後少帝
前漢|在位 前184–前180年
- 諱(本名)
- 劉弘
- 在位
- 前184–前180年
- 在位期間
- 4年153日365名中197位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
前少帝が呂后により廃位・殺害された後、常山王義(劉義)が呂后の指名により擁立され名を弘と改めて即位した(「立常山王義爲帝、更名曰弘」)。「不稱元年者、以太后制天下事也」とあり実権は呂后が握る傀儡的即位。呂后死後、大臣らは彼を含む諸王が「皆非眞孝惠子也」と断じ、文帝擁立に際し廃され誅殺された。
出典: 史記・呂太后本紀
死因の経緯
呂后の死後、周勃・陳平ら大臣により恵帝の実子ではない(呂后が後宮から連れてきた子)と発表され、廃位の上で兄弟ともども誅殺された。同一政権内の大臣らによる粛清のため暗殺に分類。
出典: 史記・呂太后本紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
前漢のこの時期(呂后摂政期、高后元年〜八年)は元号制度が未成立で「元年」「二年」…という即位紀年のみが用いられている(漢の最初の年号「建元」は武帝期の前140年から)。後少帝弘(恆山王弘)は高后四年五月丙辰に即位したが、紀年は引き続き高后(呂太后)の紀年(高后四年〜八年)が使われ、弘自身の即位に伴う独自の紀年制定・改元の記録は『漢書』高后紀に見当たらない。よってcount:0とする。
大赦回数
『漢書』高后紀原文を確認。高后紀は呂后の摂政期を通年で記述し、後少帝弘(恆山王弘)は高后四年五月丙辰に即位したため、六年・八年の大赦はいずれも弘の在位期間内の出来事として扱う。日付は高后紀の干支年月表記に基づく概算(datePrecisionは月/日レベルで判明しているが、ISO日付の日次特定は不確実なため月初等で概算せず、六年は月精度、八年は干支「辛巳」の日付特定を厳密に行っていないためday精度としつつ実際のグレゴリオ暦換算は未実施)。
立后回数
『漢書』高后紀の高后四年〜八年(後少帝弘の在位期間)に「皇后」の語を含む記述は確認できなかった。恵帝紀四年冬十月辛寅「立皇后張氏」は恵帝自身の在位中の立后(張皇后=魯元公主の娘)であり、後少帝弘自身が皇后を立てた記録ではないため計上しない。後少帝弘は幼帝であり在位中に立后した記録なし。
皇太子廃立回数
『漢書』高后紀の高后四年〜八年(後少帝弘の在位期間)の記事に「太子」の語を含む記述は確認できなかった。後少帝弘自身は呂后擁立の幼帝で実権を持たず、彼が皇太子を立てた・廃した記録はない。なお恵帝の太子(後宮美人の子とされる、当初「太子」に擬せられた人物=前少帝)が廃されて幽閉された事件(高后四年夏「少帝自知非皇后子、出怨言、皇太后幽之永巷」)は、恵帝没後・後少帝弘の前任である前少帝(劉恭)の廃位であり、皇帝本人の廃位であって皇太子の廃立ではないため、この項目には計上しない。
親征回数
『漢書』高后紀(高后四年五月丙辰の即位〜高后八年、後少帝弘の在位期間)に、弘自身が「帝自将」「上自将兵」等、皇帝本人が軍を率いて出征したことを示す記述は見当たらない。弘は即位当初から一貫して幼少で、呂太后が臨朝称制し実権を握っていた(「不称元年者、以太后制天下事也」)。在位中の軍事関連記事(匈奴の狄道侵寇、南越の長沙侵犯への隆虑侯灶派遣等)はいずれも将軍への派遣によるもので、皇帝本人の出陣を示す記述はない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
匈奴の狄道侵寇(高后六年・七年)は、漢側が反撃・鎮圧行動を取った記述が『漢書』高后紀に見当たらず、また匈奴は漢の藩臣ではなく純然たる外部勢力であるため、反乱ではなく対外的な侵寇として鎮圧回数には含めなかった。呂禄・呂産による専権・謀反計画(『上将军禄、相国产颛兵秉政…因谋作乱』)とその誅滅(諸呂の乱)については、太尉周勃・丞相陳平らが同一の軍事行動(北軍・南軍の掌握)の延長線上でそのまま少帝弘自身をも廃位・誅殺しており(『大臣相与阴谋…复共诛之、尊立文帝』)、少帝弘の政権が反乱を鎮圧して存続したという通常の『反乱鎮圧』の構図とは言えず、実質的には弘自身も同じクーデターの犠牲者であるため、この一連の事件はrebellionSuppressionCountには計上せず、rebellionSufferedCount側で一体として計上した(秦二世・望夷宮の変の先例と同じ扱い)。
被反乱回数
既存の呂氏政変イベントに加え、南越王尉佗の自立・長沙侵攻(rebellionSuppressionCount側で計上済み)を訂正基準に基づき追加した(2026-07-16監査)。呂氏政変の計上単位(呂氏誅滅と少帝弘廃位を1件として一体視するか否か)の解釈の幅に由来しconfidenceはmediumのまま維持。
遷都回数
漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(deathCause.note・accessionRoute.note・reigns[].note等)および_corpus_cache/han-houshaodi.txt(『漢書』高后紀該当部分)を確認したが、生年月日・享年・即位時年齢の直接記載は見当たらなかった。加えて『史記』呂太后本紀原文(china-history/史記/十二本紀/第九章-呂太后本紀-原文.html)も確認し、「立常山王義為帝、更名曰弘」との即位記事、および廃位・誅殺記事(「有司分部誅滅梁・淮陽・常山王及少帝於邸」)は確認できたが、いずれも弘自身の年齢を示す数値記載はない(弟たちについて「皆年少未之国」との記述はあるが具体的年齢ではない)。呂后が擁立した幼帝であり実権を持たなかった人物のため、正史に生年・没年齢の記録が存在しない典型例と判断し、調査済みだが不明として確定する。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧前182年〜前180年南越王尉佗の自立(南武帝僭称)・長沙侵攻
首謀者: 尉佗(南越王)
結果: 『漢書』高后紀の記述上は結果不明(「遣隆虑侯灶将兵击之」とあるのみで戦闘の帰趨・撤退の有無は記されない)。他書(『史記』南越列伝等)では暑湿・疫病のため漢軍は嶺を越えられず討伐は事実上失敗したとされるが、本調査の主典拠『漢書』帝紀にはその記載がないため『不詳』とした。
高后五年春、高祖に冊封された漢の藩臣であった南越王尉佗が「南越武帝」を自称して漢に対抗し(『五年春、南越王尉佗自称南武帝』)、高后七年秋九月には長沙国に侵犯したため、朝廷は隆虑侯周灶に軍を率いて撃たせた(『七年…秋九月…南越侵盗长沙、遣隆虑侯灶将兵击之』)。尉佗は漢の冊封を受けた藩王であり、単純な外敵(匈奴等)の侵寇とは性質が異なるとみなし、藩王による反乱として鎮圧回数に計上したが、南越は実質的に独立勢力であり対外戦争とみなす余地もあるためconfidenceをmediumとした(後掲、全体confidenceに反映)。同一首謀者(尉佗)による一連の対抗行動として1件に統合。南越との関係修復(尉佗の帝号撤回)は文帝期の外交交渉で実現しており、少帝弘の在位期間内には解決していない。
被反乱前182年〜前180年南越王尉佗の自立(南武帝僭称)・長沙侵攻
首謀者: 尉佗(南越王)
結果: 『漢書』高后紀の記述上は結果不明(「遣隆虑侯灶将兵击之」とあるのみで戦闘の帰趨・撤退の有無は記されない)。他書(『史記』南越列伝等)では暑湿・疫病のため漢軍は嶺を越えられず討伐は事実上失敗したとされるが、本調査の主典拠『漢書』帝紀にはその記載がないため『不詳』とした。南越との関係修復(尉佗の帝号撤回)は文帝期の外交交渉で実現しており、少帝弘の在位期間内には解決していない。
新規追加。南越王尉佗は高祖に冊封された漢の藩臣であったが高后五年に南武帝を僭称し、高后七年秋九月に漢の統治機構下にある長沙国へ侵犯した(『七年…秋九月…南越侵盗长沙、遣隆虑侯灶将兵击之』、『漢書』高后紀原文で確認)。朝廷(少帝弘の政権)はこれを反乱鎮圧の対象として隆虑侯周灶に討伐軍を派遣しており、rebellionSuppressionCount側で同一事件が既に1件計上されている。2026-07-16訂正基準により、鎮圧側に計上された反乱は原則として被反乱側にも同一件数を計上すべきであり、本件は例外1〜4のいずれにも該当しない(内部クーデターでも、皇帝が攻撃主体でも、粒度差の問題でもなく、討伐軍は在位終了前に既に派遣されている)。南越が高祖により冊封された藩臣であった経緯から、匈奴のような純然たる対外勢力ではなく『服属民(藩王)の反乱』とみなし、rebellionSuppressionCount側の判断(confidence: medium)と整合させて追加した。
大赦前180年5月高后紀六年夏四月「赦天下」。
高后紀六年夏四月「赦天下」。原文: 「夏四月、赦天下」。西暦換算で高后六年=前182年(後少帝弘の在位期間中)。
被反乱前179年8月〜前179年11月諸呂誅滅にともなう少帝弘の廃位・誅殺(呂氏政変)
首謀者: 周勃(太尉)・陳平(丞相)、実行部隊は朱虚侯劉章ら
結果: 呂禄・呂産ら呂氏一族は誅滅され、その直後に大臣らは『少帝弘及び恒山王朝ら三弟は真の孝恵帝の子ではない』として弘を廃位・誅殺し、代王劉恒(文帝)を擁立した。
既存確定済みイベント(変更なし)。内部権力者(太尉周勃・丞相陳平ら)が北軍・南軍の兵力を実力で掌握・行使して皇帝を廃位・誅殺したクーデターであり、訂正基準の例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当するため被反乱には含めるが、鎮圧の主体が皇帝側ではないためrebellionSuppressionCountには計上しない扱いを維持。
大赦前176年8月高后紀八年秋七月辛巳、皇太后(呂后)が未央宮で崩御した際の遺詔により大赦。
高后紀八年秋七月辛巳、皇太后(呂后)が未央宮で崩御した際の遺詔により大赦。原文: 「秋七月辛巳、皇太后崩于未央宮…大赦天下」。西暦換算で高后八年=前180年。