元帝
前漢|在位 前49–前33年

- 諱(本名)
- 劉奭
- 廟号
- 高宗
- 在位
- 前49–前33年
- 在位期間
- 16年165日365名中74位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 27歳(数え年)172名中・若い順102位タイ
- 没年齢
- 43歳(数え年)269名中・長寿順116位タイ
- 改元
- 4回332名中29位タイ
- 大赦
- 10回267名中38位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:元帝
即位の経緯
宣帝の子で8歳で皇太子に立てられ、通常の手続きで即位。『漢書』元帝紀「孝元皇帝、宣帝太子也……太子即皇帝位」。大臣による擁立の要素はない素直な直系継承。
出典: 漢書・元帝紀
死因の経緯
未央宮で崩御(42歳)。史書は病死とのみ記録し具体的な病名はない。晩年は宦官石顯の専横に悩まされたとされるが、これは背景事情であり原典に死因としての因果関係の明記はない。
出典: 漢書・元帝紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
元帝の在位中(前49年〜前33年)に使用された元号は初元(前48年〜前44年)・永光(前43年〜前39年)・建昭(前38年〜前34年)・竟寧(前33年)の4つ。即位に伴う最初の建元(初元)を1回として含める方針に従いevents[0]に計上。竟寧については原文に「其改元為竟寧」という明示的な改元詔(匈奴呼韓邪単于の来朝を受けたもの)があり高確度。初元→永光、永光→建昭の切り替えについては、原文には各元年最初の記事(「永光元年春正月」「建昭元年春三月」)があるのみで、明示的な「改元」の語を含む詔文は見当たらなかったが、前年(初元五年・永光五年)の末尾記事の直後に新元号の記事が続く構成であり、漢代の元号切り替えの通例(新年から新元号適用)と整合するため、改元の事実自体はhighの確度で確認できる。
大赦回数
『漢書』元帝紀の原文(維基文庫版で通読確認)に基づく「赦天下」「大赦天下」の記事のみをカウント(部分的恩赦である「赦雲陽徒」「赦汾陰徒」等の地域限定の刑徒赦免は除外)。初元元年正月「大赦天下」、初元二年二月「赦天下」(隴西地震の詔)、初元三年夏四月「其赦天下」(茂陵白鶴館火災の詔)、永光元年三月「其赦天下」、永光二年二月「其大赦天下」、永光二年夏六月「其赦天下」、永光四年二月「其赦天下」、建昭二年夏四月「赦天下」、建昭四年正月「赦天下」(郅支単于誅殺の告祠)、建昭五年三月「其赦天下」の計10回。竟寧元年には大赦の記述なし。WebFetchによる要約は取得のたびに件数・該当年が大きく食い違ったため(初回8件、16件など不一致)、最終的に維基文庫(zh.wikisource.org/wiki/漢書/卷009)の原文を初元・永光・建昭・竟寧の各期間ごとに区切って全文引用させ、直接原文を目視確認して確定した。
立后回数
『漢書』元帝紀原文に「初元元年春正月...丙午,立皇后王氏」とあり、即位の翌月(初元元年三月丙午)に王氏(王政君、後の元后・成帝の母)を皇后に冊立したことが明記されている。元帝紀の全文を通読したが、以後崩御(竟寧元年五月)までの間に皇后交代・再冊立の記述はなく、王皇后がそのまま在位期間を通じて皇后であり続けたと確認できる。
皇太子廃立回数
『漢書』元帝紀の原文全体(初元元年〜竟寧元年、崩御まで)を通読したが、皇太子(劉驁、後の成帝)を廃したとする記述(「廢皇太子」「廢太子」等)は一切見当たらない。初元二年夏四月丁巳に「立皇太子」(劉驁の立太子)の記事があるのみで、以後崩御(竟寧元年五月)まで皇太子交代の記述はなく、竟寧元年正月に「皇太子冠」(成人の加冠儀礼)の記事があるのみ。史実としても元帝は生涯を通じて劉驁を皇太子から廃さず、そのまま成帝として即位させている(司馬遷以降の通説とも一致)。なお建昭元年冬に「河間王元有罪,廢遷房陵」とあるが、これは諸侯王(河間王)の廃位であり皇太子の廃立ではないため対象外。
親征回数
『漢書』元帝紀原文を通読したが、「帝自将」「上自将兵」等、元帝本人が軍を率いて出征したことを示す記述は皆無。永光二年の西羌反乱鎮圧は右将軍冯奉世・奋威将军任千秋の派遣によるもの、建昭三年の郅支単于討伐は都护骑都尉甘延寿・副校尉陈汤の派遣によるものであり、いずれも将軍への勅命のみで皇帝本人は出陣していない。行幸甘泉・河東・雍等の記事は郊祀(泰畤・后土・五畤への祭祀)目的の巡幸であり、軍を率いた形跡はない。よって親征0件と判断した。
反乱鎮圧回数
