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前漢第4代

後少帝劉弘

在位 前184–前180年(4年152日)前184年6月15日 〜 前180年11月14日

日本は弥生時代

前少帝に代わって呂太后に立てられた幼い皇帝で、呂氏が滅ぶと、恵帝の子ではないとして大臣たちに殺された前漢の皇帝である。

後少帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 前184年6月15日〜前180年11月14日
4年152日長い順196位/365人即位の年齢は不詳
没年
前180年年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 前少帝前漢後少帝は前少帝の弟(異説あり)
次代
  • 文帝前漢文帝は後少帝の叔父(異説あり)
呼び名
姓劉諱弘呼び名の見方

出典

在位
漢書 巻三 高后紀
死因
史記・呂太后本紀
即位経路
史記・呂太后本紀

生涯

即位まで

恵帝の後宮の子の山は、常山王となって名を義と改め、前184年に前少帝が廃されると皇帝に立てられて、名を弘と改めた。呂太后が政治を執っていたので、元年は立てなかった。呂禄の娘が帝の后とされた。

史料について

名の移り変わりは史記による。漢書の高后紀は改名を書かない。后を立てた時を、漢書の伝は即位に続けて書き、史記は前180年の呂太后の死の直後に置く。外戚伝は、こうして根本を固めようとしたが益は無かったと評する。

治世と最期

在位中に南越王の尉佗がを称して長沙を侵し、送られた軍は疫病で嶺を越えられなかった。前180年、病が重くなった呂太后は、呂氏を王としたことに大臣は不満で、自分が死ねば帝は年少なので大臣が変を起こす恐れがあるとして、呂禄と呂産に兵を握って宮を守るよう戒めた。同じ年に呂太后が没し、大臣たちが呂氏を滅ぼすと、帝と弟とされた王たちは恵帝の子ではないとされた。

呂産が殺されたとき、帝は謁者に節を持たせて朱虚侯章をねぎらわせた。東牟侯興居と滕公が宮に入って劉氏ではないと告げ、警護の者を退かせて帝をの車で連れ出した。帝がどこへ連れて行くのかと問うと、に移した。その夕、代王が未央宮に入ろうとすると、謁者10人が戟を持ち、天子がおられると言ってを守った。その夜、役人たちが手分けして、弟とされた王たちと帝を邸で殺した。

史料について

恵帝の子ではないという言い分は、史記と漢書のでは大臣たちの言葉として載る。漢書の五行志が引く劉向の説は、弘を呂氏の子と書く。

後少帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱2・大赦2
  1. 反乱前183–前181年南越王尉佗の自立(南武帝僭称)・長沙侵攻
  2. 前182年
  3. 前180年8月18日皇太后(呂后)が未央宮で崩御した際の遺詔により大赦。
  4. 反乱前180年9月〜前180年11月諸呂誅滅にともなう少帝弘の廃位・誅殺(呂氏政変)

前漢の歴代皇帝

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年表

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