哀帝
前漢|在位 前7–前1年
- 諱(本名)
- 劉欣
- 在位
- 前7–前1年
- 在位期間
- 6年102日365名中167位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 19歳(数え年)172名中・若い順72位タイ
- 没年齢
- 25歳(数え年)269名中・長寿順211位タイ
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 4回267名中93位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:哀帝
即位の経緯
元帝の庶孫、定陶恭王の子で成帝の甥。成帝に実子がなく、祖母の傅太后が成帝の寵姫趙昭儀と外戚王根に働きかけ両者が成帝に後嗣とするよう勧めた経緯があるが、最終的には成帝自身が「持節徵定陶王、立為皇太子」として正式に皇太子に立て、崩御後「太子即皇帝位」という通常の手続きを経て即位した。血縁は甥で直系ではないが正規の立太子手続きを経ているため世襲と判定した(ただし成立過程に外戚のロビー活動が介在し擁立寄りとの見方も成立しうる境界事例)。
出典: 漢書・哀帝紀
死因の経緯
即位後に身体が痿痺(麻痺)する病にかかり、晩年に悪化して崩御(26歳)。民間伝承には放縦な生活による消耗説や丹薬(不老長寿薬)の過剰摂取説もあるが、正史は痿痺の病の悪化を死因とする。
出典: 漢書・哀帝紀補記: 丹薬中毒説は後世の民間伝承であり原典の直接記述ではないため、正史の病死説を採用しつつconfidence: mediumとする。
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
『漢書』哀帝紀原文に基づく。即位建元(建平)、太初元將への改元、太初元將の取消・建平への復帰、の3イベントを改元として計上した。太初元將は「宋人が『漢書』王莽伝から『元將』の2字を補入した」とする辛徳勇説など異同があるが、いずれにせよ哀帝紀本文に改元の詔とその取消の詔が明記されているため、実際に発せられた改元行為として2回(太初元將制定・取消)+即位建元1回の計3回とした。取消後の元号を独立した4件目の改元と数えるかは解釈が分かれ得るが、実質的に建平二年の元号に戻っただけであり新規制定ではないため4件目としては数えていない。
大赦回数
『漢書』哀帝紀原文に基づく。「大赦天下」「赦天下」と明記された全国規模の恩赦を計上。建平二年夏四月の「赦天下徒」は対象が服役中の徒(既決囚)に限定される部分的恩赦と解釈し、全国民対象の「大赦天下」とは区別してカウントに含めなかった(プロジェクト方針「部分的な恩赦・免税措置は含めない」に従う)。日付は原文の年号・月から西暦換算(前n年→-n、ISO文字列は天文年-(n-1)換算)。日単位までは特定できないため月精度とした。
立后回数
『漢書』哀帝紀原文に立后の記事は傅氏の1回のみ。廃后・再冊立の記述はない。
皇太子廃立回数
『漢書』哀帝紀に哀帝自身が治世中に皇太子を立てた記述がない。哀帝は成帝に子がなかったため定陶王から皇太子として迎えられ即位した経緯はあるが、これは哀帝が即位前に「立てられた」側の記事であり、哀帝自身の治世における立太子・廃立には該当しない。哀帝は実子がなく、寵臣董賢への禅譲を仄めかしたとされる逸話はあるものの正式な立太子の記録はなく、廃立の対象となる皇太子自体が存在しなかった。よってcrownPrinceDepositionCount=0。
親征回数
『漢書』哀帝紀を通読したが、皇帝本人が軍を率いて出征した記述(「帝自将」「上自将兵」等)は皆無。匈奴単于・烏孫大昆弥の来朝(元寿二年)は朝貢であり軍事行動ではない。よって該当記事なしと判断。
反乱鎮圧回数
