明帝
後漢|在位 57–75年

- 諱(本名)
- 劉荘
- 廟号
- 顕宗
- 在位
- 57–75年
- 在位期間
- 18年164日365名中62位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 30歳(数え年)172名中・若い順112位タイ
- 没年齢
- 48歳(数え年)269名中・長寿順89位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:明帝
即位の経緯
光武帝の第四子として皇太子に立てられ、父帝崩御後に正規の手続きで即位(「顕宗孝明皇帝諱荘、光武第四子也……即皇帝位」)。
出典: 後漢書・巻二 顕宗孝明帝紀
死因の経緯
洛陽で崩御(47歳頃)。具体的な病名の記載はないが不審死を示す記述もない。
出典: 後漢書・巻二 顕宗孝明帝紀補記: 崩御の基本情報のみで死因の詳細記述が乏しいためconfidence: medium。
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
『後漢書』顕宗孝明帝紀原文を即位(中元二年二月戊戌)から崩御(永平十八年八月壬子)まで通読し確認。即位当初は先帝の元号「中元」のままで、翌年(永平元年)に建元。以降在位中に改元は一度もない。
大赦回数
『後漢書』顕宗孝明帝紀原文を通読して確認。「大赦天下」の literal な4字句は永平10年・15年の2件のみ確認。永平2年正月の詔は文言は異なるが謀反大逆まで含む全国規模の赦免であり、実質的な大赦として1件に算入した(confidence medium)。永平元年12月甲寅の詔は贖罪(金銭による減刑)を認めるのみで無条件の赦免ではないため対象外。秋九月の隴西囚徒への赦は隴西一郡限定であり全国規模でないため対象外。
立后回数
『後漢書』顕宗孝明帝紀原文に立后の記述は永平三年二月甲子の1件のみ確認。それ以前・以後に皇后が交代した記録はない。
皇太子廃立回数
永平三年二月甲子、貴人馬氏を皇后に、皇子炟(後の章帝)を皇太子に立てて(『立貴人馬氏為皇后,皇子炟為皇太子』)以降、劉炟は廃されることなく明帝崩御まで皇太子の地位を保持し、そのまま即位して章帝となった。本紀中の「廢」は永平十四年に楚王英が謀反により王位を廃されたもの(『楚王英謀反,廢,國除』)であり皇太子の廃立ではない。皇太子廃立の記録は本紀中に見当たらないためcount:0。
親征回数
『後漢書』顕宗孝明帝紀を通読したが「帝自将」「上自将兵」等、皇帝本人が出陣したことを示す記述は見当たらない。烧当羌討伐(中元二年〜永平元年)は謁者張鴻・中郎将窦固・捕虜将軍馬武等の派遣、対北匈奴戦(永平五年・八年・十六年・十七年)は太僕祭肜・奉車都尉窦固・駙馬都尉耿秉・騎都尉来苗ら将軍への勅命によるもので皇帝本人の出陣ではない。永平二年の西巡狩(長安・十一陵)、十年の南巡狩(南陽・章陵)、十五年の東巡狩(彭城・魯・大梁等)はいずれも祭祀・視察目的の巡幸であり、軍を率いた記述はないため親征に含めない。
反乱鎮圧回数
北匈奴による五原・雲中・西河侵寇(永平五年・八年・十六年)は南単于や云中太守が撃退しているが、北匈奴は後漢に服属していない独立勢力(南匈奴とは別)であり、対外防衛・侵寇撃退にあたるため反乱鎮圧には含めなかった。永平十八年(末年)の焉耆・亀茲による西域都護陳睦攻撃、北匈奴・車師後王による戊己校尉耿恭包囲も、対象が服属下の郡県民ではなく西域諸国・外部勢力であり、かつ帝の崩御(同年八月)直前で在位中に鎮圧が行われた記述もないため計上していない。
被反乱回数
2026-07-16の基準訂正に基づき再監査。旧データではrebellionSufferedCountが誤って0件(count:0, events:[])だったが、rebellionSuppressionCountに計上済みの烧当羌の反乱・越巂姑复夷の反乱(いずれも服属集団による実際の武装蜂起で州郡軍等が鎮圧)は例外1〜4のいずれにも該当しないため、対称的に2件とも追加した。楚王英謀反事件・淮陽王延謀反事件は密告・摘発(案験)のみで実際の兵力行使の記述がなく、従来通り除外を維持した。
遷都回数
後漢書本紀を通読。洛陽が建国から一貫した都で、在位中に追加の遷都記録はない(献帝期の洛陽→長安→許昌の遷都は献帝自身の代の出来事として計上済み)。
即位時年齢・没年齢
