高帝
前漢|在位 前202–前195年

- 諱(本名)
- 劉邦
- 廟号
- 太祖
- 在位
- 前202–前195年
- 在位期間
- 7年94日365名中156位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 4回267名中93位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 6回112名中8位タイ
- 反乱鎮圧
- 6回225名中68位タイ
- 被反乱
- 6回289名中82位タイ
- 遷都
- 0回
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:高帝
即位の経緯
秦末反乱・楚漢戦争を経て項羽を破り天下を平定。皇帝即位に先立ち諸侯・諸将らが「共請尊漢王為皇帝」と上尊号の推戴儀礼を行った上で「甲午、乃即皇帝位氾水之陽」と即位。先行王朝(秦・楚)からの禅譲ではなく実力による新政権(漢)樹立のため建国と判定。
出典: 史記・高祖本紀
死因の経緯
黥布(英布)の反乱鎮圧に自ら出撃した際に流れ矢を受け負傷、その戦傷が悪化し長楽宮で崩御。名医の治療を「天命」として拒否したという逸話が伝わる。戦闘中の死ではなく事後の傷の悪化による病死のため病死に分類。
出典: 史記・高祖本紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
高帝(劉邦)の在位期間(前202〜前195年)には元号(年号)制度自体がまだ存在しない。中国最初の元号は武帝の「建元」(前140年)であり、それ以前は即位からの通年(元年・二年…)で紀年されていた。『漢書』高帝紀下にも改元・建元に相当する記述は見られない。したがって改元回数は0回。
大赦回数
『漢書』高帝紀下より、全国規模の「大赦」と明記された記事を数えた。五年(前202年)正月の即位直前の詔「其赦天下殊死以下」、五年六月壬辰「大赦天下」、九年(前198年)正月丙寅「前有罪殊死以下、皆赦之」、十一年(前196年)代王恒(後の文帝)擁立後の詔に続く「大赦天下」の4件。八年秋八月「吏有罪未發覺者、赦之」(官吏限定)、十年「赦櫟陽囚死罪以下」(櫟陽限定)、十一年秋七月「赦天下死罪以下、皆令從軍」(従軍目的の限定的恩赦)、十一年の燕王盧綰の乱に関する「與綰居、去來歸者、赦之」(帰順者限定)などは全国規模の大赦ではないため除外した。十二年夏四月甲辰、高帝崩御。同年、呂后と審食其の主導で「乃以丁未發喪、大赦天下」という記事があるが、これは高帝崩御後・恵帝への代替わりに伴う大赦であり、高帝本人の治世下の行為ではないため本カウントには含めていない(この扱いについては要確認事項として付記する)。
立后回数
『漢書』高帝紀下、五年(前202年)二月甲午、皇帝即位の詔に続き「尊王后曰皇后、太子曰皇太子」とあり、これが呂后(呂雉)の皇后冊立の記事。本紀中に他の立后・廃后・再冊立の記述はなく1回のみ。
皇太子廃立回数
『漢書』高帝紀下には皇太子(劉盈)の廃立に関する記述はない。『漢書』外戚伝(巻九十七上)に「太子為人仁弱、高祖以為不類己、常欲廢之而立如意…如意且立為趙王、留長安、幾代太子者數。賴公卿大臣爭之、及叔孫通諫、用留侯之策、得無易」とあり、高祖が戚夫人の子・如意を立てようと再三図ったが、公卿大臣の諫言と張良(留侯)の策(商山四皓を太子に招いた逸話)により、最終的に廃立には至らなかった(「得無易」=交替せずに済んだ)ことが原典に明記されている。したがって実際の廃立は0回。
親征回数
即位(前202年2月28日、五年二月甲午)以降の親征のみを対象とし、即位前の楚漢戦争(垓下の戦いを含む)は除外した。楚王韓信の「偽游雲夢」による逮捕(六年十二月)は軍事行動ではなく謀略による捕縛のため親征に含めていない。
反乱鎮圧回数
