内の武装蜂起)

結果: 全員降伏

建武八年九月「庚申、帝自征潁川盗賊、皆降。」反乱鎮圧回数の潁川盗賊と同一事件。

反乱鎮圧32年9月張歩の再叛(琅邪への逃亡蜂起)

首謀者: 張歩(安丘侯)

結果: 琅邪太守陳俊により討たれ捕らえられた

建武八年九月「安丘侯張歩叛帰琅邪、琅邪太守陳俊討獲之。」張歩は建武五年に既に降伏して安丘侯に封じられていた(=既に服属していた)ため、初回自立時(統一戦争扱い)とは別に反乱として計上した。

被反乱32年9月張歩の再叛(琅邪への逃亡蜂起)

首謀者: 張歩(安丘侯)

結果: 琅邪太守陳俊により討たれ捕らえられた

反乱鎮圧回数と同一事件。張歩は既に降伏し安丘侯に封じられていた。変更なし。

親征35年6月〜35年8月公孫述(独立群雄・巴蜀に自立し天子を称した勢力、統一戦争扱い)

対象: 公孫述(独立群雄・巴蜀に自立し天子を称した勢力、統一戦争扱い)

結果: 帝自身は長安まで進駐し諸将(岑彭・臧宮ら)が戦果を挙げた後、八月に帰還(成都陥落・公孫述討滅は建武十二年、将軍のみによる別の遠征)

建武十一年六月「安遣間人刺殺中郎将来歙。帝自将征公孫述。秋七月、次長安。八月…至自長安。」

反乱鎮圧40年2月〜43年4月交阯・徴側(微側)の反乱

首謀者: 微側(徴側、交阯の女性首長)

結果: 建武十九年、伏波将軍馬援により斬殺され鎮圧

建武十六年二月「交阯女子微側反、略有城邑。」建武十八年四月に馬援らを派遣、建武十九年「伏波将軍馬援破交阯、斬微側等。因撃破九真賊都陽等、降之。」交阯は前漢武帝以来の郡県だが辺境の異民族(越人)による蜂起のため、被反乱回数には含めない方針とした(下記note参照)。

被反乱40年2月〜43年4月交阯・徴側(微側)の反乱

首謀者: 微側(徴側、交阯の女性首長)

結果: 建武十九年、伏波将軍馬援により斬殺され鎮圧

【新規追加】反乱鎮圧回数と同一事件。交阯は前漢武帝以来の郡県であり、微側は郡県支配下の服属民(越人)による武装蜂起(挙兵)であるため、2026-07-16基準訂正に基づき追加した。

反乱鎮圧41年7月〜41年9月妖巫李広の皖城蜂起

首謀者: 李広

結果: 建武十七年九月、皖城を破り李広らを斬殺

建武十七年秋七月「妖巫李広等群起拠皖城」、九月「破皖城、斬李広等。」廬江郡内(漢の中核統治領域)での蜂起。

被反乱41年7月〜41年9月妖巫李広の皖城蜂起

首謀者: 李広

結果: 皖城を破り李広らを斬殺

反乱鎮圧回数と同一事件。廬江郡(漢の中核統治領域)での蜂起。変更なし。

立后41年10月建武十七年冬十月辛巳、「廢皇后郭氏為中山太后,立貴人陰氏為皇后」。

建武十七年冬十月辛巳、「廢皇后郭氏為中山太后,立貴人陰氏為皇后」。郭皇后を廃し、陰麗華を皇后に立てる。

反乱鎮圧42年2月〜42年7月史歆の乱

首謀者: 史歆(蜀郡守将)

結果: 建武十八年秋七月、呉漢が成都を落とし史歆らを斬殺

建武十八年春二月「蜀郡守将史歆叛、遣大司馬呉漢率二将軍討之、囲成都。」秋七月「呉漢拔成都、斬史歆等。」既に漢の郡県として編入されていた旧公孫述領内の守将による反乱。

被反乱42年2月〜42年7月史歆の乱

首謀者: 史歆(蜀郡守将)

結果: 呉漢が成都を落とし史歆らを斬殺

反乱鎮圧回数と同一事件。既に漢の郡県として編入されていた地の守将による反乱。変更なし。

反乱鎮圧43年妖巫単臣・傅鎮の原武蜂起

首謀者: 単臣・傅鎮

結果: 建武十九年夏四月、原武を落とし単臣・傅鎮らを斬殺

建武十九年「妖巫単臣・傅鎮等反、拠原武、遣太中大夫臧宮囲之。夏四月、拔原武、斬臣・鎮等。」開始時期は正月直後〜四月の間で本紀に明記されないため年精度とした。

被反乱43年妖巫単臣・傅鎮の原武蜂起

首謀者: 単臣・傅鎮

結果: 原武を落とし単臣・傅鎮らを斬殺

反乱鎮圧回数と同一事件。変更なし。

皇太子廃立43年6月建武十九年六月戊申、詔に曰く「春秋之義,立子以貴。

建武十九年六月戊申、詔に曰く「春秋之義,立子以貴。東海王陽,皇后之子,宜承大統。皇太子彊,崇執謙退,願備藩國。父子之情,重乆違之。其以彊為東海王,立陽為皇太子,改名莊。」皇太子彊を廃して東海王とし、陽(後の明帝劉荘)を皇太子に立てた。

