元帝の人物データ
- 生年
- 前75年
- 在位
- 前48年1月29日〜前33年7月8日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 前49年12月26日から
- 没年
- 前33年7月8日43歳(数え年)長生き順同率115位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱奭廟号高宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 漢書 巻九 元帝紀
- 死因
- 漢書・
元帝紀 - 即位経路
- 漢書・
元帝紀
生涯
どんな皇帝か
漢書の賛は、優柔不断で宣帝の業は衰えたとしつつ、寛大で恭しく倹約し、号令は穏やかだったと評する。
即位まで
母の許皇后は霍光の妻の顕の差し金で殺された。前67年に太子に立てられると、顕は霍皇后に毒殺させようとしたが、保母がいつも毒見をして果たせなかった。刑が厳しすぎるので儒生を用いるよう進言し、宣帝にわが家を乱すのは太子だと嘆かれたが、廃されなかった。寵愛した司馬良娣が他の妾に呪い殺されたと言い残して没すると、妾たちを遠ざけた。宣帝の皇后が選んだ5人にも気が無く、この中の1人でよいと答えて、そばにいた王政君が送られ、前51年に成帝が生まれた。前49年に宣帝が没して即位した。
治世と最期
前47年、石顕らに求められて師の蕭望之の投獄を許すと望之は自殺し、元帝はやはり賢い師を殺したかと嘆いて食を退け、涙して石顕らを責めた。病で政事を執らず、事は大小を問わず石顕を通して決まった。京房に問われて、今は極めて乱れていると認めたが、任じている者はましだと答えた。京房はのちに石顕の非を言い、石顕に罪を探されて処刑された。
楽才のある皇子の劉康をたびたび褒めたが、史丹に楽器で人を量るなと諫められて黙って笑った。前35年、末弟の中山王の弔問で悲しまない太子に怒ったが、史丹が、陛下を悲しませぬよう泣くなと太子に言ったのは自分だと謝ると気持ちが解けた。前33年、来朝した匈奴の呼韓邪単于に王昭君を賜った。同じ年、病床で太子を替えた景帝の故事昔からのしきたりや、昔あった出来事を尋ねたが、史丹に泣いて諫められると、先帝も太子を愛したと言い、太子を補佐するよう託した。まもなく未央宮で没した。
史料について
昭君が自ら匈奴行きを願い出て、別れの宴で元帝が留めたく思ったという話は後漢書にあり、漢書には無い。画工に醜く描かれたという話は、漢書・後漢書・資治通鑑のどれにも無い。史丹伝は、太子をかばった者として史丹の諫めだけを記す。資治通鑑は王商と石顕も太子をかばったとし、漢書の佞幸伝も石顕の擁護を記す。
元帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱2・皇后1・改元4・大赦10
- 改元前48年2月元号を「初元」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前48年2月
- 皇后前48年4月12日皇后を立てる
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前47年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前46年
- 反乱前46年珠厓郡山南県の反乱(海南島)
- 改元前43年元号を「永光」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前43年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前42年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前42年
- 反乱前42–前41年西羌の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前40年
- 改元前38年元号を「建昭」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前37年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前35年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前34年4月
- 改元前33年3月元号を「竟寧」とする
前漢の歴代皇帝
歴代14人の一覧年表
秦・
前漢が
