昭帝の人物データ
- 生年
- 前94年
- 在位
- 前87年3月30日〜前74年6月5日
- 没年
- 前74年6月5日21歳(数え年)長生き順同率227位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱弗陵呼び名の見方
出典
- 在位
- 漢書 巻七 昭帝紀
- 死因
- 漢書・
昭帝紀 - 即位経路
- 漢書・
昭帝紀/霍光金日磾傳
生涯
どんな皇帝か
漢書の賛は昭帝が霍光に政治を委ねたことをたたえ、武帝の代の疲弊のあと霍光が賦役税と、国に課される力仕事を軽くして民を休ませたと書く。
即位まで
母の趙婕妤は身ごもって14か月で昭帝を産んだ。武帝は5、6歳の弗陵を私に似ていると言って可愛がったが、子が幼く母が若いのを恐れて、跡継ぎにするのをためらった。母は武帝に叱責されたのち、雲陽で死んだ。戻太子が敗れ、兄の燕王旦らが驕っていたため、病の重い武帝は前87年に8歳の弗陵を太子に立て、霍光に補佐させた。武帝が没すると即位し、母を皇太后と追尊亡くなった人に、あとから尊い称号を贈ることした。
史料について
母の死を、漢書の外戚皇帝の母や皇后の実家の一族伝は叱責されて憂えて死んだとし、史記の補記と資治通鑑は武帝が獄へ送って死なせたとする。即位したときの年齢を、史記の補記は5歳とする。
治世と最期
霍光が政治を執り、金日磾と上官桀が補佐した。寝起きを共にした同じ年頃の金日磾の子らについて、侯にするかどうかは私と将軍しだいではないかと笑って言い、霍光に先帝の約束だと退けられた。
成長すると、学問を重んじ、霍光を陥れる企てを見抜いた。前82年の詔では、論語や孝経を誦していてもまだ明らかになったとは言えないと述べ、賢良才と徳があるとして国に推された人を推挙させた。前81年には詔して役人に郡国の推す賢良・文学へ民の苦しみを問わせ、塩・鉄・酒の専売の廃止が議されて、酒の専売をやめた。燕王の名で霍光を訴える上書君主に意見を書いて差し出すことが出ると、14歳の帝は霍光に冠をつけよ、この書は偽りだと言い、燕王が知り得ない近ごろの話だと理由を挙げて、側近を驚かせた。やがて上官桀らと燕王旦の謀反が発覚し、上官桀らは誅された。帝は兄の燕王に骨肉の至親なのにと責める璽書皇帝の印を押した文書を送り、旦は自ら首をくくった。霍光は外孫の上官皇后に子を得させたいと望み、昭帝が時に体調を崩すと、医者らはその意を迎えて後宮の女性を遠ざけるよう勧めた。
晩年は病に伏し、天下の名医が召された。前74年に未央宮で没し、子は無かった。
史料について
このサイトの死因が病死なのは、漢書の杜延年伝の、晩年に病に伏して名医が召されたという記述による。
昭帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱5・皇后1・改元3・大赦7
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前87年7月昭帝即位(後元二年)夏六月、赦天下。
- 改元前86年元号を「始元」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前86年赦天下、民百戸に牛酒を賜う。
- 反乱前86年益州蛮夷の反乱(第一次、廉頭・
姑繒ら) - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前83年上官氏を皇后に立てるのに伴い赦天下。
- 皇后前83年上官安(上官桀の孫、霍光の外孫)の娘・
上官氏を皇后に立てる。 - 反乱前83–前82年益州蛮夷の反乱(第二次、姑繒・
葉榆の再反) - 改元前80年元号を「元鳳」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前80年
- 反乱前80年武都氐人の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前79年
- 反乱前78–前77年遼東烏桓の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前77年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。前75年
- 反乱前75年烏桓の再犯塞
- 改元前74年元号を「元平」とする
前漢の歴代皇帝
歴代14人の一覧年表
秦・
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