珠厓郡山南県の反乱(初元三年)は、原文上「博谋群臣。待诏贾捐之以为宜弃珠厓,救民饥馑。乃罢珠厓」とあるのみで、朝廷が派兵して武力鎮圧を試みた記述が一切なく、賈捐之の献策により郡自体を廃止・放棄する形で終結している。武力行使を伴う鎮圧行為が確認できないため rebellionSuppressionCount には含めず、rebellionSufferedCount にのみ計上した(判断根拠は同フィールドのnote参照)。建昭三年の郅支単于討伐(甘延寿・陈汤)は、郅支単于が漢の臣下・属国ではなく独立した匈奴の一単于であり、漢書竟宁元年の詔でも「背叛礼义」(漢への礼を欠いた)という表現にとどまり、漢の統治下にある者の「反乱」とは性質が異なる対外遠征(谷吉殺害への報復)と判断し、反乱鎮圧・被反乱いずれにも含めなかった。この点は解釈の余地があるため confidence は medium とした。
被反乱回数
永光元年秋八月「上郡属国降胡万余人亡入匈奴」は、投降していた胡人が集団で匈奴へ逃亡した記事であり、朝廷への武力反乱ではなく逃亡・離反にとどまるため被反乱には含めなかった。初元二年十二月の「中书令弘恭、石显等谮望之,令自杀」(前将軍蕭望之を讒言により自殺に追い込んだ事件)は宦官による政治的讒言・圧迫であり、兵力を用いたクーデター・弑逆の形跡がないため被反乱の基準(実力=兵力を伴う)を満たさず除外した。建昭元年冬の淮阳王舅張博・京房の事件(諸侯王への邪説漏洩容疑で処刑)も、密告・摘発により処罰されたのみで実際の挙兵に至っていないため除外した。郅支単于討伐についてはrebellionSuppressionCountのnote参照(対外遠征と判断し除外)。
遷都回数
漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
生年の直接記載はないが、『漢書』元帝紀冒頭に「(宣帝微時生民間。)年二歳、宣帝即位」とあり、宣帝の即位年(前74年、han-xuandiのreigns.startYear=-74で確認)の時点で元帝が数え2歳であったと直接記載されている。この記載から逆算すると生年は前75年(数え年慣習で誕生年を1歳とするため、前75年=1歳、前74年=2歳)。この生年(前75年)を用いて、即位年(前49年、reigns.startYear=-49、黄龍元年十二月癸巳「太子即皇帝位」)における数え年齢=75-49+1=27歳、崩御年(前33年、竟寧元年五月壬辰「帝崩於未央宮」、reigns.endDate=-0032-07-08)における数え年齢=75-33+1=43歳と算出。なお、deathCause.noteに記載の「42歳」はzh版ウィキペディア・百度百科等の二次資料に広く見られる数値だが、元帝紀原文中(本紀本文および賛)には「時年」「享年」等の没年齢直接記載は見当たらず、この42歳という数値の一次典拠は確認できなかった。42歳説は生年を前74年とする説(宣帝即位と同年生まれとする誤読または異説)に基づくとみられ、元帝紀原文の「年二歳、宣帝即位」という直接記載と整合しないため、本レコードでは原文の直接記載から逆算した43歳を採用しつつ、42歳説との不一致がある旨をnoteに明記しconfidenceをmediumとした。
在位中の出来事(18件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
立后前48年3月初元元年三月丙午、王氏を皇后に立てる(「立皇后王氏」)。
初元元年三月丙午、王氏を皇后に立てる(「立皇后王氏」)。後の元后・成帝の生母、王政君。
被反乱前46年珠厓郡山南県の反乱(海南島)
首謀者: (原文に首謀者名の記載なし・珠厓郡山南県)
結果: 武力鎮圧は行われず、待诏贾捐之の建議により朝廷は珠厓郡そのものを廃止して撤退した(乃罢珠厓)
初元三年春「珠厓郡山南县反,博谋群臣」。群臣で協議の結果、賈捐之が珠厓放棄・民の飢饉救済を優先すべきと献策し、郡自体を廃止して事実上撤退した。皇帝の統治領域に対する反乱であるため被反乱として1件カウント。ただし武力による鎮圧が行われていないため rebellionSuppressionCount には含めていない。
反乱鎮圧前42年7月〜前41年1月西羌の反乱
首謀者: (原文に首謀者名の記載なし)
結果: 永光三年春に平定され軍は解散(西羌平,军罢)
永光二年秋七月「西羌反」、右将軍冯奉世が討伐に赴き(遣右将军冯奉世击之)、同年八月には太常任千秋を奋威将军として別動隊を増派。翌永光三年春に「西羌平,军罢」と平定完了が明記される。皇帝本人は出陣せず将軍派遣による鎮圧のため、政権側の鎮圧として1件カウント。終了日は「三年春」としか記されず月日不明のため precision は開始月(永光二年七月)を基準に month とした。
被反乱前42年7月〜前41年1月西羌の反乱
首謀者: (原文に首謀者名の記載なし)
結果: 永光三年春、冯奉世らにより平定
rebellionSuppressionCountの同名事象と同一の反乱。「西羌反」と原文に明記され、漢の統制・臣属下にあった西羌が反したものであり、皇帝(漢朝)に対する反乱として被反乱にもカウントした。
改元前33年1月竟寧元年春正月、匈奴呼韓邪単于の来朝を受けた詔で「其改元為竟寧」と明記して改元。
竟寧元年春正月、匈奴呼韓邪単于の来朝を受けた詔で「其改元為竟寧」と明記して改元。同年五月に元帝崩御。