武帝
前漢|在位 前141–前87年

- 諱(本名)
- 劉徹
- 廟号
- 世宗
- 在位
- 前141–前87年
- 在位期間
- 54年31日365名中4位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 16歳(数え年)172名中・若い順53位タイ
- 没年齢
- 70歳(数え年)269名中・長寿順12位タイ
- 改元
- 11回332名中3位タイ
- 大赦
- 18回267名中8位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 1回29名中5位タイ
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 5回225名中88位タイ
- 被反乱
- 5回289名中97位タイ
- 遷都
- 0回
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:武帝
即位の経緯
景帝の子として、栗太子(劉栄)廃位後に皇太子に立てられ、景帝崩御に伴い太子として即位。『漢書』武帝紀「孝武皇帝、景帝中子也……太子即皇帝位」。皇太子からの正規の継承のため世襲と判定。
出典: 漢書・武帝紀
死因の経緯
晩年の病状悪化を経て五柞宮で崩御(70歳)。崩御4日前に幼子の劉弗陵(昭帝)を太子に立て、霍光らに後事を託した。具体的な病名の記載はないが他殺の記述もない。
出典: 漢書・武帝紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
武帝は中国史上最初に年号(元号)を制定した皇帝で、在位中に建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元の11元号を用いた(本紀各年条の冒頭に元号名が明記される)。events[0]は即位に伴う最初の建元。なお建元の初制定時期については学術的に「元鼎年間に遡って命名された」とする異説もあるが、紀年法上の通説(本紀の紀年に採用されている11元号制)に従いここでは11回とカウントする。
大赦回数
『漢書』武帝紀を通読し「赦天下」「大赦天下」等の全国規模の大赦記事を18件抽出。清末の法学者沈家本『歴代刑法考・赦考』による学術的統計(武帝の在位55年間で大赦18回、平均3年に1回)とも一致(原文抜粋: 元朔元年「赦天下,與民更始」等)。部分的な恩赦・特定地域のみの減刑は含めない。
立后回数
『漢書』武帝紀原文「元朔元年春三月甲子,立皇后衛氏」により、衛子夫(衛皇后)の冊立が1件確認できる。武帝は即位当初は陳皇后(陳阿嬌)が既に皇后であったが、これは景帝時代からの婚姻によるもので武帝が皇帝として新たに冊立した事例ではないため本カウントには含めない(陳皇后は元光五年乙巳に廃されたことが本紀に明記されている:「皇后陳氏廢」)。衛皇后廃后後の再冊立の記録はない(衛皇后は征和二年の巫蠱の禍で自殺)。
皇太子廃立回数
皇太子劉拠(衛皇后所生。元狩元年丁卯立太子)は征和二年(前91年)の巫蠱の禍で、江充に讒言され、節を矯めて兵を発し丞相劉屈氂と長安で交戦。敗れて逃亡し、八月に湖県で自殺。ただし本紀原文には詔による正式な「廃太子」の語は見当たらず(皇后については璽綬回収の詔があるが、太子については逃亡・自殺の記述のみ)、制度的な「廃立」というより挙兵失敗・自殺による皇太子位の実質的喪失という性質が強い。この事実(皇太子位の空位化が1件生じたこと)自体は確実だが、CLAUDE.mdの定義(『立てられていた皇太子を廃した』)に厳密に該当するか判定が分かれるためconfidenceをmediumとした。後元二年二月乙丑、皇子弗陵(昭帝)が新たに皇太子に立てられており、これは劉拠の件を含めた廃立後の新規立太子であって別カウントの立太子行為(廃立回数には計上しない)。
親征回数
