廃帝の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 前74年7月18日〜前74年8月14日
- 没年
- 前59年年齢不詳
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱賀別称昌邑王別名海昏侯呼び名の見方
出典
- 在位
- 漢書 巻六十三 武五子傳(昌邑王賀)
- 死因
- 漢書・
武五子傳 - 即位経路
- 漢書・
霍光金日磾傳
生涯
即位まで
昌邑哀王劉髆の子で、父の死後に昌邑王を継いだ。王のころは遊猟を好み、中尉都や王の国の守りを受け持つ役。唐では都の軍の長の王吉に諫められると褒めて物を賜ったが、その後も気ままにふるまった。郎中令皇帝や王のそばの護衛や近臣をまとめる長の龔遂に面と向かって責められると耳をふさいで立ち去り、龔遂が勧めた学者も数日でみな追い出した。前74年に昭帝が跡継ぎの無いまま没すると、群臣は武帝の子の広陵王を推したが、霍光は不安に思い、昭帝の皇后の詔で劉賀を迎えさせた。劉賀は召しの日の昼に発って夕方までに百三十五里を駆け、従者の馬が道で次々に死んだ。道中では長鳴鶏を求め、衣車に女子を載せさせた。喪に赴くと長安の門で喉が痛いと言って哭礼死者を悼んで声をあげて泣く儀式をせず、未央宮の前でようやく礼のとおりに哭した。同じ年に皇帝の璽綬位や官職を示す印とそれを下げるひもを受けた。
治世と最期
たびたび外出し、乗輿皇帝の乗る車。転じて皇帝その人の前で諫めた夏侯勝を妖言だとして縛らせた。霍光は群臣と議して皇太后に廃位を申し上げ、連名の上奏は、璽を受けてから27日のあいだに諸官署へ千百二十七件の徴発を命じたと数え上げた。廃位の詔を拝せと言われると、天子に争臣が七人いれば無道でも天下を失わないと聞くと言ったが、霍光に璽の組紐を解かれた。霍光は劉賀を邸まで送り、王には背いても社稷国家のこと(もとは土地と穀物の神)には背けないと詫びて泣いて去った。劉賀は昌邑へ帰された。昌邑の群臣は王を導かなかったとして二百余人が霍光に誅殺されたが、諫め続けた王吉と龔遂は死を減じられた。
宣帝は劉賀を警戒して張敞に見張らせたが、足を病み、ぼんやりして賢くないという報告を受けて、恐れるに足りないと知った。張敞が父の歌舞者を帰すよう求めたと聞くと、園を守る者は早く死なせたいと言い、張敞は生まれつき乱亡を好み仁義が見られないと評した。前63年に海昏侯に封じられた。のちに、なぜ大将軍将軍の中でも特に高い位を斬らなかったのかと問われて、しくじったと答えたことが告発されて領地を削られ、その後に没した。
史料について
没年と死因は、漢書にも資治通鑑にも無い。
廃帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1
- 反乱前74年8月14日霍光による昌邑王(劉賀)廃位のクーデター
前漢の歴代皇帝
歴代14人の一覧年表
秦・
前漢が