殤帝の人物データ
- 生年
- 105年
- 在位
- 106年2月13日〜106年9月21日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 105年12月22日から
- 没年
- 106年9月21日2歳(数え年)長生き順266位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱隆呼び名の見方
出典
- 在位
- 後漢書 巻四 孝和孝殤帝紀
- 死因
- 後漢書 孝和孝殤帝紀
- 即位経路
- 後漢書・
巻四 孝和孝殤帝紀/巻十下 皇后紀下(和熹鄧皇后)
生涯
どんな皇帝か
嬰児だったので鄧太后は廟に列さず陵寝で祭らせ、後漢書の賛はその早世を嘆く。
即位まで
和帝の皇子は十数人が夭折していたので、後に生まれた子は民間に隠して養われた。105年に和帝が没すると、長子の勝(のちの平原王)には病があったので、鄧皇后が民間から隆を迎えて皇太子とし、その夜に即位させた。
史料について
生母の名も出自も、後漢書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分・皇后紀と資治通鑑には見えない。資治通鑑は、群臣は誰もこの皇子を知らなかったとする。周章伝と五行志は、乳飲み子を自分の子として養いたいという鄧皇后の望みを、立てた理由に挙げる。
治世と最期
鄧皇后は皇太后となって朝に臨み、皇帝が幼いので朕がしばらく聴政政治の報告を聞いて決めることを助けると詔した。生まれたばかりの帝のために重臣の張禹を宮中に住まわせ、兄の鄧騭を車騎将軍将軍の中でも高い位の一つとした。太后は不慮に備え、清河王慶の長子の劉祜を嫡母父の正妻。実母でない子から見た呼び方とともに都の清河邸に留め置いた。
106年に没し、崇徳前殿で殯された。太后は、成長を望んでいたのに天寿を全うしなかったと詔で悲しみ、平原王は痼疾があるとして劉祜を和帝の後嗣とした。これが安帝である。
群臣は勝に心を寄せたが、太后は先に勝を立てなかった以上、後で怨まれるのを恐れた。司空朝廷で最も位の高い大臣の一つの周章は太后を廃して勝を立てようと謀ったが、発覚した。康陵の造営は、大喪が続いて民が苦しんでいるため十分の一に減らされた。廟の順序はのちに議論となり、呂勃の議を周挙が支持して、梁太后が殤帝を順帝より先に置かせ、145年の詔は安帝の恭陵を殤帝の康陵の次に改めさせた。
史料について
死因は、後漢書の本紀・皇后紀・五行志と資治通鑑のどれにも書かれていない。周章の最期を、周章の伝は自殺とし、五行志は誅されたとする。
殤帝とつながる皇帝
在位中の出来事
改元1・大赦1
- 改元106年元号を「延平」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。106年7月3日
後漢の歴代皇帝
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