成帝
前漢|在位 前33–前7年

- 諱(本名)
- 劉驁
- 廟号
- 統宗
- 在位
- 前33–前7年
- 在位期間
- 25年262日365名中36位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 19歳(数え年)172名中・若い順72位タイ
- 没年齢
- 45歳(数え年)269名中・長寿順105位タイ
- 改元
- 7回332名中10位タイ
- 大赦
- 7回267名中60位タイ
- 立后
- 2回204名中14位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 4回289名中127位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:成帝
即位の経緯
元帝の嫡長子として生まれ、元帝即位とともに太子に立てられ通常の手続きで即位。『漢書』成帝紀「孝成皇帝、元帝太子也……太子即皇帝位」。典型的な嫡子直系継承。
出典: 漢書・成帝紀
死因の経緯
未央宮白虎殿での宿泊の翌朝、着替えの際に突然言葉を発せなくなり急死(45歳)。『漢書』は「帝素強無疾病」(元来頑健で持病なし)と記し前兆のない急死だったとする。寵妃・趙合徳が疑われ自殺したが、正史に死因の直接的な断定はない。後世の野史(『趙飛燕外伝』)は房事中の急変とするが正史の記述ではないため採用しない。
出典: 漢書・成帝紀補記: 現代の一部研究者は症状(言語障害を伴う突然死)から急性脳梗塞を推測するが、原典に医学的診断の記載はないため category は不詳とする。
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
『漢書』成帝紀原文で「建始」「河平」「陽朔」「鴻嘉」「永始」「元延」「綏和」の7元号すべての初出を確認。即位時の建始建元を含め計7回。陽朔改元の記事は改元理由(石中生火の瑞祥)は明記されているが、正確な月日は当該段落から特定できなかったため年精度に留めた。
大赦回数
『漢書』成帝紀原文で「大赦天下」の4文字が明記された箇所を機械的に全文検索し7件確認。陽朔元年三月「赦天下徒」(対象を徒刑者に限定)、鴻嘉元年二月詔中「其大赦天下」は鴻嘉元年の恩賜詔(爵位・帛の下賜)であり本文を精査した結果「大赦天下」の直接表記は同詔に含まれないため不算入とし、代わりに文言が「賜天下民爵一級」等の限定的恩賜のみと判断、鴻嘉三年夏四月「赦天下」・元延元年夏四月丁酉「赦天下」は「大赦」の語を伴わない部分赦として除外した。日付は干支まで原文にあるが太陰暦日への変換は行っていないため月精度に留めた。
立后回数
『漢書』成帝紀原文で「立皇后」の記事を2件確認(許氏・趙氏)。許皇后は鴻嘉三年(前18年)冬十一月甲寅に廃位(皇后許氏廢)。廃后は立后回数にはカウントしていない(本項目は冊立のみを対象とするため)。
皇太子廃立回数
成帝は実子に恵まれず(綏和元年二月癸丑詔に「至今未有繼嗣」と明記)、綏和元年二月癸丑に甥の定陶王劉欣を皇太子に立てて以降、崩御(綏和二年三月丙戌)までの間に皇太子が廃された記録は本紀に存在しない。劉欣はそのまま即位し哀帝となった。それ以前に成帝自身が皇太子を別に立てた記録もないため、廃立は0回。
親征回数
