中国皇帝統計

文帝

前漢|在位 前180–前157年

文帝の肖像
諱(本名)
劉恒
廟号
太宗
在位
前180–前157年
在位期間
22年240日365名中49位
即位経路
擁立
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
2332名中78位タイ
大赦
3267名中121位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:文帝

即位の経緯

高帝の子(代王)という血縁はあるが直系太子ではなく、呂氏誅滅後に丞相陳平・太尉周勃ら大臣が主導して代王を長安に迎え即位させた。群臣は「大王高帝長子、宜爲高帝嗣。願大王即天子位」と述べ、代王は三度辞退の後「遂即天子位」。本人による簒奪的行動はなく大臣主導の推戴による即位のため擁立と判定。

出典: 史記・孝文本紀(呂太后本紀の記事と整合)

死因の経緯

未央宮で崩御。史書に具体的な病名の記載はないが、不審死説はなく老衰・自然死とされる。崩御に際し厚葬や長期の服喪を否定する遺詔を残した。

出典: 史記・孝文本紀(呂太后本紀の記事と整合)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

文帝期はまだ武帝建元以降のような正式な「年号(元号)」制度が確立する前であり、「元年」「後元年」という即位起算の紀年区分のみが存在する。ここでは即位時の紀年開始(元年)と、十六年の玉杯発見を契機とする紀年の仕切り直し(後元元年への切替)の2回を「改元」相当のイベントとしてカウントした。正式な年号制度上の改元ではないため、count自体の解釈にはやや幅があり得る点をnoteに明記のうえconfidenceはmediumとする。

大赦回数

『漢書』文帝紀の原文を年ごとに逐次確認し、「赦天下」の明記がある3件(元年・十五年・後元四年)を採用。二年正月の謫作縣官者への免除等、対象を限定した恩赦(大赦ではない)は含めない。日付はWebFetch経由の要約で確認したものであり、原文の直接閲覧環境がテキストとして完全再現できなかったため、月日の精度はconfidence highとしつつも今後原文の一次照合が望ましい。

立后回数

『漢書』文帝紀に元年三月の立后記事が明記されている。在位中の再冊立・廃后は確認されず1回のみ。

皇太子廃立回数

『漢書』文帝紀に皇太子廃立の記事なし。元年正月に劉啟(後の景帝)を皇太子に立てて以降、在位期間を通じて交代・廃立の記載はない(原文:「子啟最長,敦厚慈仁,請建以為太子。上乃許之」)。

親征回数

『漢書』文帝紀中に「自欲征匈奴」(十四年冬、匈奴が北地都尉卬を殺害し侵攻した際、文帝自ら匈奴征伐を望んだが「群臣諫、不聴。皇太后固要上、乃止」で中止)、および「済北王興居聞帝之代欲自撃匈奴」(三年、代に滞在中に自ら匈奴を撃とうとしたが、済北王興居の反乱発生により中断)の2箇所で皇帝本人の出征意欲が見られるが、いずれも実行には至らなかった。三年五月の匈奴侵入時も「上幸甘泉、遣丞相灌婴撃匈奴、匈奴去」とあり、実際の指揮は丞相灌嬰が執り、帝自身は甘泉・高奴・太原を巡行し「留游太原十余日」と明記されるのみで、軍事行動を主導した記述ではない。「帝自将」「上自将兵」に該当する記述は文帝紀中に一切確認できず、該当記事なしと判断。

反乱鎮圧回数

淮南王劉長の六年(前174年)の謀反計画は『漢書』淮南衡山済北王伝により「事覚,治之」(実際の挙兵前に発覚・摘発)と確認できるため、実力行使を伴う反乱に該当せず除外した。新垣平の「謀反」(後元年)も郊祀志により詐欺発覚に対する処罰であり兵力行使を伴わないため除外。

被反乱回数

淮南王劉長の謀反計画(前174年)は挙兵前に発覚・摘発されたため実力行使を伴う反乱に該当せず除外(『漢書』淮南衡山済北王伝:「令男子但等七十人与棘蒲侯柴武太子奇謀,以輦車四十乗反谷口,令人使閩越、匈奴。事覚,治之」)。新垣平の謀反(後元年、方士の詐欺発覚に対する夷三族の処罰)も兵力行使が確認できないため除外。淮南王長事件は『漢書』文帝紀では簡潔に「淮南王長謀反,廃遷蜀厳道,死雍」とのみ記されるが、詳細な淮南衡山済北王伝を確認し発覚時点で未挙兵だったことを確認した。