哀帝紀中に「反」「叛」「挙兵」「起兵」等の語を検索したが、実際の武力蜂起を示す記事は見当たらない。中山孝王太后媛・弟冯参の自殺(建平元年冬)、東平王雲・后謁・安成恭侯夫人放の自殺・弃市(元寿元年)はいずれも巫蠱・呪詛等の罪状による摘発・処罰であり、兵力を用いた蜂起の記述はないため反乱には含めない。夏賀良らの「反道惑衆」(建平二年八月)も讖緯説による改元進言が咎められ処刑された事件で、武力を伴う反乱ではない。よって鎮圧すべき反乱の記事なしと判断。
被反乱回数
哀帝紀の記述範囲(前6年〜前1年)に、皇帝自身に対して兵力を用いた反乱・クーデターが起こされた記事は見当たらない。哀帝は元寿二年六月に未央宮で病没(崩御)しており、弑逆・廃位の記述もない。よって該当記事なしと判断。
遷都回数
漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
『漢書』哀帝紀「元延四年入朝……時年十七矣」(前9年に17歳)が唯一の直接年齢記載。年号年ラベルの差分により逆算:綏和二年(前7年)即位時=19歳、元寿二年(前1年)崩御時=25歳。生年は前25年(河平四年)、逆算では虚歳で25-9+1=17と原文の「十七」に正確に一致し検証済み(WebSearchでも「生於河平四年〔前25年〕三月壬辰日」の記述が複数の二次資料で確認でき、この逆算と整合)。誕生日の月日(三月壬辰=旧暦)は西暦換算手段がないため未確定、precisionはyearとした。deathDateは既存reignsのendDate(0000-08-15、元寿二年六月戊午)と一致。なお本レコードのdeathCause.noteには既に「26歳」との記載があるが、これは『漢書』本文に没年齢の直接記載がなく、二次資料(中文wikipedia)由来と見られ出典根拠が弱い。一方、今回の逆算値25歳は『漢書』原文の直接年齢記載(十七歳@元延四年)に基づき、かつ複数の二次資料が「前25年生・多数説は25歳」とする点とも整合するため、25歳を採用しnoteに不一致を明記した(confidence: medium)。
在位中の出来事(8件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦前7年5月綏和二年四月丙午、哀帝即位。
綏和二年四月丙午、哀帝即位。「大赦天下」(『漢書』哀帝紀)。賜宗室王子有属者馬各一駟、吏民爵、百戸牛酒、三老・孝弟力田・鰥寡孤独帛。
立后前7年6月綏和二年五月丙戌「立皇后傅氏」(『漢書』哀帝紀)。
綏和二年五月丙戌「立皇后傅氏」(『漢書』哀帝紀)。詔に「春秋『母以子貴』」とあり、傅氏を皇后に冊立。
改元前6年2月即位に伴う建元。
即位に伴う建元。綏和二年(前7年)四月丙午に即位し、翌年(前6年)正月に「建平」と改元(『漢書』哀帝紀「建平元年春正月」)。
改元前5年7月建平二年(前5年)六月甲子、侍詔夏賀良らの「赤精子之讖」上言により「以建平二年為太初元將元年。
建平二年(前5年)六月甲子、侍詔夏賀良らの「赤精子之讖」上言により「以建平二年為太初元將元年。號曰陳聖劉太平皇帝。漏刻以百二十為度」と改元(『漢書』哀帝紀)。
大赦前5年7月建平二年六月甲子、夏賀良らの赤精子讖により太初元將と改元した詔中に「其大赦天下」とある(『漢書』哀帝紀)。
建平二年六月甲子、夏賀良らの赤精子讖により太初元將と改元した詔中に「其大赦天下」とある(『漢書』哀帝紀)。同年八月に改元自体は取り消されたが、大赦の詔自体(六月甲子制書)は「非赦令也」として言及され、実際の大赦(甲子制書のうち改元・漏刻に関する部分のみ取り消し)は別扱いとされている。
改元前5年9月同年八月、哀帝は詔して「時詔夏賀良等建言改元易號…皆違經背古,不合時宜。
同年八月、哀帝は詔して「時詔夏賀良等建言改元易號…皆違經背古,不合時宜。六月甲子制書,非赦令也,皆蠲除之」とし、太初元將の元号・漏刻改定を取り消し、建平二年の元号に復した(『漢書』哀帝紀)。夏賀良らは反道惑衆の罪で処罰された。