中国皇帝統計

宣帝

前漢|在位 前74–前49年

宣帝の肖像
諱(本名)
劉詢
廟号
中宗
在位
前74–前49年
在位期間
24年128日365名中40位
即位経路
擁立
死因
病死
即位時年齢
18歳(数え年)172名中・若い順65位タイ
没年齢
43歳(数え年)269名中・長寿順116位タイ
改元
7332名中10位タイ
大赦
10267名中38位タイ
立后
3204名中5位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:宣帝

即位の経緯

戻太子劉拠の孫、武帝の曾孫。巫蠱の禍で一族が誅されたのち民間で育ち、劉賀廃位後に霍光ら大臣が「擇支子孫賢者為嗣」として掖庭の皇曾孫を選び擁立した。血縁関係はあるが直系太子ではなく霍光ら大臣主導の擁立である点が本紀・霍光伝双方で一致。

出典: 漢書・宣帝紀/霍光金日磾傳

死因の経緯

黄龍元年(前49年)冬に発病、12月に病重となり後事を託した後、未央宮で崩御(43歳)。具体的な病名の記載はないが他殺の記述もない。

出典: 漢書・宣帝紀

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

宣帝即位(前74年)以降、本始・地節・元康・神爵・五鳳・甘露・黄龍の計7元号を確認。即位に伴う最初の建元(本始)を1回目として含める。それぞれ改元は春正月(本始四年目の地震・元康元年の瑞祥・神爵元年の瑞祥「以五年為神爵元年」等を機に改元されたものが多いが、詔の理由が明記されない例も複数ある)。原文はzh.wikisource.org(https://zh.wikisource.org/zh-hant/漢書/卷008)で通読して確認。

大赦回数

『漢書』宣帝紀本文を通読し、「大赦天下」「赦天下」等、全国規模の大赦と明記された記事のみをカウント。「赦天下徒」(労役刑者限定、元康元年三月)、「赦殊死以下」(死刑以下限定、五鳳三年)等の対象を限定した部分的恩赦は除外した。原文はzh.wikisource.org(https://zh.wikisource.org/zh-hant/漢書/卷008)で確認。

立后回数

『漢書』宣帝紀本文に3回の立皇后記事が明記されている。原文はzh.wikisource.org(https://zh.wikisource.org/zh-hant/漢書/卷008)で確認。

皇太子廃立回数

地節三年(前67年)に劉奭(後の元帝)が皇太子に立てられて以降、宣帝崩御(黄龍元年=前49年)まで皇太子は交代していない。『漢書』元帝紀に、宣帝が淮陽王劉欽(法律を好み聡明であることから寵愛)を皇太子劉奭の代わりに立てようと検討した記述があるが(「乃歎曰:『亂我家者,太子也!』繇是疏太子而愛淮陽王」「上有意欲用淮陽王代太子」)、劉奭が微賤の頃から自分と苦楽を共にした許氏(生母許皇后)の子であることを理由に思いとどまり、実行しなかったと明記されている(「然以少依許氏,俱從微起,故終不背焉」)。したがって実際の廃立は発生していない。原文を確認。

親征回数

『漢書』宣帝紀を在位期間(元平元年七月即位~黄龍元年十二月崩御)全文にわたって確認したが、「帝自将」「上自将兵」等、宣帝本人が軍を率いて出陣したことを示す記述は一切ない。対匈奴戦(本始三年~四年、五将軍・兵十五万騎を発した遠征)や対西羌戦(神爵元年~二年)はいずれも将軍(趙充国・許延寿・辛武賢・田広明・范明友ら)を派遣する形で行われ、皇帝本人の親征ではない。また「行幸甘泉,郊泰畤」「行幸河東,祠后土」「行幸雍,祠五畤」等は郊祀・巡幸であり軍を率いた移動ではないため親征に該当しない。よって該当記事なしと判定。

反乱鎮圧回数

在位中「◯◯謀反」と記された事件は他に3件あるが、いずれも実際の挙兵(兵力行使)に至る前に発覚・鎮圧されたと判断し、反乱鎮圧回数には算入しなかった。(1) 地節元年冬十一月「楚王延寿謀反,自殺」:『漢書』楚元王伝により、延寿は広陵王胥を擁立すべく発兵を計画し使者に書を託しただけの段階で、何斉の父の密告により発覚、取り調べの上自殺しており、実際の挙兵はない。(2) 地節四年秋七月「大司馬霍禹謀反」:『漢書』霍光金日磾伝により、太后の名を借りて丞相らを殺し天子を廃して霍禹を立てる計画を立てたが「約定未発」(約束したが未実行)のうちに発覚し、雲・山・明友は自殺、禹は要斬、顕・諸女兄弟は棄市となっており、実際に兵を動かした形跡はない(詔書にも「先発得,咸伏其辜」とあり、事前に発覚し取り押さえたことが明記されている)。(3) 元康四年二月「河東霍徴史等謀反,誅」:現存する漢書紀のローカルコーパス(原文・段訳・訳文)以外にこの事件を詳述する史料が見当たらず、実際に挙兵・戦闘があったか確認できなかった。同時代の他の「謀反」記事が軒並み未然発覚型であること、及び姓が霍氏であり地節四年の霍氏の乱の残党・関係者と推測されることから、同様に未然発覚で終わった可能性が高いと考え除外したが、確証はないため今後追加史料が見つかれば見直す余地がある。

