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前漢第13代

哀帝劉欣

在位 前7–前1年(6年100日)前7年5月7日 〜 前1年8月15日

日本は弥生時代

幼いころから聡明で評判が良かったが、即位後は寵臣の董賢に溺れ、病を抱えたまま世継ぎを残さずに没した前漢の皇帝である。

哀帝の人物データ

生年
前25年
在位
  • 前7年5月7日〜前1年8月15日
6年100日長い順166位/365人19歳で即位(数え年)
没年
前1年8月15日25歳(数え年)長生き順同率208位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 成帝前漢哀帝は成帝の甥
次代
  • 平帝前漢平帝は哀帝の従兄弟
呼び名
姓劉諱欣呼び名の見方

出典

在位
漢書 巻十一 哀帝紀
死因
漢書・哀帝紀
即位経路
漢書・哀帝紀

生涯

どんな皇帝か

漢書哀帝紀の賛は、大臣をしばしば誅して君主の威を強めようとしたと記す。

即位まで

元帝の孫で定陶恭王の子として3歳で定陶王を継ぎ、祖母の傅太后に自ら育てられた。成帝の前で従者の規定を法令で答え、詩経を誦して説いたので、成帝は何度もその才を称えた。祖母の傅太后が成帝の寵姫趙との王根に贈り物をし、二人も先を見越して後継ぎに推したこともあり、前8年に皇太子に立てられた。このときして、成帝に世継ぎが生まれたら国へ帰りたいと願った。前7年に成帝が没して即位した。

治世と最期

即位の年の詔で、鄭の音楽はみだらだとしてを廃させた。母方の丁氏と祖母方の傅氏が急に栄えたが、哀帝が与えた権勢は、成帝の世の王氏に及ばなかった。即位したころから痿痹の病を患い、晩年には重くなった。長患いの効き目を期待して夏賀良の説に従い、して陳聖劉太平皇帝と名乗ったが、2か月で取り消した。

寵臣の董賢と寝起きを共にし、董賢が袖を下敷きに眠っていると、起こすまいとして袖を断ち切って起きた。董賢の妹を昭儀とし、自分の陵のそばに董賢の墓所を造らせた。前2年、董賢へのの詔を封じて返したの王嘉に怒って獄に下し、王嘉は食を断って血を吐いて死んだ。のちに王嘉の供述を読んで言葉を思い、孔光を丞相に戻した。同じ年、王嘉を憐れんだ母方のおじの丁明を退けて董賢をとした。酒宴で、堯が舜に位を譲ったのに倣いたいと董賢に言い、王閎に諫められた。

前1年に未央宮で没した。没後、王莽はの指示として、董賢を、帝の病中に医薬に付き添わなかったと弾劾させた。

史料について

弾劾の言い分と違い、漢書の佞幸伝は、董賢が常に宮中に留まって医薬を見ていたと書く。病のほかの死因は、漢書にも資治通鑑にも見えない。

哀帝とつながる皇帝

在位中の出来事

皇后1・改元4・大赦4
  1. 前7年5月哀帝即位。
  2. 皇后前7年6月皇后を立てる
  3. 改元前6年元号を「建平」とする
  4. 前6年
  5. 改元前5年元号を「太初元將」とする
  6. 改元前5年
  7. 前5年
  8. 改元前2年元号を「元寿」とする
  9. 前2年2月

前漢の歴代皇帝

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年表

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