以下の3件は『告発・謀反の疑いのみ』で実際の挙兵(兵力行使)に至らなかった、もしくは謀略による捕縛のみで終わったと原文から読み取れるため、鎮圧回数には含めなかった:(1)楚王韓信(六年十二月、密告により偽游雲夢の計略で逮捕、原文に挙兵の記載なし)、(2)淮陰侯韓信(十一年正月、「謀反長安,夷三族」とのみ記載され、発覚後ただちに誅殺されたと読め、実際の挙兵の記述がない)、(3)梁王彭越(十一年三月、「謀反,夷三族」とのみ記載され同様に挙兵の記述がない)。この3件は史料上の記述が簡略なため、実際に挙兵があったか判断が分かれうる境界事例であり、confidenceをmediumとした。
被反乱回数
【2026-07-16訂正基準】に基づき再検討。旧データは『皇帝個人の廃位・弑逆を意図した反乱か』を判定基準にしていたが、これは誤りであり、rebellionSuppressionCountに計上済みの6件(燕王臧荼・利幾・韓王信・陳豨・淮南王英布・燕王盧綰)はいずれも漢の統治下にあった異姓諸侯王・相国という服属者による武装反抗(挙兵)であり、対等勢力との統一戦争や外国勢力との対外戦争ではないため、社会的地位や反乱目的(自立・自衛等)を問わずrebellionSufferedCountにも同一の6件を計上する。除外は据え置き:(1)貫高らによる高祖暗殺未遂(前198〜197年、柏人の駅)は伏兵を用いた組織的計画だったが、高祖が宿泊を取りやめたため実際の兵力行使に至らず、発覚も計画実行前だったため『実際の挙兵に至らなかった謀反計画』の除外基準に該当。(2)楚王韓信・淮陰侯韓信・彭越の3件はrebellionSuppressionCount側でも実際の挙兵の記述がないとして除外されており、整合性のため被反乱側でも除外を維持。
遷都回数
漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(deathCause/accessionRoute/reignData/reigns[].note等)および_corpus_cache/han-gaozu.txt(『漢書』高帝紀上下相当の原文抜粋、全143行)を精査したが、生年月日・即位時年齢・崩御時享年の直接記載は見当たらなかった。原文には即位記事(五年二月甲午「漢王即皇帝位于氾水之陽」)にも崩御記事(十二年夏四月甲辰「帝崩於長樂宮」)にも「時年」「年◯◯」「享年」等の年齢語は一切現れない。deathDateは既存reigns[0].endDate(-0194-06-01, day精度)をそのまま採用した(退位せず在位のまま崩御のため)。なお劉邦の生年は正史(史記・漢書)に記載がなく、後代の晋・皇甫謐『帝王世紀』が「年六十二」と没年齢を記す(これから逆算すると前256年生まれ)一方、清代以降の一部考証では前247年生まれ説(享年53)も唱えられており、学術的に確定していない有名な論争事項である。いずれも『帝王世紀』等の後代二次史料に基づく推定であり、本調査の第一情報源(史記・漢書原典)には根拠となる直接記載がないため、accessionAge/deathAgeとも確定できずnullとした。confidenceはlowとし、両説を併記するにとどめる。
在位中の出来事(23件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征前202年利幾
対象: 利幾
結果: 勝利(撃破)
「利幾反,上自撃破之。」原文に月の記載なし(燕王臧荼反乱鎮圧後、後九月の前の時期の出来事として記載)。項羽の旧将で潁川侯だった利幾が、通侯籍の点呼を恐れて反乱、高帝自ら撃破。
反乱鎮圧前202年利幾の反乱
首謀者: 利幾
結果: 撃破された。
項羽の旧将で潁川侯となっていた利幾が、通侯籍の点呼を恐れて挙兵。高祖自ら撃破。
被反乱前202年利幾の反乱
首謀者: 利幾
結果: 高祖自ら撃破した。
