明帝の人物データ
- 生年
- 28年
- 在位
- 57年3月29日〜75年9月5日
- 没年
- 75年9月5日48歳(数え年)長生き順同率88位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱荘廟号顕宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 後漢書 巻二 顯宗孝明帝紀
- 死因
- 後漢書・
巻二 顕宗孝明帝紀 - 即位経路
- 後漢書・
巻二 顕宗孝明帝紀
生涯
どんな皇帝か
外戚皇帝の母や皇后の実家の一族に爵位も政治も許さず父の制度を守ったが、隠れた過ちを暴く細かな気性で近臣を怯えさせた。范曄の論は法令の明らかさを称えつつ、鍾離意らが明帝の細かな明察を問題にしたのは、明帝の度量が足りなかったからかと問う。
即位まで
母は陰氏(のちの皇后)で、10歳で春秋に通じて父を驚かせた。39年、東海公だった12歳のとき、田地の調べの文書に河南と南陽は問うなとあるわけを光武帝が問うと、幄の後ろから、帝城の河南は近臣が、帝郷の南陽は近親が多いからだと答え、そのとおりだった。皇太子は郭皇后の子の劉彊だったが、41年に母が廃されると藩国に退くことを何度も願った。43年、光武帝は劉彊を東海王とし、それまで東海王だった劉陽を皇太子に立てて名を荘と改めさせた。57年に光武帝が没すると、その日のうちに位を継いだ。
治世と最期
館陶公主が息子を郎にと求めても許さず、郎は百里の県を治めるので人を誤れば民が災いを受けると群臣に語った。隠れたことを暴くのを明察とし、公卿朝廷の位の高い大臣たちもしばしばそしられた。郎の薬崧に怒って自ら杖で突き、寝台の下へ逃げ込ませたが、薬崧にいさめられて赦した。
楚王劉英が謀反を告発されると、明帝は誅殺に忍びず王位を廃して涇県へ移した。劉英は71年に自殺したが、楚の獄は数年続き、死刑や流刑となった者は千を単位に数えた。明帝の怒りを恐れた吏が連座罪人の家族や関係者まで一緒に罰せられること者を一律に罪とするなか、寒朗が冤罪を訴えると、明帝は一度怒ったが、2日後に自ら洛陽の獄で囚人を調べ直し、千余人を釈放した。
74年には亡き父母の夢を見て眠れず、陵に参ったあと母の鏡箱を見て泣いた。75年に東宮主に皇太子の住む宮殿、また皇太子その人前殿で没し、遺詔皇帝が死に際に残した命令で寝廟墓のそばに建てて亡き皇帝をまつる建物を建てさせなかった。
史料について
気性を狭く細かいとするのは鍾離意の伝で、范曄の論も、鍾離意らが明帝の細かな明察を問題にしたと書く。金人を夢に見て天竺へ使者を送ったという仏教伝来の話は、後漢書の西域伝が世の伝えとして載せ、袁宏の後漢紀は地の文で記し、資治通鑑は夢に触れず、本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分にはこの話が無い。
明帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱2・皇后1・改元1・大赦3
- 反乱57年10月〜58年8月焼当羌の反乱(滇吾の乱)
- 改元58年元号を「永平」とする
- 反乱58年越巂姑復夷の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。59年
- 皇后60年皇后を立てる
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。67年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。72年
後漢の歴代皇帝
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