赤眉の軍中で牛飼いをしていたところをくじ引きで選ばれ、15歳で帝に立てられた城陽景王の後裔である。
建世帝の人物データ
- 生年
- 11年
- 在位
- 25年〜27年3月15日
- 没年
- 不詳
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 即位経路
- 推戴先の君主から位を受けず、まわりの人々に皇帝に立てられた即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓劉諱盆子呼び名の見方
出典
- 在位
- 後漢書 巻十一 劉玄劉盆子列傳(即位)/後漢書 巻一上 光武帝紀(降伏の日次)
- 死因
- 後漢書 劉玄劉盆子列傳
- 即位経路
- 後漢書 劉玄劉盆子列傳
生涯
どんな皇帝か
樊崇らに子ども扱いされて実権は無く、27年に光武帝に降った。
即位まで
王莽に国を除かれた式侯の家の子で、赤眉に兄の劉恭・劉茂とともに連れ去られ、軍中で牛を飼って牛吏と呼ばれた。樊崇らは軍中にいた城陽景王の後裔から最も血筋の近い三人を選んで札を年の順に引かせ、最年少の劉盆子が最後に当たりを引いた。25年、建世と号して帝に立てられたが、ぼろをまとった裸足の少年は拝されて泣き出しそうになり、兄の劉茂に札をしまっておくよう言われると、札を噛み折って捨てた。帝となってもなお牛飼いの少年たちと遊び回った。
史料について
牛飼いの少年と遊んだ話は、後漢書は遊び回ったとだけ書き、資治通鑑は、遊びに出ようとすると劉侠卿に叱られて止められたとする。
治世と最期
同じ年に赤眉は長安に入り、更始帝は劉盆子に玉璽皇帝の印。皇帝の位のしるしと綬を奉って降った。宮中では諸将が功を争い、宴も席が乱れ、楊音が子どもの遊びでもこうではないと罵り、ついには乱闘となった。劉盆子は恐れて日夜泣いた。後宮には閉じ込められた宮女が数百から千人いた。もと甘泉宮の楽人たちが叩頭して飢えを訴えると、一人数斗ずつ米を与えさせたが、劉盆子が長安を去った後、後宮の者はみな餓死した。
26年の元日の大会で、兄の劉恭の教えにより玉璽と綬を解き、自分のような者が立てられたためだと退位を願って泣いた。樊崇らは詫びて再び身に帯びさせ、三輔の人々は天子を聡明だと称えた。赤眉はやがて略奪を再開し、宮室を焼いて長安を去った。
27年、宜陽で光武帝の大軍に遭うと、樊崇が劉盆子らを連れ、肌脱ぎして降った。死罪に当たるかと問われて赦しを乞うと、光武帝は笑って宗室君主と同じ一族の人々に愚か者はいないと言った。のちに光武帝は彼を憐れんで手厚く賞賜し、趙王の郎中君主のそばに仕えて守りなどをする役人とした。のちに病で失明し、滎陽の均輸官の地の税で終身暮らした。
史料について
乱れた宴を、劉盆子の伝は臘日の宴とし、後漢書の五行志は元日の宴のこととする。没年も死因も、後漢書・資治通鑑・後漢紀には書かれていない。
建世帝とつながる皇帝
在位中の出来事
改元1
- 改元25年元号を「建世」とする
年表
新・
漢・