遷都回数

漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。

即位時年齢・没年齢

『史記』孝文本紀、『漢書』文帝紀、荀悦『前漢紀』(漢孝文皇帝紀上下巻)、『資治通鑑』のいずれも文帝の崩御記事(後七年六月己亥、未央宮にて崩御。deathDateはreignsのendDate `-0156-07-06`と一致)付近に「即位二十三年」という在位年数の記載はあるが、「時年」「享年」等の直接の年齢記載や生年月日の記載が見当たらなかった。代王冊立(高祖十一年)や擁立即位(呂氏誅滅後)の記事にも年齢の言及はない。史記『外戚世家』(薄太后の記事)も確認したが同様に年齢記載なし。年号年ラベルの差分から逆算できる別時点の直接年齢記載も見つからなかったため、accessionAge/deathAge/birthDateはいずれも確定不能としてnullとした。なお通説(中文Wikipedia等の二次資料)では生年を前203年前後とする推定があるが、これは原典に基づく直接記載ではなく学術的にも諸説あるため、一次史料に直接記載のない値として採用を見送った。

在位中の出来事(8件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

立后前179年3月元年三月、皇太子(劉啟)の母である竇氏を皇后に立てる。

元年三月、皇太子(劉啟)の母である竇氏を皇后に立てる。原文:「立太子母竇氏為皇后」。廃后の記録はなく、文帝一代を通じて竇皇后のみ(後の竇太后)。

改元前179年10月即位に伴う建元(元年)。

即位に伴う建元(元年)。閏月己酉に代邸に入り即天子位。冬十月、即位に伴う最初の紀年(元年)が始まる。

大赦前179年10月即位後まもなく(元年冬十月)大赦。

即位後まもなく(元年冬十月)大赦。『漢書』文帝紀:「其赦天下,賜民爵一級,女子百戶牛酒,酺五日」。

反乱鎮圧前177年6月〜前177年8月済北王劉興居の乱

首謀者: 劉興居(済北王)

結果: 鎮圧成功。棘蒲侯柴武を大将軍とし四将軍・十万の兵で撃破、興居は捕虜となり自殺

『漢書』文帝紀三年条:「済北王興居聞帝之代欲自撃匈奴,乃反,発兵欲襲滎陽。於是詔罷丞相兵,以棘蒲侯柴武為大将軍,将四将軍十万衆撃之…八月,虜済北王興居,自殺。赦諸与興居反者。」実際に発兵し滎陽を襲おうとした実力行使であり、皇帝は将軍を派遣して鎮圧(帝自身は太原から長安に帰還したのみで親征はしていない)。

被反乱前177年6月〜前177年8月済北王劉興居の乱

首謀者: 劉興居(済北王)

結果: 鎮圧され興居は捕虜となり自殺(皇帝側の勝利)

反乱鎮圧回数の同一事件。斉悼恵王の子で城陽王劉章の弟にあたる済北王劉興居が、文帝が代に滞在中に自ら匈奴を討とうとしていると聞き、その隙に発兵して滎陽を襲おうとした(背徳反上、大逆とされる)。政権側は柴武率いる十万の軍で鎮圧した。

大赦前165年十五年(前165年)、大赦とあわせ名山大川の祭祀の再興を命じる。

十五年(前165年)、大赦とあわせ名山大川の祭祀の再興を命じる。原文:「赦天下,修名山大川嘗祀而絕者,有司以歲時致禮」。

改元前163年十六年秋九月に「人主延壽」と刻まれた玉杯を得たことを機に「令天下大酺,明年改元」と改元を布告し、翌年(後元元年、前163年)から紀年を「後元」に改める。

十六年秋九月に「人主延壽」と刻まれた玉杯を得たことを機に「令天下大酺,明年改元」と改元を布告し、翌年(後元元年、前163年)から紀年を「後元」に改める。原文:「秋九月,得玉杯,刻曰『人主延壽』。令天下大酺,明年改元」、および「後元年冬十月,新垣平詐覺,謀反,夷三族」。

大赦前160年5月後元四年五月、大赦し官奴婢を庶人とする。

後元四年五月、大赦し官奴婢を庶人とする。原文:「五月,赦天下。免官奴婢為庶人」。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。