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文帝の肖像画

前漢第5代

文帝劉恒

在位 前180–前157年(22年235日)前180年11月14日 〜 前157年7月6日

日本は弥生時代

呂氏が滅んだあと代王から迎えられて即位し、や田の租税を除き、匈奴と和親して倹約に努めた前漢の皇帝である。

文帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 前180年11月14日〜前157年7月6日
22年235日長い順49位/365人即位の年齢は不詳
没年
前157年7月6日年齢不詳
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 後少帝前漢文帝は後少帝の叔父(異説あり)
次代
  • 景帝前漢景帝は文帝の子
呼び名
姓劉諱恒廟号太宗呼び名の見方

出典

在位
漢書 巻四 文帝紀(即位の経緯は史記 巻九 呂太后本紀にも記載)
死因
史記・孝文本紀(呂太后本紀の記事と整合)
即位経路
史記・孝文本紀(呂太后本紀の記事と整合)

生涯

どんな皇帝か

露台を造ろうとして百金かかると知ると、中流の家十軒分だと言ってやめ、自らは厚手の黒い絹を着た。

即位まで

高祖の子で、母は薄姫であり、前196年に代王に立てられた。のちに爰盎は、代にいたころの文帝が、3年病んだ母を衣も解かずに看病し、湯薬は自ら嘗めてから進めたと語った。の手違いで代に送られてきたの中で竇姫だけを寵愛し、前188年に景帝が生まれた。前180年に呂氏が誅されて迎えが来ると、側近の多くは大臣を信用できないとして止め、勧めたのは宋昌だけだった。卜したうえ、母の弟の薄昭に周勃の真意を確かめさせてから長安へ向かい、渭橋で差し出された璽も受けず、五度辞退したのちに即位した。

治世と最期

即位後は罪を軽くし、身内の罪にも寛大だった。前178年に誹謗・妖言の罪を除き、その年のの半分を免じた。異母弟の淮南王劉長が驕っても赦したが、謀反が発覚すると王を廃して蜀へ移し、劉長は道中で食を絶って死んだ。民が兄弟二人が相容れないと歌うのを聞くと、天下は自分が淮南の地を貪ったと思うのかと言い、劉長を厲王とした。

前167年、父の刑を贖いたいという緹縈のを憐れんで肉刑を除き、翌月には田の租税そのものを除いた。匈奴の侵入のさなか、馮唐に法が明らかすぎ賞が軽く罰が重いと言われると、その日のうちに罪に問われていた魏尚を赦した。前162年には匈奴と和親した。

匈奴が大挙侵入したとき、将軍の令しか聞かない周亜夫の細柳の陣で門に止められ、軍礼で迎えられて陣を出ると、これこそ真の将軍だと言った。張釈之がの馬を驚かせた者を罰金とすると怒ったが、法は天下と共にするものだと言われると、が正しいと認めた。寵臣の鄧通は才能が無く媚びるだけだったが、銅山を与えて銭を鋳造させた。前157年に未央宮で没し、で厚葬と重い服喪を退けた。

史料について

劉長の死に方は漢書の淮南王の伝による。爰盎の伝は病死とし、は雍で死んだとだけ書く。緹縈の上書の年を、漢書の刑法志と史記の本紀は即位13年とし、史記の倉公伝は4年とする。

文帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱1・皇后1・改元2・大赦4
  1. 改元前180年10月即位に伴う建元(元年)。
  2. 前180年10月即位後まもなく(元年冬十月)大赦。
  3. 皇后前179年皇太子(劉啟)の母である竇氏を皇后に立てる。
  4. 反乱前177年済北王劉興居の乱
  5. 前173年文帝七年夏四月の赦。
  6. 前165年大赦とあわせ名山大川の祭祀の再興を命じる。
  7. 改元前164年
  8. 前160年大赦し官奴婢を庶人とする。

前漢の歴代皇帝

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年表

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