中国皇帝統計

景帝

前漢|在位 前157–前141年

景帝の肖像
諱(本名)
劉啓
在位
前157–前141年
在位期間
15年242日365名中82位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
32歳(数え年)172名中・若い順119位タイ
没年齢
48歳(数え年)269名中・長寿順89位タイ
改元
3332名中45位タイ
大赦
6267名中67位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
129名中5位タイ
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:景帝

即位の経緯

文帝の太子として通常の手続きで即位。『漢書』景帝紀「孝景皇帝、文帝太子也……太子即皇帝位」。

出典: 漢書・景帝紀

死因の経緯

『漢書』景帝紀・『史記』孝景本紀とも「甲子,帝崩于未央宮」「甲子,孝景皇帝崩」と崩御の事実のみを簡潔に記し、具体的な病名・死因の記述はない。後元三年正月に太子劉徹(武帝)の加冠の儀を執り行った直後の崩御で、他殺・変死を示唆する記述もなく自然死とみるのが通説だが、原典に「病」の語自体は明示されていない。

出典: 漢書・景帝紀補記: 原典検証(2026-07-15、『漢書』景帝紀・『史記』孝景本紀原文を直接確認)で「病重身亡」という具体的表現は原文に存在しないことが判明し、confidenceをhighからmediumに修正。

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

景帝の時代はまだ武帝の建元(前140年)以前であり、後世的な意味での「年号」制度は未成立。ただし『漢書』景帝紀は在位期間を「元年(前元)」「中元」「後元」の3期に区切って紀年しており、この区切りを実質的な改元相当として数えた(先例:文帝も同様に前元・後元の2期に区切られている)。即位年の建元を含め3回とした。

大赦回数

『漢書』景帝紀(zh.wikisource.org「漢書/卷005」)を直接確認。本紀中「赦」字を含む記事は他に中元二年秋九月「赦徒作陽陵者死罪」(陽陵築造に従事する死刑囚のみを対象とした限定的恩赦)があるが、全国規模ではないため大赦回数には含めない。また前元三年夏六月の「皆赦之」も呉楚七国の乱の関係者・逃亡兵に限定した恩赦のため除外。「大赦天下」と明記されるのは前元三年の1件のみで、他5件は「赦天下」表記だが、いずれも「賜民爵一級」を伴う全国規模の恩赦としての体裁が共通しており、通例に従い大赦としてカウントした。

立后回数

景帝が実際に「立皇后」の詔を発して冊立したのは王氏の1回のみ。薄皇后は廃されただけで、景帝による新規立后の記録ではない。

皇太子廃立回数

『漢書』景帝紀の記述により、景帝在位中に皇太子が廃されたのは劉栄の1回のみ。劉徹(後の武帝)はその後即位まで廃されていない。

親征回数

『漢書』景帝紀の在位期間中(前157年〜前141年)、皇帝自身が軍を率いて出征した記述(「帝自将」「上自将兵」等)は見当たらない。呉楚七国の乱の鎮圧は「遣太尉亜夫、大将軍竇嬰将兵撃之」とあり、景帝本人ではなく将軍が出征している。匈奴との関係も「与匈奴和亲」「遣公主嫁匈奴単于」等の和親・使者派遣の記事のみで、親征の記述はない。該当記事なしのため0件。

反乱鎮圧回数

在位期間中の反乱鎮圧は呉楚七国の乱の1件のみ。他に「挙兵反」等の兵力行使を伴う蜂起の記述は見当たらない。

被反乱回数

在位期間中に皇帝(景帝)を対象とした兵力を伴う反乱は呉楚七国の乱の1件のみ。宦官・外戚・権臣等による兵力を伴うクーデターの記述は見当たらない(条侯周亚夫は獄死しているが、これは景帝側が周亜夫を処断した事件であり、周亜夫が兵を用いて景帝に反抗した記述ではない)。

遷都回数

漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。

即位時年齢・没年齢

生年は『漢書』外戚伝(孝文竇皇后条)「代王独幸竇姫、生女嫖。孝惠七年、生景帝」により、父劉恒がまだ代王であった孝惠帝七年(前188年)生まれと直接記載されている(享年・即位時年齢そのものの直接記載「時年◯◯」等は景帝紀中に見当たらなかった)。崩御日は景帝紀「甲子、帝崩于未央宮」(後元三年)で、既存JSONのreigns[0].endDate=-0140-03-09(前141年)と一致。即位時年齢32歳・没年齢48歳は、直接記載された生年(前188年)と即位年(前157年)・崩御年(前141年)の差分から数え年(虚歳)で逆算した値((188-157)+1=32、(188-141)+1=48)。

在位中の出来事(13件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元前157年即位に伴う建元(前元元年)。

即位に伴う建元(前元元年)。前157年(後七年)六月、文帝崩御に伴い丁未の日に「太子即皇帝位」。即位翌年(元年)冬十月より紀年を開始(後世これを「前元」と呼ぶ)。当時は武帝以前で正式な「年号」制度はまだ確立していないが、本紀では「元年」「中元年」「後元年」と紀年を改める記事があるため、これを改元相当の区切りとして数える。

