前少帝
前漢|在位 前188–前184年
- 諱(本名)
- 劉恭
- 在位
- 前188–前184年
- 在位期間
- 3年240日365名中208位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
恵帝崩御後に太子として即位したが、『史記』呂太后本紀によれば実際には恵帝の実子ではなく、子のなかった張皇后が後宮の子を偽って自分の子とし生母を殺して太子に立てたとされる(「取美人子名之、殺其母、立所名子爲太子」)。呂后の意向による擁立であり、後に出生の秘密を知り不満を漏らしたため呂后により幽閉・殺害され廃位された。
出典: 史記・呂太后本紀
死因の経緯
自身が恵帝と後宮の女官との子であり張皇后の実子でないことを知り、生母を殺した呂后への復讐を示唆したため、呂后は「重病」と称して幽閉し、その後廃位・殺害した。同一政権内(祖母)による謀殺のため暗殺に分類。
出典: 史記・呂太后本紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
前少帝(劉恭)の在位期間(高后元年〜高后四年五月)は「高后○年」という即位紀年で記録されており、独立した年号(元号)制度そのものが未成立。中国史上最初の年号は武帝の建元元年(前140年)であり、それ以前の紀年は改元という制度上の行為に該当しない。『漢書』高后紀原文:「太子立為皇帝,年幼,太后臨朝稱制,大赦天下」の後「元年春正月,詔曰...」と続くのみで、年号制定を示す記述はない。よってcount=0とする。
大赦回数
『漢書』高后紀原文で「大赦天下」の語が確認できるのは(1)恵帝崩御・少帝恭即位時、(2)高后六年夏四月「赦天下」、(3)高后八年七月・高后崩御時の遺詔による大赦、の3箇所。このうち前少帝(劉恭)の在位期間(恵帝崩御〜高后四年五月丙辰の廃位)に該当するのは(1)のみ。(2)(3)は前少帝が既に廃位され恒山王弘(後少帝)が即位した後の出来事であり、後少帝の治世に属するため前少帝にはカウントしない。また(2)は「赦天下」であり「大赦天下」ではない点にも留意。
立后回数
『漢書』高后紀・恵帝紀を通読したが、前少帝(劉恭)自身が皇后を冊立したとする記事は見当たらない。本紀に見える皇后冊立記事「四年冬十月壬寅,立皇后張氏」(恵帝紀)は恵帝自身の皇后(張皇后、魯元公主の娘)の冊立であり、前少帝の治世の出来事ではない。前少帝は即位時「年幼」(幼少)であり、短い在位期間中(恵帝崩御〜高后四年五月の廃位)に皇后を立てた記録はない。
皇太子廃立回数
前少帝(劉恭)自身が皇太子を廃立したとする記事は本紀に見当たらない(そもそも在位中に皇太子を立てた記事も確認できない)。むしろ前少帝自身が高后四年五月丙辰に廃位された側である。『漢書』高后紀:「四年夏,少帝自知非皇后子,出怨言,皇太后幽之永巷…五月丙辰,立恆山王弘為皇帝」。これは前少帝の皇帝位からの廃位であり、皇太子という地位からの廃立には該当しないためcount=0とする。
親征回数
『漢書』高后紀の前少帝(劉恭)在位期間(惠帝崩後即位〜四年夏の幽閉)の記事には、皇帝本人が軍を率いて出征したとする記述(「帝自将」等)は一切見られない。この期間の記事は改元・除罪令・賜爵・災異(丛台災・地震・日食等)・水害・列侯序列制定などが中心で、軍事行動自体の記載がない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
前少帝在位期間(元年〜四年)に政権側が反乱を鎮圧したとする記述は原文に見られない。匈奴の狄道侵寇(六年・七年)や諸呂の乱の鎮圧(八年)はいずれも後少帝(劉弘)在位期間の出来事であり、前少帝の在位期間外。該当記事なし。
被反乱回数
四年夏、少帝(恭)が「自ら皇后の子に非ざるを知り怨言を出す」に至り、皇太后(呂后)が「少帝を永巷に幽す」との記述があり、続けて「今皇帝疾久しく已えず、乃ち失惑昏乱し…その代を議せよ」との詔、群臣は「頓首奉詔」と応じ、五月丙辰に恒山王弘(後少帝)を皇帝に立てたとある。この廃位過程には北軍・南軍等の兵力発動や武力衝突の記述は一切なく、呂太后(臨朝称制の最高権力者)が自らの権威と群臣の同意のみで単独に幽閉・廃立を行ったものと読める(2026-07-16確定基準の『兵力を伴う弑逆・クーデター』には該当しない)。原文には廃位後の殺害の明記はないが(『史記』呂太后本紀には「幽殺之」とあるとされる)、いずれにせよ兵力行使を伴う反乱・政変としての記述ではないため、被反乱としてはカウントしない。該当記事なし。
遷都回数
漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
調査したが原典(『史記』呂太后本紀、『漢書』高后紀・外戚伝上)に前少帝(劉恭)の生年月日・即位時年齢・没年齢の直接記載は見当たらなかった。『史記』呂太后本紀には「帝壮,或聞其母死,非真皇后子,乃出言曰:『後安能殺吾母而名我?我未壮,壮即為變。』」とあり、廃位時点で既に成人(壮)に近い年齢であったことは示唆されるが、数え年の具体的な数値記載はない。既存レコードのdeathCause.note等にも年齢の直接記載はなし。生年・没年齢とも不明として記録する。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦日付不詳恵帝崩御後、太子(前少帝恭)が皇帝に即位した際の大赦。
恵帝崩御後、太子(前少帝恭)が皇帝に即位した際の大赦。『漢書』高后紀:「惠帝崩,太子立為皇帝,年幼,太后臨朝稱制,大赦天下」。即位年月日(高后元年に先立つ、恵帝七年八月の恵帝崩御直後)の詳細な日付は本紀に明記されていないためdatePrecisionはyearとする。