中国皇帝統計

建世帝

漢・赤眉軍(新〜後漢初)|在位 25–27年

諱(本名)
劉盆子
在位
25–27年
在位期間
1年273日365名中273位
即位経路
擁立
死因
不詳
即位時年齢
15歳(数え年)172名中・若い順48位タイ
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

赤眉軍の樊崇らが、更始帝の混乱に乗じ長安を攻めるにあたり「今将军拥百万之众,西向帝城,而无称号,名为群贼,不可以久。不如立宗室」との進言を受け入れ、城陽景王(劉章)の後裔である軍中の少年を探索。城陽景王を祀る祭壇を設け、上将軍の符を引かせるくじ引きにより劉盆子(当時15歳、牛飼いの雑用係)が選ばれた。原文:「六月,遂立盆子为帝,自号建世元年」「盆子最幼,后探得符,诸将乃皆称臣拜。盆子时年十五,被发徒跣,敝衣赭汗,见众拜,恐畏欲啼」(後漢書・劉玄劉盆子列傳)。本人の主体的意思は皆無で、赤眉軍幹部による完全な擁立(傀儡的即位)。

出典: 後漢書 劉玄劉盆子列傳

死因の経緯

光武帝に降伏後、憐れみを受けて趙王劉良の郎中に任じられ厚遇された。『後漢書』劉玄劉盆子列伝に「後病失明,賜滎陽均輸官地,以為列肆,使食其稅終身」(後年病で失明し、滎陽の官有地を与えられ、その税収で生涯扶養された)とあるが、いつ・どのように死去したかの記述は原典に見当たらない。処刑・暗殺を示す記述はなく、少なくとも降伏後は平穏な晩年を送ったとみられる。

出典: 後漢書 劉玄劉盆子列傳

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位に伴う建元(建世元年)のみが原文に確認でき、在位中に他の改元記事は見当たらない。

大赦回数

『後漢書』劉玄劉盆子列傳の原文には劉盆子(建世帝)在位中の「大赦天下」等の全国規模の恩赦記事は見当たらない。赤眉軍の傀儡皇帝で、丞相徐宣ら幹部の人事(御史大夫・左右大司馬・列卿の任命)は記録されるが、大赦の記述はない。

立后回数

『後漢書』劉玄劉盆子列傳に皇后冊立の記事は見当たらない。劉盆子は擁立時15歳で赤眉軍の傀儡であり、丞相徐宣ら幹部人事の記述はあるが立后に関する記述は一切ない。

皇太子廃立回数

皇太子を立てた記事自体が原文に存在せず、当然その廃立の記事もない。傀儡皇帝であり在位も約2年と短く、通常の国家儀礼(立太子等)が行われた形跡がない。

親征回数

原文に「盆子乘王车,驾三马,从数百骑。乃自南山转掠城邑,与更始将军严春战于郿,破春,杀之,遂入安定、北地」等の記述はあるが、これは赤眉軍全体の移動・略奪を象徴的な皇帝(王車に乗るのみ)として描いたものであり、「帝自将」「自将」のような盆子本人が指揮して出陣したことを示す文言は原文中に一切見られない。実権は樊崇・逄安・徐宣・謝禄ら赤眉諸将が握り、対延岑戦・対鄧禹戦(郁夷・槀街・杜陵の戦い)などいずれも樊崇・逄安・謝禄が直接指揮しており、盆子は「唯盆子与羸弱居城中」と記されるなど守城に留め置かれる存在だった。よって親征回数は0とする。

反乱鎮圧回数

該当記事なし。腊日の宴会で「兵众遂各逾宫斩关,入掠酒肉,互相杀伤」という将兵間の乱闘・略奪が発生し、衛尉諸葛稚が「格杀百余人」して鎮定した記述があるが、これは独立した首謀者・蜂起地点を伴う組織的な反乱ではなく、酒宴の混乱に伴う兵士間の私闘・略奪であり、盆子の廃位・打倒を目的としたものではない。厳密な意味での「反乱鎮圧」には該当しないと判断し0件とした(境界事例のためconfidence: medium)。なお建武二年正朔に劉恭が盆子に譲位を進言し、盆子自身も一度玺綬を解いて辞位を申し出た場面があるが、これは樊崇ら諸将が涙を流して慰留し「因共抱持盆子,带以玺绶」と続投させた結果であり、武力による廃位・クーデターではなく反乱に該当しない。

被反乱回数

該当記事なし。原文(後漢書 劉玄劉盆子列伝)を精査したが、赤眉軍内部で劉盆子自身の廃位・打倒を狙った軍事的反乱・クーデターを示す記述は見当たらない。腊日の乱闘("兵众遂各逾宫斩关,入掠酒肉,互相杀伤")は将兵間の私闘・略奪であり、特定の首謀者が政権打倒を掲げて挙兵したものではなく反乱に該当しない。建武二年正朔の譲位騒動も武力を伴わない言辞上の出来事。光武帝陣営(鄧禹・馮異・耿弇ら)や更始配下(厳春)・延岑・李宝との抗争は、劉盆子政権に服属していない対等な群雄同士の統一戦争であり除外。降伏後の"其夏,樊崇、逄安谋反,诛死"は建武三年正月の光武帝への降伏(在位終了)より後、盆子が趙王郎中という一臣下の身分になってからの出来事で、対象も光武帝であり在位中の被反乱には含めない。

遷都回数

更始3年(25年)の長安占領が事実上の建国時の定都にあたり、建武3年(27年)の降伏まで長安(桂宮等)が拠点であり続けた。一時的な西方出撃はあったが同年中に帰還。

即位時年齢・没年齢

『後漢書』劉玄劉盆子列傳に即位時年齢の直接記載あり:「盆子時年十五」(建世元年=25年、赤眉軍に擁立され即位した時点、数え年)。この直接記載から生年を逆算すると25-15+1=11年(後漢建武以前、王莽期)となるため、birthDateは0011-01-01(precision: year、月日不詳)とした。没年齢・没年月日については、列伝に「後病失明,賜滎陽均輸官地,以為列肆,使食其税終身」(後年病で失明し、滎陽の官有地を与えられ、その税収で生涯扶養された)とあるのみで、具体的な没年・享年の直接記載は原典に見当たらない。deathCause.noteの調査結果とも一致し、調査済みだが不明として null のまま確定する。

在位中の出来事(1件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元日付不詳25年6月、赤眉軍に擁立され即位すると同時に建元。

25年6月、赤眉軍に擁立され即位すると同時に建元。原文:「六月,遂立盆子爲帝,自號建世元年」(『後漢書』劉玄劉盆子列傳)。以後27年の投降・退位までこの「建世」の年号を改めた記録はなく、改元は即位時の1回のみ。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。