幼いころから聡明で評判が良かったが、即位後は寵臣の董賢に溺れ、病を抱えたまま世継ぎを残さずに没した前漢の皇帝である。
哀帝の人物データ
- 生年
- 前25年
- 在位
- 前7年5月7日〜前1年8月15日
- 没年
- 前1年8月15日25歳(数え年)長生き順同率208位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱欣呼び名の見方
出典
- 在位
- 漢書 巻十一 哀帝紀
- 死因
- 漢書・
哀帝紀 - 即位経路
- 漢書・
哀帝紀
生涯
どんな皇帝か
漢書哀帝紀の賛は、大臣をしばしば誅して君主の威を強めようとしたと記す。
即位まで
治世と最期
即位の年の詔で、鄭の音楽はみだらだとして楽府宮中の音楽を受け持った役所を廃させた。母方の丁氏と祖母方の傅氏が急に栄えたが、哀帝が与えた権勢は、成帝の世の王氏に及ばなかった。即位したころから痿痹の病を患い、晩年には重くなった。長患いの効き目を期待して夏賀良の説に従い、改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることして陳聖劉太平皇帝と名乗ったが、2か月で取り消した。
寵臣の董賢と寝起きを共にし、董賢が袖を下敷きに眠っていると、起こすまいとして袖を断ち切って起きた。董賢の妹を昭儀とし、自分の陵のそばに董賢の墓所を造らせた。前2年、董賢への加封領地や位をさらに増やして与えることの詔を封じて返した丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職の王嘉に怒って獄に下し、王嘉は食を断って血を吐いて死んだ。のちに王嘉の供述を読んで言葉を思い、孔光を丞相に戻した。同じ年、王嘉を憐れんだ母方のおじの丁明を退けて董賢を大司馬軍事をつかさどる、最高位の大臣の一つとした。酒宴で、堯が舜に位を譲ったのに倣いたいと董賢に言い、王閎に諫められた。
前1年に未央宮で没した。没後、王莽は太皇太后皇帝の祖母の代の后に贈る称号の指示として、董賢を、帝の病中に医薬に付き添わなかったと弾劾させた。
史料について
弾劾の言い分と違い、漢書の佞幸伝は、董賢が常に宮中に留まって医薬を見ていたと書く。病のほかの死因は、漢書にも資治通鑑にも見えない。
哀帝とつながる皇帝
在位中の出来事
皇后1・改元4・大赦4
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前7年5月哀帝即位。
- 皇后前7年6月皇后を立てる
- 改元前6年元号を「建平」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前6年
- 改元前5年元号を「太初元將」とする
- 改元前5年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前5年
- 改元前2年元号を「元寿」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前2年2月
前漢の歴代皇帝
歴代14人の一覧年表
秦・
前漢が