廃帝・昌邑王
前漢|在位 前74年
- 諱(本名)
- 劉賀
- 在位
- 前74年
- 在位期間
- 27日365名中362位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 19歳(数え年)172名中・若い順72位タイ
- 没年齢
- 33歳(数え年)269名中・長寿順174位タイ
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
武帝の孫、昌邑哀王の子。昭帝に子がなく崩御したため、霍光が皇太后の詔を得て昌邑王を迎立した(「即日承皇太后詔、遣……迎昌邑王賀」)。在位27日で淫乱を理由に霍光が群臣を率いて弾劾し皇太后の詔により廃位。即位・廃位とも霍光ら大臣主導の典型的な擁立。
出典: 漢書・霍光金日磾傳
死因の経緯
廃位後は海昏侯として過ごし、33歳で死去。『漢書』は劉賀のために伝を立てず「後薨」の2文字のみを記す。2011年発掘の海昏侯墓(出土品調査中)でも死因は特定されていない。
出典: 漢書・武五子傳
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
劉賀は前74年6月1日(丙寅、皇帝璽綬を受ける)に即位したが、新元号を建てることなく先帝・昭帝の年号「元平」をそのまま踏襲し、同年6月28日(在位二十七日)に廃位された。WebSearchで確認した二次資料(中国語Wikipedia『元平』条等)によれば「賀在位僅27天,還未訂立年號」であり、後継の宣帝も元平年号を年末まで継続使用し、翌年(前73年)に「本始」へ改元している。原典(漢書)にも劉賀による建元・改元の記述は一切ない。課題文の指示(即位に伴う最初の元号制定もevents[0]に1回として含める)に反する形だが、劉賀は在位が極端に短く即位に伴う建元自体を行わなかったことが原典・二次資料の双方で確認できるため、count 0とする。
大赦回数
『漢書・霍光金日磾伝』に記載された劉賀廃位時の罪状書(尚書令が読み上げた奏文)に「受璽以來二十七日,使者旁午,持節詔諸官署徵發,凡千一百二十七事」とあり、諸侯王印綬の取り上げ、御府の金銭・玉器の略奪と側近への賜与、官奴との夜間飲酒、喪中の音楽演奏、昭帝宮人(蒙等)との淫乱行為等、在位27日間の具体的行状が列挙されているが、「大赦天下」等の全国規模の恩赦の記述は存在しない。在位期間が27日と極端に短く、大赦を行う契機・記録がない。
立后回数
『漢書・霍光金日磾伝』で確認できる「立為皇后」等の立后記述は、衛皇后(衛子夫、武帝期)・上官皇后(昭帝期)等、他の皇帝の治世下の出来事であり、劉賀自身が在位中(前74年、27日間)に皇后を冊立した記述はない。武五子伝の劉賀伝にも立后の記述は見られない。
皇太子廃立回数
『漢書・武五子伝』『霍光金日磾伝』のいずれにも、劉賀が在位中に皇太子を立てた記述がなく、当然その廃立の記述もない。むしろ劉賀自身が霍光ら重臣・皇太后により皇帝位を廃された側であり(在位二十七日、行淫乱により廃位)、皇太子廃立という事象自体が発生していない。
親征回数
『漢書・宣帝紀』冒頭の劉賀即位・廃位経緯(元平元年四月~六月)、および詳細記事のある『漢書・霍光金日磾伝』を通読したが、劉賀が皇帝在位中(前74年6月1日~6月28日、27日間)に自ら軍を率いて出征した記述は一切ない。霍光伝に列挙された在位中の具体的行状(受璽以来二十七日、使者旁午、持節詔諸官署徴発、凡千一百二十七事)も、諸侯王印綬の取り上げ・御府財物の略奪と側近への賜与・官奴との夜間飲酒・音楽演奏・淫乱行為等であり、軍事行動に関する記述は含まれない。該当記事なしのため0件とする。
反乱鎮圧回数
劉賀在位27日間の記事(『漢書・宣帝紀』『漢書・霍光金日磾伝』)に、地方での蜂起・反乱鎮圧に関する記述は見られない。在位期間が極端に短く、外征・内乱鎮圧を行う暇もなかったことが原典から確認できる。該当記事なしのため0件とする。
被反乱回数