反乱鎮圧45年4月安定属国胡の叛乱

首謀者: 不詳(安定属国の胡人)

結果: 将兵長史陳が討ち平定

建武二十一年夏四月「安定属国胡叛、屯聚青山、遣将兵長史陳討平之。」「属国」は既に服属した異民族の統治単位であり、設問の「郡県支配下・服属下にあった集団」に明確に該当するため反乱として計上したが、辺境異民族のため被反乱回数には含めない方針とした。

被反乱45年4月安定属国胡の叛乱

首謀者: 不詳(安定属国の胡人)

結果: 将兵長史陳が討ち平定

【新規追加】反乱鎮圧回数と同一事件。属国は既に服属した異民族の統治単位であり、2026-07-16基準訂正(属国の異民族による蜂起は服属民の反乱として両方に含める)に基づき追加した。

反乱鎮圧47年1月南郡蛮の叛乱

首謀者: 不詳(南郡蛮)

結果: 武将軍劉尚が討破し、その種人を江夏に移した

建武二十三年春正月「南郡蛮叛、遣武将軍劉尚討破之、徒其種人于江夏。」南郡は漢の郡県、蛮は郡内の服属異民族。

被反乱47年1月南郡蛮の叛乱

首謀者: 不詳(南郡蛮)

結果: 武将軍劉尚が討破し、その種人を江夏に移した

【新規追加】反乱鎮圧回数と同一事件。南郡は漢の郡県、蛮は郡内の服属異民族であり、2026-07-16基準訂正に基づき追加した。

反乱鎮圧47年12月〜49年10月武陵蛮の叛乱

首謀者: 不詳(武陵蛮)

結果: 当初は劉尚が沅水で敗死したが、後に伏波将軍馬援らが破り、建武二十五年十月に全て降伏

建武二十三年十二月「武陵蛮叛、寇掠郡県、遣劉尚討之、戦于沅水、尚軍敗殁。」建武二十四年秋、馬援らを増派。建武二十五年「馬援等破武陵蛮于臨沅。冬十月、叛蛮悉降。」

被反乱47年12月〜49年10月武陵蛮の叛乱

首謀者: 不詳(武陵蛮)

結果: 当初は劉尚が沅水で敗死したが、後に伏波将軍馬援らが破り、建武二十五年十月に全て降伏

【新規追加】反乱鎮圧回数と同一事件。武陵は漢の郡県、蛮は郡内の服属異民族であり、2026-07-16基準訂正に基づき追加した。

大赦48年1月建武二十四年春正月乙亥、「大赦天下」。
反乱鎮圧56年参狼羌の武都侵寇・鎮圧

首謀者: 不詳(参狼羌)

結果: 郡兵が最終的に「叛羌」を撃破

中元元年「参狼羌寇武都、敗郡兵、隴西太守劉盱遣軍救之、及武都郡兵討叛羌、皆破之。」建武十二年に馬援が参狼羌を初めて服属させた記録(「討降之」)があり、本件はその後の再蜂起として「叛羌」と明記されているため反乱として計上した。辺境異民族のため被反乱回数には含めない。

被反乱56年参狼羌の武都侵寇・鎮圧

首謀者: 不詳(参狼羌)

結果: 郡兵が最終的に「叛羌」を撃破

【新規追加】反乱鎮圧回数と同一事件。建武十二年に馬援により一度服属した参狼羌が再蜂起した「叛羌」であり、2026-07-16基準訂正に基づき追加した。

改元56年4月建武三十二年(=中元元年)四月己卯、泰山での封禅の儀(二月己卯~甲午)の後、「大赦天下…改年為中元」。

建武三十二年(=中元元年)四月己卯、泰山での封禅の儀(二月己卯~甲午)の後、「大赦天下…改年為中元」。建武32年間続いた年号を中元に改めた。「中元」は『後漢書』本紀での表記で、祭祀志・東夷伝では「建武中元」とも記される。

大赦56年4月中元元年夏四月己卯、泰山での封禅の儀の後、「大赦天下。

中元元年夏四月己卯、泰山での封禅の儀の後、「大赦天下。復嬴、博、梁父、奉高,勿出今年田租芻稾。改年為中元」。改元と同時の大赦。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。