『後漢書』顕宗孝明帝紀に「秋八月壬子、帝崩於東宮前殿。年四十八」と没年齢の直接記載あり(数え年48歳、deathDateは既存reigns[0].endDate=0075-09-05と一致)。生年の直接記載(生年月日)は本紀中に見当たらないため、没年(75年)と没年齢(48歳、数え年)から逆算し生年を28年(year精度)と算出した。即位時年齢(accessionAge=30)も同様に生年28年と即位年57年(中元二年、eraChangeCount.note参照)から逆算した値であり、本紀に即位時年齢の直接記載はない。逆算値同士のクロスチェック対象となる別の直接記載(例:某年に「時年◯歳」等)は本紀中に見当たらなかった。
在位中の出来事(9件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧57年9月〜58年7月烧当羌の反乱(滇吾の乱)
首謀者: 滇吾(弟の滇岸も参加)
結果: 鎮圧成功(永平元年秋七月、捕虜将軍馬武等が滇吾を大破し、滇吾は遠く逃走、残衆は降伏)
明帝紀:中元二年秋九月「烧当羌寇陇西,败郡兵于允街」「遣谒者张鸿讨叛羌于允吾,鸿军大败,战殁」(明帝即位直後の出来事)。冬十一月「遣中郎将窦固监捕虏将军马武等二将军讨烧当羌」。永平元年秋七月「捕虏将军马武等与烧当羌战,大破之」。詳細は『後漢書』西羌伝に「二年秋,烧当羌滇吾与弟滇岸率步骑五千寇陇西塞…遣谒者张鸿领诸郡兵击之…军败,鸿…没…永平元年,复遣中郎将窦固、捕虏将军马武等击滇吾于西邯,大破之…滇吾远引去,余悉散降」とあり、同一首謀者(滇吾)に対する一連の討伐として1件に集約した。烧当羌は光武帝期以来「降羌」として涼州に居住し護羌校尉の監督下にあった服属集団であり、群雄割拠期の独立勢力平定とは区別し、辺境服属集団の蜂起として反乱鎮圧に計上した。
被反乱57年9月〜58年7月烧当羌の反乱(滇吾の乱)
首謀者: 滇吾(弟の滇岸も参加)
結果: 鎮圧された(永平元年秋七月、捕虜将軍馬武等が滇吾を大破し、滇吾は遠く逃走、残衆は降伏)
明帝紀:中元二年秋九月「烧当羌寇陇西,败郡兵于允街」「遣谒者张鸿讨叛羌于允吾,鸿军大败,战殁」。永平元年秋七月「捕虏将军马武等与烧当羌战,大破之」。烧当羌は護羌校尉監督下の服属集団で、実際に武装し陇西塞に侵寇・郡兵と谒者张鸿の軍を撃破した兵力行使を伴う反乱のため、rebellionSuppressionCountと対称にrebellionSufferedCountへ追加した。
改元58年永平元年春正月に改元(本紀に具体的な月日の記載なし、年始からの適用とみられる)。
永平元年春正月に改元(本紀に具体的な月日の記載なし、年始からの適用とみられる)。明帝は中元二年(57年)二月戊戌に即位したが即位年は光武帝の元号「中元」を引き継ぎ、翌年正月から自身の元号「永平」を建てた。以降、明帝崩御(永平十八年=75年)まで改元は行われず「永平」が18年間継続した。
反乱鎮圧58年越巂姑复夷の反乱
首謀者: 不詳(渠帥、名前は原典に記載なし)
結果: 鎮圧成功(渠帥を斬首し首級を京師に送る)
明帝紀・永平元年「是岁…越巂姑复夷叛,州郡讨平之」。『後漢書』南蛮西南夷伝に「永平元年,姑复夷复叛,益州刺史发兵讨破之,斩其渠帅,传首京师」とあり対応。姑复夷は越巂郡(益州刺史部)管轄下の服属集団であり、州郡(益州刺史)が鎮圧主体。月日の記載がないため year 精度とした。
被反乱58年越巂姑复夷の反乱
首謀者: 不詳(渠帥、名前は原典に記載なし)
結果: 鎮圧された(渠帥を斬首し首級を京師に送る)
明帝紀「是岁…越巂姑复夷叛,州郡讨平之」、『後漢書』南蛮西南夷伝「永平元年,姑复夷复叛,益州刺史发兵讨破之,斩其渠帅,传首京师」。越巂郡管轄下の服属集団による実際の挙兵・州郡軍による鎮圧のため、rebellionSuppressionCountと対称にrebellionSufferedCountへ追加した。
大赦59年永平二年正月辛未、明堂での宗祀の際の詔「其令天下自殊死已下,謀反大逆,皆赦除之」。
永平二年正月辛未、明堂での宗祀の際の詔「其令天下自殊死已下,謀反大逆,皆赦除之」。「大赦天下」の定型句は用いていないが、殊死以下・謀反大逆を含む全国規模の恩赦であり実質的な大赦。
立后60年永平三年二月甲子、「立貴人馬氏為皇后,皇子炟為皇太子」。
永平三年二月甲子、「立貴人馬氏為皇后,皇子炟為皇太子」。貴人馬氏(明徳馬皇后、伏波将軍馬援の娘)を皇后に冊立。明帝の在位中、皇后の廃立・再冊立の記録はなくこの1回のみ。
大赦67年永平十年夏四月戊子、詔「昔歲五穀登衍,今茲蠶麥善收,其大赦天下。
永平十年夏四月戊子、詔「昔歲五穀登衍,今茲蠶麥善收,其大赦天下。」豊作を理由とした大赦。
大赦72年永平十五年(乙巳、東巡狩中)「大赦天下,其謀反大逆及諸不應宥者,皆赦除之」。
永平十五年(乙巳、東巡狩中)「大赦天下,其謀反大逆及諸不應宥者,皆赦除之」。皇子の分封・賜爵等と同時に実施。