皇太后の詔・大臣の合議に基づく政治的廃立であると同時に、実行段階では羽林騎による捕縛・武装護衛による包囲という実力(兵力)行使を伴っており、判断が分かれ得るため1件・confidence mediumとした。詳細な判断根拠は events[0].note を参照。反乱の対象は劉賀本人(皇帝本人の身位・廃位そのもの)であり、摂政や第三者ではないため計上対象に含めた。
遷都回数
漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
原典『漢書』武五子伝(daizhigev20/汉书.txt収録)は劉賀本人の伝を独立して立てず、廃位後は「後薨」の2字のみで生没年月日の直接記載はない。ただし同伝中、山陽太守張敞が地節四年(前66年)九月に故王(劉賀)を訪問した記事に「故王年二十六七」(数え年26〜27歳)とあり、これが唯一の原典上の年齢手がかり。この記載は生年を前92年前後とする外部資料と整合的。ja.wikipedia「劉賀」・zh.wikipedia「刘贺」等の二次資料によれば、生年は征和元年(前92年、月日不明、"約"と付記あり)、没年は神爵3年9月8日(旧暦)=西暦前59年10月6日で、いずれも複数資料で一致。即位時年齢について中国語資料に「五歲為王(父・昌邑哀王没に伴う王位継承、前86年)、十九歲稱帝(元平元年=前74年、数え年)」との明記があり、生年前92年・即位前74年から数え年で計算すると19歳となり一致するためaccessionAge=19として採用(『漢書』武五子伝の「立十三年、昭帝崩」という昌邑王在位年数の記述とも大筋整合)。deathAgeについては複数の二次資料が一致して33歳としており、張敞記事の「二十六七」(地節四年=前66年時点)とも整合するためこれを採用したが、生年(前92年、月日不明)と没日(前59年10月6日)から機械的に数え年を算出すると34歳となり1歳の差異が生じる(旧暦月日の扱いや生年月の推定誤差に起因すると考えられる)。この差異をnoteに明記した上で、複数資料が一致する数え年33歳をdeathAgeとして採用した。生年は月日不明のためyear精度、没日は日精度。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱前73年8月14日霍光による昌邑王(劉賀)廃位のクーデター
首謀者: 霍光(大司馬大将軍)
結果: 劉賀は皇帝璽綬を取り上げられ廃位。列侯(後に海昏侯)に格下げされ昌邑・のち房陵/海昏へ追放(実際には昌邑に戻され、後に海昏侯に封じられた)。随行してきた昌邑群臣二百余人は廷尉詔獄に送られ、その大半(二百余人)が誅殺された。
『漢書・宣帝紀』は「癸已、光奏王賀淫乱、請廃。語在賀及光《伝》」と簡潔に記すのみだが、詳細な『漢書・霍光金日磾伝』には廃位の実際の手順が記される:①皇太后が未央宮承明殿に行幸し諸禁門に昌邑群臣を入れぬよう詔(王が入朝の隙に中黄門宦者が門扉を閉め昌邑群臣を締め出す)、②霍光が昌邑群臣を金馬門外に追い出し、③車騎将軍張安世が『羽林騎』(禁軍騎兵)を率いて昌邑群臣二百余人を捕縛し廷尉詔獄へ送致、④皇太后が武帳中に盛装で着座し「侍御数百人皆持兵、其門武士陛戟、陳列殿下」という武装した数百人の護衛に守られた状態で劉賀を呼び出し、尚書令が廃位の奏文を読み上げ、皇太后の詔をもって正式に廃位を宣告——という一連の流れであった。すなわち廃位そのものは皇太后の詔勅に基づく合法的な手続き(望夷宮の変のように直接皇帝を殺害・武力で弑逆した事件ではない)だが、その執行過程で禁軍(羽林騎)を用いて劉賀の側近二百余人を実力で捕縛・拘禁し、武装した護衛数百人で劉賀を包囲・威圧して抵抗を封じた上で退位を迫っており、単なる書面上の手続きにとどまらず『兵力を用いて皇帝を廃位に追い込んだ』事案と評価できる。本basisの確定基準(朝廷内部の権臣による実力を伴うクーデターも含める)に照らし1件としてカウントするが、望夷宮の変のような直接的殺害・戦闘を伴わず、皇太后の詔を得た形式的に合法な廃立である点で性質が異なるため、confidenceはmediumとする。劉賀本人は殺害されず、後に海昏侯として封じられ存命のまま地方へ移された(在位中の暗殺・処刑には該当しない)。