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前漢第3代

前少帝

在位 前188–前184年(3年239日)前188年10月19日 〜 前184年6月15日

日本は弥生時代

恵帝の皇后の子として幼くして位に就いたが、本当の母が殺されたと知って怨みを口にし、呂太后に廃された前漢の皇帝である。

前少帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 前188年10月19日〜前184年6月15日
3年239日長い順207位/365人即位の年齢は不詳
没年
前184年年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 恵帝前漢前少帝は恵帝の子(異説あり)
次代
  • 後少帝前漢後少帝は前少帝の弟(異説あり)
呼び名
姓劉呼び名の見方

出典

在位
漢書 巻三 高后紀
死因
史記・呂太后本紀
即位経路
史記・呂太后本紀

生涯

即位まで

恵帝の皇后の張氏は恵帝の姉の娘で、呂太后があらゆる手を尽くしても子が生まれなかった。そこで後宮の美人が産んだ男子を皇后の子と名乗らせ、生母を殺して、その子を太子に立てた。前188年に恵帝が没すると太子が位に就き、翌年からは号令がすべて呂太后から出た。

史料について

子を名乗らせたのを、史記は懐妊を装った皇后自身とし、漢書の伝は呂太后がそうさせたとする。五行志の引く劉向の説も、太后が名乗らせたとする。どの書も後宮の美人の子と書くだけで、父が恵帝だとはっきりは書かない。

治世と最期

成長して自分が皇后の実子でないと知ると、なぜ母を殺して自分を名乗らせたのか、大人になったら変を起こすと口にした。前184年、呂太后は乱を恐れて永巷に幽閉し、病が重いと称して側近にも会わせなかった。帝は久しく病んで正気を失い、を継げないとして、代わりを立てることになった。帝は廃され、幽閉されたまま殺された。代わりには、常山王義が名を弘と改めて立てられた。

史料について

責めた相手は、史記では皇后、漢書では太后である。代わりを立てる言葉を、史記は太后自身の言葉とし、漢書は群臣に議させる詔とする。最期は史記と資治通鑑による。漢書の外戚伝は幽閉されたまま死んだと書いて殺したとは書かず、高后紀は死を記さない。

前少帝とつながる皇帝

在位中の出来事

大赦1
  1. 日付不詳恵帝崩御後、太子(前少帝)が皇帝に即位した際の大赦。

前漢の歴代皇帝

歴代14人の一覧

年表

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