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梁・後漢初(新・後漢初)第1代

劉永

在位 25–27年(2年)

日本は弥生時代

前漢の梁孝王の末裔で梁王の封を継ぎ、東方を押さえて、更始政権が崩れると天子を名乗ったが、光武帝の軍に追われて自分の部将に斬られた人物である。

劉永の人物データ

生年
不詳
在位
  • 25年〜27年
2年長い順261位/365人即位の年齢は不詳
没年
27年年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
—
次代
—
呼び名
姓劉諱永呼び名の見方

出典

在位
後漢書 巻一上 光武帝紀上(即位)/後漢書 巻十二 王劉張李彭盧列傳(死去経緯)
死因
後漢書 王劉張李彭盧列傳
即位経路
後漢書 王劉張李彭盧列傳

生涯

どんな皇帝か

後漢書は劉永自身の言葉を一つも載せず、論はこの巻の群雄をまとめて、時の混乱に乗じただけだが、にすがって歳月の間は持ちこたえたと評する。

即位まで

父の劉立は梁王の位を継いでいたが、平帝のの衛氏と交わったために王莽に誅された。更始帝が即位すると、劉永は洛陽へ赴いて梁王の封を継ぎ、睢陽を都とした。更始帝の政治が乱れたと聞くと国に拠って挙兵し、弟たちを将軍や王に任じ、二十八の城を得た。自分は更始帝に立てられた王だとして、強い兵を持つ張歩を将軍に任じ、張歩もその爵号を欲して受けた。董憲らと手を結んで東方を押さえ、更始帝が敗れると天子を自称した。

治世と最期

26年、光武帝のもとを離れた蘇茂が臣従してくると、・淮陽王とした。同じ年、光武帝の将の蓋延が睢陽を数か月囲み、夜に梯子で城に入ると、劉永は驚き懼れて東門から逃げ出した。逃れた先の虞では、背いた人々に母と妻子を殺された。敵方の伏隆のは、宗室の籍によって王となったのに満足を知らず詐りの反逆をなしたと劉永を責めた。

27年には張歩を斉王に立て、劉氏でなければ王にしないのが高祖の約束だと伏隆に諭された張歩も、劉永の封を受けた。同じ年、睢陽の人が城ごと背いて劉永を迎え入れたが、呉漢・蓋延に囲まれて食が尽き、逃れる途中で部将の慶吾に首を斬られた。

劉永の死後、蘇茂らは子の劉紆を梁王に立てた。張歩らが劉紆を天子に立てようとすると、王閎は、梁王が漢を奉じていたからこそ山東の多くが帰したのだと諫めた。29年、劉紆は行き場を失い、軍士の高扈に斬られた。

史料について

睢陽を逃れる場面は蓋延の伝により、虞で家族を殺された話は劉永の伝による。蓋延の伝は虞を経たことも家族の死も書かない。劉永を斬ったのを慶吾とするのは劉永の伝で、資治通鑑と後漢紀も同じだが、光武帝紀は蓋延が劉永を獲たとだけ書き、蓋延の伝も慶吾の名を出さない。劉紆を斬った高扈の名は劉永の伝にあり、光武帝紀は呉漢が劉紆を獲たとだけ書く。

劉永とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱2
  1. 反乱26年虞人の反乱
  2. 反乱27年慶吾の弑逆・降伏

年表

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梁・後漢初が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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