『漢書』武帝紀を全文精査した結果、皇帝本人が軍を率いて戦場(国境)に赴いたと明記される事例は元封元年の対匈奴示威行軍の1件のみ。他の外征(匈奴・南越・東越・朝鮮・大宛・西羌・西南夷等)はすべて将軍派遣によるもので武帝本人は出征していない。封禅・巡狩(泰山封禅、南巡狩で蛟を射た等)は軍事行動ではなく巡遊のため対象外とした。
反乱鎮圧回数
淮南王劉安・衡山王劉賜の謀反(元狩元年)は、『漢書』淮南衡山済北王伝を確認した結果、密告により事前に発覚し(伍被が自首して謀反計画を告発)、官吏が王宮を包囲して逮捕に至った段階で劉安・劉賜とも自殺しており、実際に兵を発して交戦した記録がない(計画のみで実際の挙兵に至らなかった謀反)ため、鎮圧回数には含めなかった。同様に征和三年の『反者公孙勇、胡倩発覚、皆伏辜』も、『漢書』酷吏伝を確認したところ、淮陽太守田広明が謀反の企てを察知し兵を発して捕斬した段階(衣装を偽って郡守を襲う計画段階)で終わっており、大規模な交戦には至っていないため除外した。南越(呂嘉の反)・東越(餘善の反)・西羌・朝鮮・大宛・匈奴への外征は、いずれも漢に服属していたとはいえ独自の統治機構を持つ外国的存在への征服戦であり、target が国内勢力ではないため rebellionSuppressionCount の対象外とした(武都氐・益州昆明は漢が新設した郡県内の部族反乱であるため国内反乱として区別し計上した)。
被反乱回数
上記のほか、淮南王劉安・衡山王劉賜の謀反、征和三年の公孫勇・胡倩の謀反は、いずれも実際の挙兵(兵力行使)に至る前に発覚・鎮圧された計画段階の謀反であり、共通ルールの除外規定『密告・摘発のみで実際の兵力行使に至らなかった謀反計画は含めない』に該当するため被反乱回数に含めなかった(詳細はrebellionSuppressionCountのnote参照)。南越・東越・匈奴・西羌等の外征に伴う漢使者殺害や辺境侵入は、対象が武帝個人ではなく漢という国家・辺境地域への攻撃であり、かつ独自の統治機構を持つ外国勢力によるものであるため被反乱回数の対象外とした。【2026-07-16監査】従来rebellionSuppressionCountのみに計上され被反乱回数から漏れていた武都氐人の反乱(元封三年)・益州昆明の反乱(元封六年)・天漢年間の群盗蜂起(泰山・琅邪の徐勃等)の3件は、いずれも漢の郡県支配下(服属民)による実際の武装蜂起であり、鎮圧・被反乱を原則同一視する訂正基準に照らして被反乱回数に追加した。これによりrebellionSufferedCountはrebellionSuppressionCountの5件と完全に一致する。
遷都回数
漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
即位時年齢は原典直接記載:『漢書』武帝紀冒頭「孝武皇帝、景帝中子也……年四歳立為膠東王、七歳為皇太子……十六歳、後三年正月、景帝崩。甲子、太子即皇帝位」(数え年16歳で即位、_corpus_cache/han-wudi.txt 1行目)。没年齢70歳は既存deathCause.note記載(『漢武帝』zh、五柞宮崩御時70歳)を採用。即位年(前141年)・崩御年(前87年)の年号差54年を即位時年齢16に加算すると16+54=70となり、直接記載の没年齢70歳と完全に一致しクロスチェック済み。生年は即位時年齢16(前141年即位)から逆算し前156年(月日は原典に記載なく不明のため年精度)。
在位中の出来事(42件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元前140年建元元年(即位翌年からの最初の建元。
建元元年(即位翌年からの最初の建元。中国史上最初の年号)
親征前110年10月〜前110年12月匈奴
対象: 匈奴
結果: 戦闘なし(示威行軍)。単于は応戦せず、匈奴は畏服して退いた(匈奴詟焉)
