
呂氏が滅んだあと代王から迎えられて即位し、肉刑体を切ったり傷つけたりする刑罰や田の租税を除き、匈奴と和親して倹約に努めた前漢の皇帝である。
文帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 前180年11月14日〜前157年7月6日
- 没年
- 前157年7月6日年齢不詳
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 後少帝前漢文帝は後少帝の叔父(異説あり)
- 次代
- 景帝前漢景帝は文帝の子
- 呼び名
- 姓劉諱恒廟号太宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 漢書 巻四 文帝紀(即位の経緯は史記 巻九 呂太后本紀にも記載)
- 死因
- 史記・
孝文本紀(呂太后本紀の記事と整合) - 即位経路
- 史記・
孝文本紀(呂太后本紀の記事と整合)
生涯
どんな皇帝か
露台を造ろうとして百金かかると知ると、中流の家十軒分だと言ってやめ、自らは厚手の黒い絹を着た。
即位まで
治世と最期
即位後は罪を軽くし、身内の罪にも寛大だった。前178年に誹謗・妖言の罪を除き、その年の田租田畑でとれた作物にかける税の半分を免じた。異母弟の淮南王劉長が驕っても赦したが、謀反が発覚すると王を廃して蜀へ移し、劉長は道中で食を絶って死んだ。民が兄弟二人が相容れないと歌うのを聞くと、天下は自分が淮南の地を貪ったと思うのかと言い、劉長を厲王と追諡亡くなった人に、あとから死後の名を贈ることした。
前167年、父の刑を贖いたいという緹縈の上書君主に意見を書いて差し出すことを憐れんで肉刑を除き、翌月には田の租税そのものを除いた。匈奴の侵入のさなか、馮唐に法が明らかすぎ賞が軽く罰が重いと言われると、その日のうちに罪に問われていた魏尚を赦した。前162年には匈奴と和親した。
匈奴が大挙侵入したとき、将軍の令しか聞かない周亜夫の細柳の陣で門に止められ、軍礼で迎えられて陣を出ると、これこそ真の将軍だと言った。張釈之が乗輿皇帝の乗る車。転じて皇帝その人の馬を驚かせた者を罰金とすると怒ったが、法は天下と共にするものだと言われると、廷尉裁判や罪人の取り調べを受け持つ役所・その長が正しいと認めた。寵臣の鄧通は才能が無く媚びるだけだったが、銅山を与えて銭を鋳造させた。前157年に未央宮で没し、遺詔皇帝が死に際に残した命令で厚葬と重い服喪を退けた。
史料について
劉長の死に方は漢書の淮南王の伝による。爰盎の伝は病死とし、本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は雍で死んだとだけ書く。緹縈の上書の年を、漢書の刑法志と史記の本紀は即位13年とし、史記の倉公伝は4年とする。
文帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・皇后1・改元2・大赦4
- 改元前180年10月即位に伴う建元(元年)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前180年10月即位後まもなく(元年冬十月)大赦。
- 皇后前179年皇太子(劉啟)の母である竇氏を皇后に立てる。
- 反乱前177年済北王劉興居の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前173年文帝七年夏四月の赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前165年大赦とあわせ名山大川の祭祀の再興を命じる。
- 改元前164年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前160年大赦し官奴婢を庶人とする。
前漢の歴代皇帝
歴代14人の一覧年表
秦・
前漢が