項羽の旧将で潁川侯となっていた利幾が、通侯籍の点呼を恐れて挙兵。漢の統治下にあった臣下による武装反抗のため被反乱に計上(rebellionSuppressionCountと同一事象)。
親征前202年7月〜前202年9月燕王臧荼
対象: 燕王臧荼
結果: 勝利(臧荼を捕虜とした)
『漢書』高帝紀下「秋七月,燕王臧荼反,上自将征之。九月,虜荼。」皇帝自ら出征したことが明記されている。即位(五年二月甲午)直後の反乱鎮圧・親征。
反乱鎮圧前202年7月〜前202年9月燕王臧荼の反乱
首謀者: 臧荼(燕王)
結果: 捕虜。後任の燕王には盧綰が立てられた。
「秋七月,燕王臧荼反,上自将征之。九月,虜荼。」高祖自ら鎮圧。
被反乱前202年7月〜前202年9月燕王臧荼の反乱
首謀者: 臧荼(燕王)
結果: 高祖自ら親征し九月に捕虜とした。
「秋七月,燕王臧荼反,上自将征之。九月,虜荼。」漢の統治下にあった異姓諸侯王による武装反抗のため被反乱に計上(rebellionSuppressionCountと同一事象)。
大赦前201年1月高帝五年(前202年)正月、皇帝即位に先立ち「兵不得休八年、萬民與苦甚、今天下事畢、其赦天下殊死以下」との詔により死刑以外の罪人を赦免。
高帝五年(前202年)正月、皇帝即位に先立ち「兵不得休八年、萬民與苦甚、今天下事畢、其赦天下殊死以下」との詔により死刑以外の罪人を赦免。同年二月甲午の皇帝即位(氾水の陽にて)に先立つ大赦。
立后前201年2月高帝五年(前202年)二月甲午、氾水の陽にて皇帝に即位すると同時に、王后(呂雉)を皇后に、太子(劉盈)を皇太子に冊立。
高帝五年(前202年)二月甲午、氾水の陽にて皇帝に即位すると同時に、王后(呂雉)を皇后に、太子(劉盈)を皇太子に冊立。「漢王即皇帝位于氾水之陽。尊王后曰皇后、太子曰皇太子」(漢書・高帝紀下)。
大赦前201年6月高帝五年(前202年)六月壬辰、「大赦天下」。
高帝五年(前202年)六月壬辰、「大赦天下」。婁敬の献策により長安遷都を決定した直後の記事。
反乱鎮圧前201年9月〜前196年1月韓王信の離反・匈奴との共同抗漢
首謀者: 韓王信(異姓諸侯王)
結果: 最終的に将軍柴武により参合で斬殺された。
六年秋九月、匈奴に馬邑で包囲され降伏(「信降匈奴」)。以後、匈奴・趙利と結んで漢に抵抗を続け、七年に高祖自らの親征(銅鞮・白登)、八年に残党討伐(東垣)を経て、十一年正月に柴武により斬られるまで一連の離反・抗漢行動が継続したため、同一首謀者(韓王信)による1件の反乱として扱った。
被反乱前201年9月〜前196年1月韓王信の離反・匈奴との共同抗漢
首謀者: 韓王信(異姓諸侯王)
結果: 最終的に将軍柴武により参合で斬殺された。
六年秋九月、匈奴に馬邑で包囲され降伏。以後、匈奴・趙利と結んで漢に抵抗を続けた一連の離反・抗漢行動。漢の統治下にあった異姓諸侯王が発端であり武装反抗にあたるため被反乱に計上(rebellionSuppressionCountと同一の1件として計上)。
親征前200年10月〜前200年12月韓王信(劉邦配下の異姓諸侯王・韓王信)とその残党、および匈奴(白登山の包囲を含む)
対象: 韓王信(劉邦配下の異姓諸侯王・韓王信)とその残党、および匈奴(白登山の包囲を含む)
結果: 銅鞮で撃破するも、追撃中に楼煩を経て平城に至り匈奴に7日間包囲される(白登之囲)。陳平の秘計により脱出。代地の平定は樊噲に委ねた。実質的には苦戦・辛勝(包囲脱出)。
「七年冬十月,上自将撃韓王信於銅鞮,斬其将…遂至平城,為匈奴所囲,七日,用陳平秘計得出。」白登之囲は同一の親征(銅鞮出征の延長・継続行動)に含まれると判断。ユーザー指定の確認事項どおり、白登之囲は親征に該当する。
親征前199年10月〜前199年12月韓王信の残党(王黄ら)
対象: 韓王信の残党(王黄ら)
結果: 不詳(原文に明確な勝敗の記載なし。「上東撃韓信余寇於東垣」とのみ記載)