元封元年冬十月、詔に『躬秉武節、置十二部将軍、親帥師焉』とあり、皇帝自ら十二部将軍を率いて雲陽から上郡・西河・五原を経て長城を出、単于台に登り朔方に至り北河に臨んだ。『勒兵十八萬騎』と大軍を親率し、単于へ使者を送り『単于能戦、天子自将待邊』と明記されており、皇帝本人の出陣を示す記述(親帥師・天子自将)が原典に明確にある。ただし実際の交戦は起きず、匈奴が畏服して兵を引いた(威嚇行軍)。帰途は橋山で黄帝を祀り甘泉宮に戻った。他の対匈奴・南越・東越・朝鮮・大宛・西羌等への外征(元光〜征和年間)はいずれも衛青・霍去病・李広利ら将軍への派遣によるもので、原典に皇帝本人の出陣を示す記述がないため親征に含めていない(例:元光二年馬邑の謀は韓安国ら護軍将軍が指揮、武帝本人は長安に留まった)。
反乱鎮圧前108年武都氐人の反乱(元封三年)
首謀者: 不詳(武都郡の氐人部族、指導者名は原典に記載なし)
結果: 反乱を起こした氐人の一部を酒泉郡へ分けて強制移住させることで処置した(原典『武都氐人反、分徙酒泉郡』)。明確な軍事交戦の記録はないが、武帝紀の記述の直後に将軍派遣の記事が続かないため、行政的な分割移住による鎮定と判断
武都郡は元鼎六年(-111年)に漢が新設した郡で、その郡内に居住する氐人が起こした反乱。対象が漢の郡県支配下(国内)の勢力であるため南越・匈奴等の外国征服戦とは区別し反乱鎮圧に含めた。ただし記述が極めて簡潔で指導者名や交戦の詳細が不明なためconfidence lowの個別要素として扱う(全体confidenceはmediumに含めて判断)。原典では季節(秋七月の条の直後)の記載のみで正確な月が特定できないため年精度とした。
被反乱前108年武都氐人の反乱(元封三年)
首謀者: 不詳(武都郡の氐人部族、指導者名は原典に記載なし)
結果: 反乱を起こした氐人の一部を酒泉郡へ分けて強制移住させることで処置した(原典『武都氐人反、分徙酒泉郡』)。明確な軍事交戦の記録はないが、行政的な分割移住による鎮定と判断
『漢書』武帝紀原文『武都氐人反、分徙酒泉郡』により、元封三年(前108年)に武都郡(西南夷平定により漢が新設した郡)の氐人が実際に反乱を起こしたことが確認できる。武都氐人はこの反乱以前に漢の郡県支配下に組み込まれていた服属民であり、【2026-07-16訂正】の『郡県等、皇帝の統治機構下にある集団による蜂起は服属民の反乱として両方に含める』に該当する。従来rebellionSuppressionCountのみに計上されていたが、鎮圧・被反乱を原則同一視する訂正基準に照らし、除外を正当化する例外(粒度差・未鎮圧・皇帝が攻撃主体・宮廷内クーデター)のいずれにも該当しないため被反乱回数にも追加した。
反乱鎮圧前105年益州・昆明の反乱(元封六年)
首謀者: 不詳(益州郡の昆明族、指導者名は原典に記載なし)
結果: 京師の亡命者を赦免して従軍させ、拔胡将軍郭昌を派遣して撃たせた。最終的な平定の成否・被害の詳細は原典に記載なし
益州郡は元封二年(-109年)に西南夷を平定して新設した郡(原典『発巴、蜀兵平西南夷未服者、以為益州郡』)。その郡内の昆明族が反乱を起こした事例で、漢の郡県支配下(国内領域)に対する反乱として鎮圧回数に含めた。将軍派遣による鎮圧のため親征には該当しない。
被反乱前105年益州・昆明の反乱(元封六年)
首謀者: 不詳(益州郡の昆明族、指導者名は原典に記載なし)
結果: 京師の亡命者を赦免して従軍させ、拔胡将軍郭昌を派遣して撃たせた。最終的な平定の成否・被害の詳細は原典に記載なし
『漢書』武帝紀原文『益州、昆明反、赦京師亡命令従軍、遣抜胡将軍郭昌将以撃之』により、元封六年(前105年)に益州郡(西南夷平定により漢が新設した郡)の昆明族が反乱を起こし、漢が拔胡将軍郭昌を派遣して実際に軍を発して撃ったことが明記されている。益州郡は既に漢の郡県支配下にある地域であり、【2026-07-16訂正】の服属民の反乱に該当する。従来rebellionSuppressionCountのみに計上されていたが、除外を正当化する例外に該当しないため被反乱回数にも追加した。
