恵帝の人物データ
- 生年
- 前210年
- 在位
- 前195年6月23日〜前188年9月26日
- 没年
- 前188年9月26日23歳(数え年)長生き順同率216位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱盈呼び名の見方
出典
- 在位
- 漢書 巻二 惠帝紀
- 死因
- 漢書・
惠帝紀(史記・ 呂太后本紀と一致) - 即位経路
- 漢書・
惠帝紀(史記・ 呂太后本紀と一致)
生涯
どんな皇帝か
漢書の賛は寛仁の主と評しつつ、呂太后がその徳を損なったことを悲しむ。
即位まで
前205年、彭城で敗れて逃げる高祖は、追っ手が迫ると幼い恵帝と姉を車から突き落とし、夏侯嬰がそのつど拾い上げた。同じ年に太子に立てられた。高祖は太子を仁弱で自分に似ないとして、戚姫の子の如意に替えようとした。大臣たちが諫め、張良の策で八十余歳の四人が太子に従うのを見て、高祖は太子を替えるのを諦めた。前195年に高祖が没して即位した。
史料について
突き落とした回数を、史記の項羽本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は三度とし、夏侯嬰の伝は何度も蹴り落とし、拾う夏侯嬰を斬ろうとしたことが十数回あったとする。四人の老人の話は史記の留侯世家による。漢書の外戚皇帝の母や皇后の実家の一族伝は、大臣の諫め・叔孫通の諫め・張良の策を挙げ、四人には触れない。
治世と最期
即位すると、母の呂太后が異母弟の趙王を毒殺し、戚姫を人彘「人のぶた」の意で、むごい刑を受けた人を呼んだ語にすると、恵帝は政から離れた。呂太后が趙王如意を殺そうとすると、自ら迎えて寝食を共にして守ったが、前194年、早朝の狩りに出た隙に趙王は毒殺された。呂太后は戚姫の手足を断って厠に置き、人彘と呼んだ。見せられた恵帝は大いに泣き、人のすることではない、太后の子として天下は治められないと伝えさせた。一年余り病で起きられず、以後は酒色にふけって政を聴かなかった。母の違う斉王劉肥が来朝したとき、家族の礼で上座に置くと、怒った太后が毒酒を置かせたが、恵帝も杯を取ろうとしたので太后は自ら杯を覆した。
病んだ蕭何を自ら見舞って後任を問い、曹参はどうかと言うと、蕭何はよい人を得られたと答えた。政務を執らない曹参を責めると、逆に問われて、自分は先帝に及ばず曹参は蕭何に及ばないと答え、法を守ればよいという言に納得した。前192年に姉の娘の張氏を皇后に立てた。子が無いため、後宮の美人の子が皇后の子とされ、その母は殺された。
前188年に未央宮で没した。呂太后は哭しても涙を流さず、丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職が張辟彊の策で呂氏を南北軍都を守った南と北の二つの軍の将に請うと、ここから呂氏の権力が起こった。
史料について
戚姫を置いた所を、漢書の外戚伝は厠でなく鞠域とする。死因を、史記・漢書・資治通鑑はどれも明言しない。
恵帝とつながる皇帝

勢力図
楚漢〜前漢初の勢力図で見る
前195年の地図に、恵帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
皇后1・大赦1
- 皇后前192年皇后張氏(張嫣、宣平侯張敖と魯元公主の娘、恵帝の甥姪にあたる)を立后。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前191年皇帝冠す(元服)。
前漢の歴代皇帝
歴代14人の一覧年表
秦・
前漢が