大赦前156年4月前元元年夏四月「赦天下,賜民爵一級」(『漢書』景帝紀)。

前元元年夏四月「赦天下,賜民爵一級」(『漢書』景帝紀)。即位翌年最初の全国規模の大赦。

大赦前154年前元三年、呉楚七国の乱勃発(春正月、淮陽王宮殿火災の直後)に際し「呉王濞、膠西王卬、楚王戊、趙王遂、濟南王辟光、菑川王賢、膠東王雄渠皆舉兵反。

前元三年、呉楚七国の乱勃発(春正月、淮陽王宮殿火災の直後)に際し「呉王濞、膠西王卬、楚王戊、趙王遂、濟南王辟光、菑川王賢、膠東王雄渠皆舉兵反。大赦天下」(『漢書』景帝紀)。本紀に月の明記なし(春正月の記事に続くが正確な月は不詳)。なお同年夏六月に別途「詔曰:吳王濞等為逆…吏民當坐濞等及逋逃亡軍者,皆赦之」とあるが、これは乱の関係者・逃亡兵に対象を限定した恩赦であり、全国規模の大赦とは区別してカウントしていない。

反乱鎮圧前154年1月〜前154年6月呉楚七国の乱

首謀者: 呉王劉濞(楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠が連合)

結果: 鎮圧成功。太尉周亜夫・大将軍竇嬰が率いる政府軍が「諸将破七国、斬首十余万級」。呉王濞は丹徒で追斬され、楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠は皆自殺。御史大夫晁錯は「以謝七国(清君側の名目に応えるため)」処刑された。

景帝三年(前154年)春正月、「呉王濞、胶西王卬、楚王戊、趙王遂、済南王辟光、菑川王賢、胶東王雄渠皆挙兵反」と、七王の挙兵が一体の記事としてまとめて記述され、鎮圧も「遣太尉亜夫、大将軍竇嬰将兵撃之」と単一の軍事行動として記され、その後も「諸将破七国」と一括して「七国」と呼称されている。よって史料上一体の連合反乱として扱い、1件とカウントした。夏六月の詔で「濞等已滅」と平定完了が確認されるため、終結時期をこの詔の月に置いたが、実際の各勢力の壊滅時期(二月〜三月頃)は原文に明記がなく厳密には不詳。なお三年冬十二月条の「襄平侯嘉子恢説…謀反、欲以殺嘉」は、対象が皇帝ではなく父の嘉であり、また挙兵・兵力行使を伴う記述がなく「論恢説及妻子如法」と裁判で処断された謀反発覚事件と読めるため、本カウントには含めていない。

被反乱前154年1月〜前154年6月呉楚七国の乱

首謀者: 呉王劉濞(楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠が連合)

結果: 景帝側の勝利。七王はいずれも敗死(追斬または自殺)し、景帝の皇位は保たれた。

呉楚七国の乱は中央政権(景帝)に対する反乱であり、rebellionSuppressionCountと同一の事件。表向きは「請誅晁錯、以清君側」を名目としたが、実質的には中央(皇帝)の権力・諸侯王の権益を巡る武力反抗であり、景帝政権そのものへの反乱として被反乱にもカウントした。

大赦前153年6月前元四年夏六月「赦天下,賜民爵一級」(『漢書』景帝紀)。
皇太子廃立前150年1月前元七年春正月「廢皇太子榮為臨江王」(『漢書』景帝紀)。

前元七年春正月「廢皇太子榮為臨江王」(『漢書』景帝紀)。前元四年夏四月己巳に立てられた皇太子劉栄(栗姫所生)を廃し臨江王とした。同年四月乙巳に王氏を皇后に立て、丁巳(同月)に膠東王劉徹(王皇后所生)を新たに皇太子に立てている。廃された劉栄は中元二年、太宗(文帝)廟の地を侵した罪に問われ自殺(『漢書』景帝紀中元二年三月)。

立后前150年4月前元七年夏四月乙巳「立皇后王氏」(『漢書』景帝紀)。

前元七年夏四月乙巳「立皇后王氏」(『漢書』景帝紀)。王娡(王皇后、後の武帝の母)を皇后に立てた。なお先代の薄皇后(文帝の代からの薄氏一族の女性、景帝の即位に伴い皇后となっていた)は前元六年秋九月に廃されている(「皇后薄氏廢」)が、薄皇后は景帝が新たに立后したものではなく文帝の時代からの婚姻関係に基づく地位であったため、景帝による立后としてはカウントしていない。

改元前149年中元年(『漢書』景帝紀「中元年夏四月」)。

中元年(『漢書』景帝紀「中元年夏四月」)。在位中に紀年を「元年」から「中元」へ改めた1回目の改元。

大赦前149年4月中元年夏四月「赦天下,賜民爵一級」(『漢書』景帝紀)。

中元年夏四月「赦天下,賜民爵一級」(『漢書』景帝紀)。改元後最初の大赦。

大赦前145年6月中元五年六月「赦天下,賜民爵一級」(『漢書』景帝紀)。
改元前143年後元年(『漢書』景帝紀「後元年春正月,詔曰」)。

後元年(『漢書』景帝紀「後元年春正月,詔曰」)。在位中2回目の改元。この後元三年正月(前141年)に景帝は崩御した。

大赦前143年3月後元年三月「赦天下,賜民爵一級」(『漢書』景帝紀)。

後元年三月「赦天下,賜民爵一級」(『漢書』景帝紀)。なお後元年春正月に詔が出され、その後三月に大赦が実施されている。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。