恵帝
前漢|在位 前195–前188年
- 諱(本名)
- 劉盈
- 在位
- 前195–前188年
- 在位期間
- 7年97日365名中155位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 16歳(数え年)172名中・若い順53位タイ
- 没年齢
- 23歳(数え年)269名中・長寿順219位タイ
- 改元
- 0回
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:恵帝
即位の経緯
高祖の太子として通常の手続きで即位。『漢書』恵帝紀「孝惠皇帝、高祖太子也……太子即皇帝位」、『史記』呂太后本紀も「太子襲號爲帝」と一致。
出典: 漢書・惠帝紀(史記・呂太后本紀と一致)
死因の経緯
生母・呂后による異母弟趙王如意の毒殺と戚夫人への凄惨な処刑(人彘)に衝撃を受け政務を放棄、酒色に溺れる生活を送った末に23歳で崩御。直接の死因は病だが、心因的な要因が背景にあるとされる。
出典: 漢書・惠帝紀(史記・呂太后本紀と一致)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
年号(元号)制度は前漢武帝の建元(前140年)以降に成立したものであり、それ以前の恵帝の時代(前195年〜前188年)には年号制度そのものが存在しない。漢書恵帝紀でも紀年は「元年」「二年」…「七年」という即位からの通算年数のみで記され、年号の制定・改元にあたる記述はない。したがって改元回数は0とし、即位に伴う「最初の建元」に相当する事跡も存在しないためevents欄は空とする。
大赦回数
漢書恵帝紀を通読し「赦」の字を含む記述を全て確認した。即位(元年五月丙寅)の恩賞記事(賜民爵一級等)には「赦」の字はなく、大赦の明記があるのは四年三月の「赦天下」のみ。他の年(元年・2年・3年・5年・6年・7年)の条文にも大赦の記述はない。
立后回数
漢書恵帝紀の全条文を確認し、皇后冊立に関する記述は四年十月の「立皇后張氏」のみであることを確認した。それ以外の年(元年・二年・三年・五年・六年・七年)に立后・廃后の記述はない。
皇太子廃立回数
漢書恵帝紀の全条文(元年〜七年)を確認したが、恵帝が皇太子を立てた、または廃したという記述は存在しない。恵帝自身は高祖の太子として即位しており(本紀冒頭「孝惠皇帝,高祖太子也...二年,立為太子...太子即皇帝位」)、恵帝の在位中に自らが皇太子を冊立・廃立した事実は確認できない。恵帝崩御後の少帝恭・少帝弘の廃立は呂后期の出来事であり恵帝の治世中の事跡ではないため計上しない。
親征回数
『漢書』恵帝紀(原文)を元年〜七年の崩御まで全文通読したが、皇帝自身が軍を率いて出陣したことを示す記述(「帝自将」等)は一切見当たらなかった。七年冬十月に「発車騎・材官詣滎陽、太尉灌嬰将」とあるが、これは太尉灌嬰が率いた兵の派遣であり、皇帝本人の出陣ではないため親征に該当しない。よって該当記事なしと判断。
反乱鎮圧回数
恵帝紀原文中に「反」「叛」「起兵」等、反乱を示す語は一切見当たらない。七年冬十月の「発車騎・材官詣滎陽、太尉灌嬰将」は軍事的動員だが、対象となる首謀者・反乱の名称が原文に明記されておらず、同年に敖倉修築の記事も併記されていることから、穀倉地帯(滎陽近郊の敖倉)防衛のための駐屯・警備措置である可能性が高く、特定の反乱を鎮圧したと確認できる記述ではない。断定できないためconfidenceはmediumとし、鎮圧回数には含めなかった。
被反乱回数
恵帝紀原文に恵帝本人を標的とした反乱・クーデター・兵力を伴う弑逆の記述は見当たらない。在位中の実権は呂后が握っていたが、これは太后としての制度的な摂政であり、兵力による反乱・政変ではない。趙隠王如意の薨去(呂后による毒殺とされる)も暗殺の疑いはあるが組織的な兵力行使を伴う反乱ではなく、また恵帝本人を標的としたものでもない。よって該当記事なしと判断。
遷都回数
漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
『漢書』恵帝紀「帝年五歳、高祖初為漢王」(高祖が漢王となったのは前206年、その時恵帝〔劉盈〕は数え5歳)との記載から逆算し、生年を前210年と推定(数え年基準・直接記載からの逆算)。崩御は同紀「七年秋八月戊寅、帝崩於未央宮」(前188年)で、reigns配列の最終endDate(-0187-09-26、astronomical year換算)と一致。没年齢は数え23歳で、既存のdeathCause.noteに記載の「23歳で崩御」とも整合する。即位(「太子即皇帝位」前195年)時点の年齢は数え16歳。誕生月日は原文に記載がないためbirthDatePrecisionはyearとした。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦前187年3月四年三月甲子、皇帝冠す(元服)。
四年三月甲子、皇帝冠す(元服)。これに伴い赦天下(全国規模の大赦)。あわせて法令のうち吏民を妨げるものを省き、挾書律を除く。原文(漢書・恵帝紀):「三月甲子,皇帝冠,赦天下。省法令妨吏民者;除挾書律。」在位中に確認できる全国規模の大赦はこの1件のみ。
立后前187年10月四年冬十月壬寅、皇后張氏(張嫣、宣平侯張敖と魯元公主の娘、恵帝の甥姪にあたる)を立后。
四年冬十月壬寅、皇后張氏(張嫣、宣平侯張敖と魯元公主の娘、恵帝の甥姪にあたる)を立后。原文(漢書・恵帝紀):「四年冬十月壬寅,立皇后張氏。」恵帝の在位中に確認できる立后はこの1件のみで、廃后の記述もない。