殤帝
後漢|在位 106年
- 諱(本名)
- 劉隆
- 在位
- 106年
- 在位期間
- 220日365名中317位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 1歳(数え年)172名中・若い順1位タイ
- 没年齢
- 2歳(数え年)269名中・長寿順269位
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:殤帝
即位の経緯
和帝には多くの皇子がいたが夭折が相次いだため密かに宮外で養育されており、長子の平原王(劉勝)は持病があったため、生後百日余りの末子・劉隆を鄧皇后(後の鄧太后)が選んで迎立した(「殤帝生始百日、后乃迎立之」)。太后主導の擁立的即位。
出典: 後漢書・巻四 孝和孝殤帝紀/巻十下 皇后紀下(和熹鄧皇后)
死因の経緯
生後100日余りで即位した中国史上最年少の皇帝。『後漢書』巻四〈孝和孝殤帝紀〉原文は「八月辛亥,帝崩。癸丑,殯于崇德前殿。年二歳。」とのみ記し、崩御の日付・享年(数え2歳)を記すのみで病気等の具体的死因への言及はない。生後1歳未満での崩御という状況から自然死(病死)と推定するのが通説だが、原典に明記された事実ではなく後世の推定にとどまる。
出典: 後漢書 孝和孝殤帝紀補記: 原典検証(2026-07-15、『後漢書』巻四原文を直接確認)で死因の記述が原典に皆無であることが判明し、confidenceをmediumからlowに修正。
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元1回のみ。原典(後漢書巻四)で延平の年号使用開始を確認済み。
大赦回数
原典(後漢書巻四)に「大赦天下」の直接記述あり。殤帝在位期間(延平元年正月〜8月)中に確認できた大赦はこの1回のみ。
立后回数
殤帝は生後約100日で即位し、翌年8ヶ月(延平元年8月辛亥)に2歳で崩御した幼帝であり、在位中に立后の記述は原典(後漢書巻四)に見当たらない。実権は鄧太后が掌握しており(「朕且權佐助聽政」)、幼帝の性質上、皇后冊立の対象となる年齢に達していなかったことも整合的。
皇太子廃立回数
殤帝の在位中(延平元年)に皇太子が立てられ廃された記述は原典に見当たらない。なお和帝崩御時(元興元年12月)、和帝の長子で病弱だった劉勝(後の平原王)は皇太子に立てられず、生後百余日の劉隆(殤帝)が「立皇子隆爲皇太子」の上で即日即位しており、これは殤帝自身の廃立ではなく和帝代末の皇位継承者選定の経緯である。殤帝崩御後は劉勝ではなく劉祜(安帝)が擁立された(これも殤帝代の出来事ではない)。
親征回数
後漢書本紀第五章(孝和孝殤帝紀)殤帝在位期間(元興元年十二月即位〜延平元年八月崩御)を精読したが、皇帝親征を示す記述(「帝自将」等)は皆無。殤帝は生後100日余で即位し1歳で崩御した乳児皇帝であり、太后臨朝のもと行政・儀礼事項(人事任命・大赦・葬儀等)のみが記録されている。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
殤帝在位期間中、服属民・郡県支配下集団による反乱の記述は見当たらない。延平元年夏四月に「鮮卑寇漁陽,漁陽太守張顯追撃,戰沒」という記事があるが、鮮卑は辺境外の異民族であり服属下の集団ではないため反乱鎮圧の範疇に含めない(外敵の侵寇として除外)。該当記事なし。
被反乱回数
殤帝在位期間中、皇帝に対する武力を伴う弑逆・クーデター・反乱の記述は見当たらない。当時実権は皇太后(鄧太后)が臨朝し、朝廷内も安定していた。該当記事なし。
遷都回数
後漢書本紀を通読。洛陽が建国から一貫した都で、在位中に追加の遷都記録はない(献帝期の洛陽→長安→許昌の遷都は献帝自身の代の出来事として計上済み)。
即位時年齢・没年齢
『後漢書』巻四〈孝殤帝紀〉に「元興元年十二月辛未夜,即皇帝位,時誕育百餘日」(即位時点で誕生から百余日)「八月辛亥,帝崩…年二歳」(数え年での崩御時年齢の直接記載)とある。崩御年齢(数え2歳)は原典直接記載。誕生の月日そのものの直接記載はないが、即位時「百余日」齢であったこと、および即位(元興元年=105年)と崩御(延平元年=106年、reigns[0].endDate=0106-09-21と一致)が暦年で隣接し崩御時数え2歳という直接記載と整合することから、誕生と即位が同一暦年(元興元年=105年)内であったと特定でき、即位時年齢は数え1歳と逆算した(崩御時「年二歳」の直接記載とクロスチェックし矛盾なし)。誕生の月日は原典に記載がないためbirthDatePrecisionはyearとした。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳元興元年(105年)12月に和帝崩御・殤帝即位。
元興元年(105年)12月に和帝崩御・殤帝即位。翌年(延平元年)正月辛卯より「延平」に改元(即位に伴う最初の建元)。原文「延平元年春正月辛卯,太尉張禹爲太傅。司徒徐防爲太尉,參錄尚書事」(後漢書巻四)で延平年号の使用開始を確認。殤帝在位中に他の改元は確認されない(同年8月に崩御し在位が極端に短いため)。
大赦日付不詳延平元年五月辛卯、皇太后(鄧太后)の詔に「皇帝幼沖,承統鴻業,朕且權佐助聽政…其大赦天下。
延平元年五月辛卯、皇太后(鄧太后)の詔に「皇帝幼沖,承統鴻業,朕且權佐助聽政…其大赦天下。自建武以來諸犯禁錮,詔書雖解,有司持重,多不奉行,其皆復爲平民。」とあり、全国規模の大赦(大赦天下)が確認できる。原文引用は『後漢書』巻四(孝殤帝紀部分)に基づく(zh.wikisource.org 後漢書/卷4)。日は干支(辛卯)で判明しているが正確な西暦日への換算は未実施のためdatePrecisionはmonthとした。