『漢書』成帝紀を通読したが、在位期間中(前33年~前7年)に成帝本人が軍を率いて出征したことを示す記述(「帝自将」「上自将兵」等)は見られない。匈奴単于の来朝(河平三年・鴻嘉元年)や雍・甘泉・河東への郊祀のための行幸はあるが、いずれも軍事親征ではなく祭祀・儀礼目的の移動。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
成帝紀を通読し、「謀反」「自称将軍」「攻」「劫」「盗庫兵」等の語で軍事行動を伴う蜂起記事を確認した。定陵侯淳于長の『大逆不道』(下獄死)は密告・摘発による処断のみで実際の挙兵に至っていないため含めていない。
被反乱回数
上記4件はいずれも成帝本人(皇帝の統治する中央政権)に対する外部からの武力蜂起であり、対象が摂政・権臣ではなく王朝そのものであるため被反乱としても計上した。王莽による権力掌握は成帝存命中は軍事クーデターの形をとっておらず(外戚として合法的に大司馬等の要職を歴任)、被反乱には含めていない。宮中における兵力を伴うクーデター・弑逆の記事も成帝紀中には見られない。
遷都回数
漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
『漢書』外戚伝上(王政君伝)に「甘露三年,生成帝于甲館畫堂,為世適皇孫。宣帝愛之,自名曰驁,字太孫……後三年,宣帝崩」と明記。甘露三年(前51年)生誕、月日不詳のため年精度。同書成帝紀「年三歳而宣帝崩」(宣帝崩御は黄龍元年=前49年)とも数え年で整合((-49)-(-51)+1=3歳)。即位時年齢は逆算値:建始元年(前33年)即位と生年(前51年)の年号差から数え年で(-33)-(-51)+1=19歳と算出。没年齢は逆算値:崩御(綏和二年=前7年、reigns[0].endDate=-0006-04-17「丙戌,帝崩于未央宮」)と生年から(-7)-(-51)+1=45歳と算出、既存deathCause.noteの「45歳」記載(中文ソース由来)と一致し相互検証済み。deathDateはreignsの最終endDateと一致。
在位中の出来事(24件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元前32年1月即位に伴う建元(建始)。
即位に伴う建元(建始)。竟寧元年六月己未に即位、翌建始元年正月から「建始」の年号を使用。
大赦前32年7月竟寧元年七月「大赦天下」(成帝即位に伴う大赦。
竟寧元年七月「大赦天下」(成帝即位に伴う大赦。前月六月己未に太子即皇帝位)。
立后前30年3月建始二年三月丙午「立皇后許氏」。
建始二年三月丙午「立皇后許氏」。許皇后の冊立。
改元前27年3月河平と改元。
河平と改元。詔に「河決東郡、流漂二州、校尉王延世隄塞輒平、其改元為河平」(黄河の堤防決壊が塞がれたことを瑞祥として改元)。
反乱鎮圧前21年6月潁川鉄官徒申屠聖の乱
首謀者: 申屠聖
結果: 鎮圧成功。丞相長史・御史中丞が軍興(戦時徴発)をもって追捕し、首謀者ら「皆伏辜」(全員捕縛・処罰)。
陽朔三年(前22年)夏六月条。潁川郡の鉄官徒(官営製鉄場の刑徒)申屠聖ら180人が長吏を殺害し武器庫を奪い『将軍』を自称、九郡を経巡った。鎮圧の具体的な月日は原典に明記されないが、同年秋八月(王鳳薨去の記事)より前の出来事として記載されているため、同年内に鎮圧が完了したとみられる。
被反乱前21年6月潁川鉄官徒申屠聖の乱
首謀者: 申屠聖
結果: 政権側が鎮圧に成功。首謀者ら全員処罰。
陽朔三年(前22年)夏六月、潁川郡の鉄官徒申屠聖ら180人が長吏を殺害し武器庫を奪って『将軍』を自称し九郡を経巡った反乱。成帝政権に対する武力蜂起として被反乱1件に計上。鎮圧回数の記載と同一事象。