反乱鎮圧前99年天漢年間の群盗蜂起(泰山・琅邪の徐勃等が山を阻んで城を攻めた事件)
首謀者: 徐勃(『漢書』酷吏伝によれば同時期に南陽の梅免・百政、楚の段中・杜少、燕趙の堅盧・范主等も各地で並行して蜂起)
結果: 直指繍衣使者暴勝之等を派遣して督捕させ、光禄大夫范昆・故九卿張徳等が兵を発して撃ち、大部隊を斬首すること或いは一万余級に及んだ(酷吏伝)。刺史・郡守以下、鎮圧に失敗した地方官は皆誅殺された。ただし残党は山川に拠って再結集を繰り返し、根絶には至らなかった
武帝紀本文は天漢二年秋の条に『泰山、琅邪群盗徐勃等阻山攻城、道路不通』とのみ記し、指揮官暴勝之の派遣と『刺史、郡守以下皆伏誅』を記す。『漢書』酷吏伝(張湯伝所収)を確認したところ、同時期に南陽(梅免・百政)・楚(段中・杜少)・燕趙(堅盧・范主)でも同様の大規模群盗蜂起(数千人規模、城邑を攻め武器庫を奪い死刑囚を解放し二千石を殺害)が並行して起きていたことが判明した。これらが史料上『一体の反乱』として記述されているか独立事件か判断が難しいが、武帝紀(本設問の一次史料)が明示的に日付・場所を与えているのは泰山・琅邪の徐勃の件のみであり、他地域の指導者は武帝紀に年月を伴って記載されていないため、無理に別件として日付を推定せず、武帝紀の記述に基づき1件として計上した。実態としては複数地域・複数指導者による並行蜂起である可能性が高い点をconfidence medium とする根拠として明記する。
被反乱前99年天漢年間の群盗蜂起(泰山・琅邪の徐勃等が山を阻んで城を攻めた事件)
首謀者: 徐勃(『漢書』酷吏伝によれば同時期に南陽の梅免・百政、楚の段中・杜少、燕趙の堅盧・范主等も各地で並行して蜂起)
結果: 直指繍衣使者暴勝之等を派遣して督捕させ、光禄大夫范昆・故九卿張徳等が兵を発して撃ち、大部隊を斬首すること或いは一万余級に及んだ(酷吏伝)。刺史・郡守以下、鎮圧に失敗した地方官は皆誅殺された。ただし残党は山川に拠って再結集を繰り返し、根絶には至らなかった
『漢書』武帝紀原文『泰山、琅邪群盗徐勃等阻山攻城、道路不通。遣直指使者暴勝之等衣繍衣、杖斧分部逐捕。刺史、郡守以下皆伏誅』により、天漢二年(前99年)に泰山・琅邪の群盗徐勃らが実際に武装して山を拠点に城市を攻撃し道路を遮断する規模の武装蜂起を起こし、漢が直指繍衣使者暴勝之らを派遣して実際に討伐・逮捕に当たったことが明記されている(『漢書』酷吏伝によれば首級一万余に及ぶ交戦もあった)。単なる摘発・密告に留まらず実際の兵力衝突を伴う点、対象が漢の統治領域内の群盗である点で、【2026-07-16訂正】に明記された『飢民・盗賊による蜂起(黄巾の乱等)であっても実際に武装し政権への反抗行動を取り、政権側が鎮圧の対象としたなら被反乱にも計上する』に該当する。従来rebellionSuppressionCountのみに計上されていたが、除外を正当化する例外に該当しないため被反乱回数にも追加した。
反乱鎮圧前91年7月〜前91年8月巫蠱の禍・戻太子挙兵
首謀者: 戻太子劉拠(皇后衛子夫が連座)
結果: 丞相劉屈氂が率いる政府軍が長安城内で太子軍と大戦し(死者数万人)、太子は敗れて逃亡、8月辛亥に湖県で自殺した。皇后衛子夫は太子逃亡直後に自殺
征和二年秋七月、按道侯韓説・使者江充等が太子宮を掘り蠱物を探索したことを契機に、太子劉拠は皇后と謀って江充を斬り、『以節発兵、与丞相劉屈氂大戦長安、死者数万人』と原典に明記されている。すなわち太子は皇帝の使う『節』(符節)を用いて実際に軍を発し、丞相率いる政府軍と長安城内で大規模な戦闘を行った記録が明確に存在する(単なる暗殺・摘発ではなく実際の兵力行使を伴う武力衝突)。政府側(丞相劉屈氂軍)が鎮圧の主体であったため鎮圧回数にも計上した。太子の当初の目的は江充誅殺であり皇帝本人への叛意を明言した記述はないが、結果として朝廷軍と長安市街で大規模交戦に至り皇帝の統治機構に対する武力挑戦となったため、被反乱回数にも計上する(下記参照)。confidenceは目的の解釈に幅があるためmediumとした。
