中国皇帝統計

公孫述

成家(新〜後漢初)|在位 25–36年

諱(本名)
公孫述
在位
25–36年
在位期間
11年256日365名中116位
即位経路
建国
死因
戦死
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

蜀の地で「公孫帝」の符瑞(掌の文様等)を口実に、先行政権からの継承なく自立して皇帝を称した。原文:「会有龙出其府殿中,夜有光耀,述以为符瑞,因刻其掌,文曰『公孙帝』。建武元年四月,遂自立为天子,号成家。色尚白。建元曰龙兴元年」(後漢書・隗囂公孫述列傳)。「遂自立为天子」と明記され、先帝・先王朝からの譲位や擁立ではなく自ら新政権「成家」を樹立して即位しているため建国に分類。

出典: 後漢書 隗囂公孫述列傳

死因の経緯

成都陥落戦において自ら数万の兵を率いて呉漢軍を攻撃中、兵が総崩れとなり胸を刺されて落馬(「述兵大亂,被刺洞胸,墯馬」)。側近に城内へ運ばれたが指揮を延岑に託し、その夜死去した(「述以兵屬延岑,其夜死」)。翌朝、延岑が降伏し成家は滅亡。戦闘中の負傷が直接の死因のため戦死に分類。

出典: 後漢書 隗囂公孫述列傳

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位時の建元「龍興元年」の1回のみ確認。以後の改元記事なし。

大赦回数

『後漢書』隗囂公孫述列傳(公孫述部分)を通読したが「大赦」「大赦天下」の語を含む記事は見当たらなかった。在位25年〜36年の史料は比較的詳細(諸戦役・上表・詔書等を含む)だが、大赦に関する記録は確認できず、count:0とする。他の正史(『東觀漢記』等)に断片的な補足記事がある可能性は排除できないため確信度はmediumとした。

立后回数

『後漢書』隗囂公孫述列傳(公孫述部分)を通読したが、皇后として正式に冊立された記事は見当たらない。「述夢有人語之曰…覺,謂其妻曰」のように「妻」への言及はあるが、これは即位前の記述で皇后冊立の記事ではない。count:0とする。

皇太子廃立回数

公孫述が皇太子を立てたという記述自体が列伝中に見当たらない。『後漢書』隗囂公孫述列傳に「又立其兩子為王,食犍為、廣漢各數縣」(二人の子を王に封じ、犍為・広漢の数県を食邑とした)との記事はあるが、皇太子册立の記事はなく、従って廃立の記録も存在しない。count:0とする。

親征回数

『後漢書』隗囂公孫述列傳(公孫述部分)を通読。在位中(建武元年四月〜十二年十一月)に「述」自身が出陣したと明記される記述は成都陥落戦の最終局面(十一月)のみ。他の軍事行動(李育・程烏・任滿・田戎・延岑らの派遣、王元らの防衛戦等)はすべて「述遣」「使」等、将軍への派遣であり皇帝本人の出陣を示す語はない。

反乱鎮圧回数

該当記事なし。在位中、公孫述配下の将による具体的な首謀者・蜂起地点を伴う反乱・謀反の鎮圧記事は列伝中に見当たらない。なお建武十二年、弟の恢と娘婿の史興が呉漢・臧宮に敗死した後、「自是將帥恐懼,日夜離叛,述雖誅滅其家,猶不能禁」(諸将帥が恐れをなし日夜離反し、述はその一族を誅殺したが止められなかった)との記述があるが、これは特定の首謀者・蜂起地点を伴う組織的な反乱ではなく、漢軍の攻勢による将帥の個別的な逃亡・寝返りの一般的傾向を述べたものであり、かつ述側が「誅滅」したのは離反者の一族であって反乱そのものを鎮圧した記述ではないため、本カウントには含めなかった。confidenceはmediumとし、この境界事例をnoteに明記する。

被反乱回数

該当記事なし。在位中、公孫述配下による組織的・兵力を伴う離反・弑逆の記事は見当たらない。境界事例として以下2点を検討し、いずれも不採用とした。(1) 建武十一年、岑彭の攻撃を受けた際に「滿等大敗,述將王政斬滿首降於彭」(述の将・任滿がその部下の王政に斬首され、王政は岑彭に降伏した)とあるが、これは漢軍との交戦中の敗北局面での個別的な裏切り・投降であり、対等勢力(漢)との統一戦争の最中に生じた事象で、独立した首謀者による対皇帝反乱とは性質が異なるため除外した。(2) 建武十二年の「將帥恐懼,日夜離叛」も同様に、組織的な反乱というより漢軍の攻勢下での個別的な逃亡・投降の連鎖であり、特定の首謀者・蜂起地点を特定できないため除外した。いずれも境界事例のためconfidenceはmediumとした。

遷都回数

更始2年(24年)の成都定都(建国時の定都)から建武12年(36年)の滅亡まで成都が一貫した都。漢中南鄭の宮殿造営は前線拠点整備で主都移転ではない。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(deathCause/accessionRoute/reignData等)および_corpus_cache/gongsun-shu.txt(『後漢書』隗囂公孫述列傳、全19行)を通読したが、生年月日・享年・即位時年齢の直接記載は見当たらなかった。「哀帝時、以父任為郎…仁以述年少」との記述はあるが具体的年齢数値を伴わず、年号年ラベルとの照合による逆算も不可能なため、accessionAge・deathAgeともにnullとする。deathDateはreigns[0].endDate(0036-12-24、成都陥落戦での負傷によりその夜死去)と一致。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元25年4月建武元年(25年)四月、公孫述は蜀にて自立して天子となり、国号を「成家」とし(『後漢書』隗囂公孫述列傳:「建武元年四月,遂自立為天子,號成家。

建武元年(25年)四月、公孫述は蜀にて自立して天子となり、国号を「成家」とし(『後漢書』隗囂公孫述列傳:「建武元年四月,遂自立為天子,號成家。色尚白。建元曰龍興元年。」)、即位と同時に建元して「龍興元年」とした。以後、36年に成都陥落・敗死するまで、原文を通読した限り別の年号への改元記事は見当たらない。

親征36年12月24日呉漢率いる漢軍(成都攻囲軍)

対象: 呉漢率いる漢軍(成都攻囲軍)

結果: 敗死

建武十二年十一月(旧暦、西暦0036-12-24)、臧宮軍が成都咸門に至ると、公孫述は自ら数万の兵を率いて呉漢軍を攻撃し、延岑に命じて臧宮を防がせた(原文:「乃自將數萬人攻漢,使延岑拒宮」)。大戦の末、呉漢軍の壮士の突撃により述軍は総崩れとなり、述自身も胸を刺され落馬、指揮を延岑に託してその夜死去した(「述兵大亂,被刺洞胸,墯馬。左右輿入城。述以兵屬延岑,其夜死」)。原文に明確な「自將」の語があり、皇帝本人が出陣して指揮した唯一の事例。これに先立つ同年九月の反撃戦(呉漢軍を背後から奇襲した戦い)は「述謂延岑曰…述乃悉散金帛,募敢死士五千餘人,以配岑於市橋」とあり、指揮は延岑に委ねられ述自身の出陣は明記されていないため、この9月の戦闘は親征に含めず、同一の成都籠城戦の一環として11月の自将出撃のみを1回とカウントした。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。