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成帝の肖像画

前漢第12代

成帝劉驁

在位 前33–前7年(25年256日)前33年8月4日 〜 前7年4月17日

日本は弥生時代

の王氏に国政を握られ、趙飛燕姉妹を寵愛したが後嗣を得られずに急死した前漢の皇帝である。

成帝の人物データ

生年
前51年
在位
  • 前33年8月4日〜前7年4月17日
25年256日長い順35位/365人19歳で即位(数え年)
没年
前7年4月17日45歳(数え年)長生き順同率105位/266人
死因
同じ死因31人/365人
即位経路
先代
  • 元帝前漢成帝は元帝の子
次代
  • 哀帝前漢哀帝は成帝の甥
呼び名
姓劉諱驁字太孫廟号統宗呼び名の見方
目立つ記録

出典

在位
漢書 巻十 成帝紀
死因
漢書・成帝紀
即位経路
漢書・成帝紀

生涯

どんな皇帝か

漢書の賛は、容儀が整い率直な言を受け入れたと述べつつ、酒色に溺れが朝政をほしいままにしたと嘆き、王氏の執政を王莽の簒奪の根とする。

即位まで

元帝の太子で、母は王政君であり、宣帝に愛されて太孫と字された。太子のころ急に召されて、天子の通る馳道を横切らずに遠回りして遅れ、元帝は喜んで太子は馳道を横切ってよいと定めた。酒と宴楽を好んで元帝に評価されず、元帝は定陶恭王を後嗣に考えたが、史丹がかばい、元帝も宣帝の寵愛を思って、廃されなかった。前33年に即位し、母方のおじの筆頭の王鳳をとした。

治世と最期

前27年には母方のおじ五人を同じ日にに封じ、政は王鳳が執った。の王章が王鳳の専権を訴えると一度は受け入れたが、太后の涙を前に王鳳を廃するに忍びず、に王章を弾劾させ、王章は獄中で死んだ。

班婕妤に同じ輦に乗ろうと誘い、三代の末の君主のそばには寵愛する女がいたと断られると、やめた。の折に飛燕を見初めて宮中に入れ、前16年に皇后に立てた。寵愛は妹のに移り、姉妹は十余年寵を専らにしたが子は無く、後宮で生まれた皇子は殺された。帝師の張禹を斬りたいと求めた朱雲に激怒したが、辛慶忌が血を流して諫めると怒りを解き、朱雲が折った殿の檻は直臣の表彰として継ぎ合わせて残させた。前8年、甥の定陶王劉欣を皇太子に立てた。その祖母の傅太后は、趙姉妹や王根に賄賂を贈っていた。

前7年、もともと頑健だったが、明け方に起きようとして衣を取り落とし、口がきけなくなって、その日のうちに没した。民間は昭儀に罪を帰し、王太后が王莽らに調べさせると、昭儀は自殺した。

史料について

皇子を害したのを、漢書のは昭儀とし、外戚伝の解光の上奏では、成帝自身も子を殺させる側にいる。急死の場面は外戚伝による。本紀は死因を書かず、外戚伝も病名を書かず、昭儀の仕業とも断じていない。

成帝とつながる皇帝

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在位中の出来事

反乱4・皇后2・改元7・大赦7
  1. 前33年8月
  2. 改元前32年元号を「建始」とする
  3. 前32年
  4. 皇后前31年皇后を立てる
  5. 改元前28年元号を「河平」とする
  6. 前28年
  7. 改元前25年元号を「陽朔」とする
  8. 前23年
  9. 反乱前22年潁川鉄官徒申屠聖の乱
  10. 改元前20年元号を「鴻嘉」とする
  11. 反乱前18–前17年広漢の反乱(鄭躬の乱)
  12. 改元前16年元号を「永始」とする
  13. 前16年
  14. 皇后前16年皇后を立てる
  15. 反乱前14年尉氏の反乱(樊並の乱)
  16. 反乱前14年山陽の反乱(蘇令の乱)
  17. 前13年
  18. 改元前12年元号を「元延」とする
  19. 改元前8年2月元号を「綏和」とする
  20. 前8年2月

前漢の歴代皇帝

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年表

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