被反乱前91年7月〜前91年8月巫蠱の禍・戻太子挙兵
首謀者: 戻太子劉拠(皇后衛子夫が連座)
結果: 太子は長安城内での大戦(死者数万人)に敗れて逃亡、8月に湖県で自殺。皇后衛子夫も自殺した。武帝は事件後に太子の冤罪を悟り、思子宮・帰来望思之台を建てて追悼した(本紀外の伝承)
原文『太子与皇后謀斬充、以節発兵与丞相劉屈氂大戦長安、死者数万人』により、太子が皇帝の権威の象徴である符節を用いて実際に軍を発し、丞相率いる中央政府軍と長安市街で大規模な武力衝突を起こしたことが明確である。太子本人の当初の意図は江充誅殺(自らを陥れた奸臣への報復)であり、皇帝廃位や弑逆を公然と標榜した記述はないため、対象が皇帝本人であったか丞相・江充等の権臣であったかは解釈の余地がある。しかし丞相刘屈氂は皇帝の代理として政府軍を指揮しており、太子軍との交戦は事実上、朝廷の正統な統治機構・軍事力に対する武力での挑戦となった。武帝自身も事件当時甘泉宮に在り直接攻撃対象ではなかったが、乱後『使者江充等』を除いた後も引き続き太子を反逆者として追討させ、最終的に死に追いやっている点から、朝廷(皇帝の統治)に対する反乱として扱うのが史学上一般的(『戻太子の乱』として通称される)。以上を踏まえ確定要素として計上した。
皇太子廃立前91年8月征和二年八月辛亥、皇太子劉拠が湖県で自殺(巫蠱の禍。
征和二年八月辛亥、皇太子劉拠が湖県で自殺(巫蠱の禍。七月壬午に江充を斬り丞相劉屈氂と長安で交戦、庚寅に敗走。正式な廃太子の詔は原文に明記されないが、皇太子位はこの事件により喪失)
改元前88年征和→後元に改元(最後の元号。
征和→後元に改元(最後の元号。「後元」の正式名称については後の元号か単に「後」の一字かで異説あり)
反乱鎮圧前88年6月莽何罗の矯制発兵・武帝暗殺未遂事件
首謀者: 莽何罗(弟の重合侯莽通、末弟の莽安成も同謀)
結果: 金日磾が莽何罗を組み伏せて捕縛し、上官桀・霍光らと共に誅殺した。何罗兄弟は取り調べの上皆処刑された(穷治、皆伏辜)。金日磾・上官桀・霍光は功により列侯に封じられた
武帝紀本文(後元元年夏六月)は『侍中僕射莽何羅与弟重合侯通謀反、侍中駙馬都尉金日磾、奉車都尉霍光、騎都尉上官桀討之』と簡潔に記すのみだが、『漢書』霍光金日磾伝を確認したところ、莽何羅兄弟は『矯制夜出、共殺使者、発兵』(偽の詔勅を用いて夜間に出動し使者を殺害して実際に兵を発した)とあり、翌朝白刃を懐に武帝の寝所に侵入しようとしたところを金日磾に取り押さえられたと記録されている。単独犯行の暗殺未遂ではなく、偽詔による実際の兵力動員(発兵)を伴う宮廷内クーデター未遂であり、標的も武帝本人(就寝中の武帝を刃で襲おうとした)であったことが明確なため、鎮圧回数・被反乱回数の双方に高い確度で計上した。
被反乱前88年6月莽何罗の矯制発兵・武帝暗殺未遂事件
首謀者: 莽何罗(弟の重合侯莽通、末弟の莽安成も同謀)
結果: 金日磾に取り押さえられて未遂に終わり、何罗兄弟は皆処刑された。武帝本人に直接の危害は及ばなかった
『漢書』霍光金日磾伝によれば、侍中僕射という朝廷内部の側近官であった莽何羅が、弟の重合侯莽通・末弟莽安成と共謀し、偽の詔勅で夜間に兵を動員(矯制夜出、共殺使者、発兵)した上、翌朝白刃を懐に武帝の寝所に侵入しようとしたところを金日磾に発見・組み伏せられて未遂に終わった事件。標的が武帝本人(就寝中の武帝の寝所への侵入を試みた)であることが明確であり、かつ偽詔による実際の兵力動員を伴う点で、単なる刺客による暗殺未遂とは一線を画す(組織的な兵力行使を伴うクーデター未遂)。2026-07-16確定の運用基準『朝廷内部の権力者による実力を伴う弑逆・クーデターも含める』に該当するためconfidence highで計上した。