被反乱回数

宣帝本人(皇帝の身位・宗廟)を標的とした謀反計画が在位中に複数記録されている(地節元年の楚王延寿の謀反計画、地節四年の霍禹・霍山・霍雲・顕〔霍光未亡人〕らによる謀反計画、元康四年の河東霍徴史等謀反)が、いずれも密告により実際の兵力行使(挙兵)に至る前に発覚・鎮圧されており、被反乱回数の算入基準「実際の兵力行使に至らず、密告・摘発のみで終わった謀反計画は含めない」に該当するため0件のままとした。一方、神爵年間の西羌(先零羌)の反乱については、既に漢に服属していた帰義羌侯楊玉らが実際に武装蜂起し城邑を攻撃・官吏を殺害した(『漢書』宣帝紀に「西羌反」と明記)事件であり、rebellionSuppressionCountに1件計上されていることと整合させ、2026-07-16訂正基準(服属民の反乱は身位・弑逆意図の有無を問わず両方に計上)に基づき被反乱にも1件追加計上した。

遷都回数

漢書紀(高帝紀〜平帝紀)を通読。高帝が即位直後(前202年)に洛陽から長安へ都を定めた(婁敬の進言による是正、建国時の定都選定過程の一部と判断し対象外)のち、恵帝〜平帝まで一貫して長安が首都であり、遷都の記録はない。

即位時年齢・没年齢

『漢書』宣帝紀(元平元年秋七月条)に霍光の奏議として「孝武皇帝曾孫病已、(中略)至今年十八」と即位直前(元平元年=前74年)時点で数え18歳であったことが直接記載されている(accessionAge=18は直接記載)。また同紀冒頭に「生数月、遭巫蛊事」とあり、巫蠱の禍(征和二年=前91年)発生時に生後数か月であったことから生年は前91年と特定できる(月日は不明のため年精度)。没年齢43歳は既存のdeathCauseフィールド(zh.wikipedia『漢宣帝』を出典、黄龍元年=前49年12月崩御時43歳)に既に高信頼度で記録済みだが、本紀本文(china-history/daizhigev20収録の『漢書』宣帝紀)には崩御記事「冬十二月甲戌、帝崩于未央宮」に年齢の直接記載はない。そこで生年(前91年、数え年基準)と没年(前49年)から逆算すると43歳となり、既存のdeathAge=43と完全に一致することを確認した(91-49+1=43)。同様に即位時年齢も生年から逆算すると74-91+1... ではなく前91年生・前74年時点で18歳となり、直接記載の18歳と一致(クロスチェック済み)。deathDateはreigns[0].endDate(-0047-01-10=前49年黄龍元年十二月甲戌の翌ユリウス年換算、日精度)と一致させた。

在位中の出来事(22件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦前74年元平元年九月、「大赦天下」。

元平元年九月、「大赦天下」。宣帝即位直後の大赦。

立后前74年元平元年十一月壬子、許氏を立てて皇后とする(「立皇后許氏」)。

元平元年十一月壬子、許氏を立てて皇后とする(「立皇后許氏」)。後の恭哀皇后許平君。本始三年正月に崩御(霍氏一族による毒殺説あり、別項目の死因調査対象)。

改元前73年本始元年(春正月)。

本始元年(春正月)。元平元年秋に即位した宣帝が翌年正月から改めた最初の元号(即位時の建元)。

大赦前73年本始元年五月、鳳皇が膠東・千乘に集まったことを瑞祥とし「赦天下」。
大赦前70年本始四年三月乙卯、皇后霍氏冊立に伴い「赦天下」。
大赦前70年本始四年夏四月壬寅、郡国49箇所での地震を受け「大赦天下」。
立后前70年本始四年三月乙卯、霍氏(大司馬大将軍霍光の娘)を立てて皇后とする(「立皇后霍氏」)。