反乱鎮圧前17年11月〜前16年11月広漢の反乱(鄭躬の乱)
首謀者: 鄭躬
結果: 鎮圧成功。河東都尉趙護を広漢太守に任じ郡兵・蜀郡兵合わせ3万を発して撃破。「旬月平」(ひと月余りで平定)。趙護は執金吾に昇進、黄金百斤を賜る。
鴻嘉三年(前18年)冬、広漢郡の男子鄭躬ら60余人が官署を攻撃し囚人を解放、武器庫を奪って『山君』を自称し蜂起。翌鴻嘉四年(前17年)冬には勢力が4県に拡大し党与ほぼ1万人に達したため朝廷が討伐、鎮圧した。同一首謀者(鄭躬)による継続的な反乱として1件とカウントした(鎮圧に複数年を要した事例)。
被反乱前17年11月〜前16年11月広漢の反乱(鄭躬の乱)
首謀者: 鄭躬
結果: 政権側が鎮圧に成功。
鴻嘉三年(前18年)冬に発生し翌四年(前17年)冬に鎮圧された広漢郡の反乱。成帝政権に対する武力蜂起として被反乱1件に計上。鎮圧回数の記載と同一事象。
改元前16年2月鴻嘉と改元。
鴻嘉と改元。鴻嘉元年春二月の詔から使用開始。
改元前15年1月永始と改元。
永始と改元。永始元年春正月癸丑(太官凌室火の記事)から使用開始。
大赦前15年6月永始元年六月丙寅「立皇后趙氏。
永始元年六月丙寅「立皇后趙氏。大赦天下」。趙皇后(趙飛燕)冊立と同日。
立后前15年6月永始元年六月丙寅「立皇后趙氏」(趙飛燕)。
永始元年六月丙寅「立皇后趙氏」(趙飛燕)。前年鴻嘉三年冬十一月甲寅に許皇后が「皇后許氏廢」となった後の再冊立。
反乱鎮圧前13年11月尉氏の反乱(樊並の乱)
首謀者: 樊並
結果: 鎮圧成功。徒(刑徒)李譚ら5人が樊並らを討ち取り、恩賞として列侯に封じられた。
永始三年(前14年)十一月、尉氏県の男子樊並ら13人が謀反し陳留太守を殺害、吏民を劫略して『将軍』を自称したが、原典では続けて即座に討伐された記述となっており、同月内の短期間で鎮圧されたとみられる。具体的な鎮圧日の明記はなし。
被反乱前13年11月尉氏の反乱(樊並の乱)
首謀者: 樊並
結果: 政権側が鎮圧に成功。
永始三年(前14年)十一月、尉氏県で発生し陳留太守を殺害した反乱。成帝政権に対する武力蜂起として被反乱1件に計上。鎮圧回数の記載と同一事象。
反乱鎮圧前13年12月山陽の反乱(蘇令の乱)
首謀者: 蘇令
結果: 鎮圧成功。丞相長史・御史中丞が追捕を督励し、最終的に汝南太守厳説(原文異体字表記)が蘇令らを捕らえ斬った。厳説は大司農に抜擢され黄金百斤を賜る。
永始三年(前14年)十二月、山陽郡の鉄官徒蘇令ら228人が長吏を殺害し武器庫を奪って『将軍』を自称、19郡国を経巡り東郡太守・汝南都尉を殺害する大規模な反乱に発展したが、最終的に鎮圧された。鎮圧完了の具体的な月日は原典に明記なく、永始三年内か翌永始四年正月以前と推定されるためendDateはnullとした。
被反乱前13年12月山陽の反乱(蘇令の乱)
首謀者: 蘇令
結果: 政権側が鎮圧に成功。
永始三年(前14年)十二月、山陽郡で発生し19郡国を経巡り東郡太守・汝南都尉を殺害するに至った大規模反乱。成帝政権に対する武力蜂起として被反乱1件に計上。鎮圧回数の記載と同一事象。
改元前11年1月元延と改元。
元延と改元。元延元年春正月己亥朔(日食の記事)から使用開始。
改元前7年1月綏和と改元。
綏和と改元。綏和元年春正月(大赦天下の記事)から使用開始。
改元日付不詳陽朔と改元。
陽朔と改元。「山陽火生石中、改元為陽朔」(山陽で石中から火が生じたという瑞祥により改元)。月日は原文の当該箇所からは特定できず、年のみ陽朔元年(前24年)と判明。