公孫述の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 蜀王24年〜25年
- 皇帝25年〜36年12月24日
- 没年
- 36年12月24日年齢不詳
- 死因
- 戦死戦いの中での死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因8人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓公孫諱述字子陽呼び名の見方
出典
- 在位
- 後漢書 巻十三 隗囂公孫述列傳
- 死因
- 後漢書 隗囂公孫述列傳
- 即位経路
- 後漢書 隗囂公孫述列傳
生涯
どんな皇帝か
後漢書の論は、外見を飾って奥深さに安んじたと批判しつつ、臣下の降伏の勧めを退けて興廃の命をわきまえた点は降った者とは別だとする。
即位まで
扶風茂陵の人で、哀帝のときに郎となり、のち清水長になると、父の付けた門下掾はひと月余りで、教えを待つ者ではないと報告した。更始帝が立つと、自ら迎え入れた宗成らが成都で略奪したので、豪傑を集め、人に漢の使者を装わせて印綬官職や爵位を示す印とそれを下げるひもを自らに授けさせてから、宗成らを破った。24年には蜀王を称して成都に都した。李熊に帝位を勧められると帝王には天命があると一度は答えたが、殿中皇帝の宮殿の内に龍が出たのを瑞祥良いことが起こる前ぶれとされたしるしとし、掌に公孫帝と刻んだ。25年に天子を称して国号を成家とし、龍興と建元元号を新しく立てること。またその名の元号した。
史料について
国号の成家は後漢書の公孫述の伝による。華陽国志は国号を大成とする。
治世と最期
出入りに天子の車と旗を連ね、旧友の馬援は井の底の蛙にすぎないと隗囂に告げた。小事に目ざとく誅殺をためらわないが大局を見ず、公孫氏ばかり用いて大臣に怨まれた。銅銭を廃して鉄銭を置くと貨幣が通らなくなった。讖記未来を予言する言葉を記した書を引いた書をたびたび送ると、光武帝は図讖未来を予言するとされた図や文書の公孫とは宣帝のことだと反駁した。
32年、救援の軍が隗囂とともに敗れて蜀が動揺すると、空の倉から穀物が出たと人に偽って言わせ、群臣に問うて皆が無いと答えると、隗王の敗北も同じ噂だと言った。35年、光武帝の書を読んで嘆息したが、降伏を勧める常少・張隆には降る天子などあろうかと答え、刺客に岑彭を殺させた。36年には弟の公孫恢が戦死し、離反する将帥の家族を誅しても止められなかった。
呉漢が成都を囲むと決死の士を募って破ったが、占書の言葉を呉漢らの死の予言と喜んで出撃し、胸を刺されて城に担ぎ込まれ、その夜に死んだ。呉漢は公孫述の妻子と一族を滅ぼして宮室を焼き、光武帝は怒って呉漢を責めた。
史料について
最期の場面は公孫述の伝による。呉漢伝は刺したのを護軍軍の将たちを取りまとめ、見張る役の武官の高午とし、華陽国志は頭を刺されてその場で首を取られたとして、城へ運ばれた話が無い。
公孫述とつながる皇帝
在位中の出来事
親征1・改元1
- 改元25年5月元号を「龍興」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。36年12月24日呉漢率いる漢軍(成都攻囲軍)
年表
新・
成家が