本始四年三月乙卯、霍氏(大司馬大将軍霍光の娘)を立てて皇后とする(「立皇后霍氏」)。地節四年八月己酉に廃后(廃立自体は皇后であり皇太子ではないため本項目には含めない)。

改元前69年地節元年(春正月)。

地節元年(春正月)。改元理由の詔文は明記されず。

大赦前68年地節二年夏四月、鳳皇が魯郡に集まったことを瑞祥とし「大赦天下」。
大赦前67年地節三年夏四月戊申、劉奭(後の元帝)の立皇太子に伴い「大赦天下」。
改元前65年元康元年(春)。

元康元年(春)。「鳳皇集泰山、陳留,甘露降未央宮」等の瑞祥を機に改元。

大赦前64年元康二年春正月、「其赦天下」。
立后前64年元康二年二月乙丑、王氏を立てて皇后とする(「立皇后王氏」)。

元康二年二月乙丑、王氏を立てて皇后とする(「立皇后王氏」)。後の邛成太后。

改元前61年神爵元年(春正月)。

神爵元年(春正月)。「以五年為神爵元年」と詔で宣言。神爵(神鳥)の飛来等の瑞祥を理由とする。

大赦前60年神爵二年春二月、正月の瑞祥(鳳皇甘露降集)を受け「其赦天下」。
反乱鎮圧前60年〜前59年神爵年間の西羌(先零羌)の反乱

首謀者: 先零羌の大豪 楊玉(及び猶非〔酋非〕ら)

結果: 鎮圧成功。趙充国(後将軍)・許延寿(強弩将軍)・辛武賢(破羌将軍)らを派遣して討伐し、神爵二年五月に羌は降伏、首悪の大豪楊玉らは誅殺された(趙充国伝では若零・離留・且種・皃庫らが先零の大豪猶非・楊玉の首を斬って降ったとある)。斬首七千六百級、降者三万一千二百人。金城属国を置いて降羌を処した。

『漢書』宣帝紀・趙充国辛慶忌伝により確認。発端は光禄大夫義渠安国が先零諸豪三十余人を誅殺し諸羌を挑発したことにあり(神爵元年春)、これに怒った帰義羌侯楊玉らが「劫略小種,背畔犯塞,攻城邑,殺長吏」と実際に城邑を攻撃・官吏を殺害する武力蜂起に至った。皇帝本人は親征していないが、政権側(漢朝)が趙充国らを派遣して鎮圧した事例として1件と数えた。首謀者は先零羌の楊玉(猶非とともに最終的に斬首)とし、対匈奴防衛のための単なる遠征ではなく、羌側からの武力反乱・城邑攻撃を伴う事件のため「反乱鎮圧」に算入した。

被反乱前60年〜前59年神爵年間の西羌(先零羌)の反乱

首謀者: 先零羌の大豪 楊玉(及び猶非〔酋非〕ら)

結果: 鎮圧成功。趙充国(後将軍)・許延寿(強弩将軍)・辛武賢(破羌将軍)らを派遣して討伐し、神爵二年五月に羌は降伏、首悪の大豪楊玉らは誅殺された。斬首七千六百級、降者三万一千二百人。金城属国を置いて降羌を処した。

『漢書』宣帝紀・趙充国辛慶忌伝により確認。発端は光禄大夫義渠安国が先零諸豪三十余人を誅殺し諸羌を挑発したことにあり(神爵元年春)、これに怒った帰義羌侯楊玉ら(既に漢に服属していた属国の羌)が「劫略小種,背畔犯塞,攻城邑,殺長吏」と実際に城邑を攻撃・官吏を殺害する武力蜂起(漢書紀では「西羌反」と明記)に至った。宣帝の統治機構下にある服属民(属国の異民族)による実際の兵力行使を伴う反乱であり、皇帝個人の廃位・弑逆を意図したものではないが、2026-07-16訂正基準により「服属民の反乱」として被反乱にも算入した(対等勢力との抗争や対外戦争ではない)。

大赦前58年神爵四年春二月、瑞祥を受け「其赦天下」、あわせて民に爵一級を賜う。
改元前57年五鳳元年(春正月)。

五鳳元年(春正月)。改元理由の詔文は明記されず(鳳凰の飛来に由来すると推測される)。

改元前53年甘露元年(春正月)。

甘露元年(春正月)。改元理由の詔文は明記されず。

大赦前52年甘露二年、「其赦天下。

甘露二年、「其赦天下。減民算三十」。月の確定はできず年精度。

改元前49年黄龍元年(春正月)。

黄龍元年(春正月)。夏四月に「黃龍見新豐」の記事があるが、改元自体は正月であり、その理由の詔文は本文に明記されず。この年の冬十二月甲戌に宣帝崩御。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。