「八年冬,上東撃韓信余寇於東垣。」七年の銅鞮・白登の親征とは年を空けての再出征のため、別カウントとした(本文指示の『年を空けて同じ相手に再度出征した場合は別カウント』に従う)。この途上、趙相貫高らの弑逆未遂計画(柏人の変)が発生(詳細はrebellionSufferedCountのnote参照)。
反乱鎮圧前197年〜前195年陳豨の反乱
首謀者: 陳豨(代相国)
結果: 十二年、周勃により当城で斬殺され鎮圧完了。
「九月,代相国陳豨反…」高祖自ら邯鄲に赴き指揮したが、最終的な討伐は太尉周勃・将軍柴武らが完遂した。
被反乱前197年〜前195年陳豨の反乱
首謀者: 陳豨(代相国)
結果: 十二年、周勃により当城で斬殺され鎮圧完了。
「九月,代相国陳豨反…」漢の統治下にあった相国による武装反抗のため被反乱に計上(rebellionSuppressionCountと同一事象)。
親征前197年9月〜前196年1月陳豨とその与党(王黄・曼丘臣・趙利ら)
対象: 陳豨とその与党(王黄・曼丘臣・趙利ら)
結果: 邯鄲に自ら赴いて指揮、東垣を攻めるも一時攻略できず(城内の兵が高祖を罵り、上怒る)、最終的に城は降伏。陳豨本人の討伐(斬殺)は将軍たちの手で十二年に完遂された。
「九月,代相国陳豨反…上自東,至邯鄲。」「十一年冬,上在邯鄲…高祖攻之不下。」その後「上還雒陽」(十一年正月頃)で高祖本人の親征区間は終了、以後の最終討伐(周勃による陳豨誅殺)は将軍による代行のため親征カウントの対象期間外とした。
反乱鎮圧前196年〜前195年淮南王英布(黥布)の反乱
首謀者: 英布(黥布、淮南王)
結果: 会缶で撃破された後、敗走した布は番陽で漢の別将に斬られた。
「秋七月,淮南王布反…」高祖自ら親征し会缶で撃破。最終的な誅殺は別将による。
被反乱前196年〜前195年淮南王英布(黥布)の反乱
首謀者: 英布(黥布、淮南王)
結果: 会缶で撃破された後、番陽で漢の別将に斬られた。
「秋七月,淮南王布反…」漢の統治下にあった異姓諸侯王による武装反抗のため被反乱に計上(rebellionSuppressionCountと同一事象)。
親征前196年7月〜前195年11月淮南王英布(黥布)
対象: 淮南王英布(黥布)
結果: 会缶で撃破、布は敗走。追撃は別将に委ねたが、高祖はこの戦いで流矢に当たり負傷し、これが崩御の一因となった。
「秋七月,淮南王布反…上自将以撃布。」「十二年冬十月,上破布軍於会缶。」その後「十一月,行自淮南還」で高祖は帰途につく。最終的な布の誅殺(追斬布番陽)は「漢別将」による。
大赦前195年高帝十一年(前196年)、群臣の議により王子恒(後の文帝)を代王に立てることを決した詔の後、「大赦天下」。
高帝十一年(前196年)、群臣の議により王子恒(後の文帝)を代王に立てることを決した詔の後、「大赦天下」。月日は原文に明記なし(十一年内の記事)。
反乱鎮圧前195年2月〜前195年4月燕王盧綰の離反
首謀者: 盧綰(燕王)
結果: 樊噲・周勃を派遣して攻撃させたが、決着がつかないまま高祖が崩御。盧綰はその後匈奴へ亡命した。
「陳豨降将言豨反時燕王盧綰使人之豨所陰謀…食其言綰反有端。春二月,使樊噲、周勃将兵撃綾。」「盧綰与数千人居塞下候伺」とあり、実際に軍勢を集めていたことが確認できるため実質的な反乱として計上。高祖自身は既に英布戦で負傷し親征していないため、親征カウントには含めていない。
被反乱前195年2月〜前195年4月燕王盧綰の離反
首謀者: 盧綰(燕王)
結果: 樊噲・周勃を派遣して攻撃させたが、決着がつかないまま高祖が崩御。盧綰はその後匈奴へ亡命した。
陳豨の反乱に関与した嫌疑から燕王盧綰が数千人の兵を集め塞下に留まった。漢の統治下にあった異姓諸侯王による武装反抗のため被反乱に計上(rebellionSuppressionCountと同一事象。在位終了時点で鎮圧未完了)。