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章帝の肖像画

後漢第3代

章帝劉炟

在位 75–88年(12年217日)75年9月5日 〜 88年4月9日

日本は弥生時代

明帝の第五子で、父の厳しさを人が嫌うのを知って寛厚に努めたと范曄に評された後漢の皇帝である。

章帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 75年9月5日〜88年4月9日
12年217日長い順108位/365人19歳で即位(数え年)
没年
88年4月9日33歳(数え年)長生き順同率173位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 明帝後漢章帝は明帝の子
次代
  • 和帝後漢和帝は章帝の子
呼び名
姓劉諱炟廟号粛宗呼び名の見方
目立つ記録
  • 皇太子を廃した 1回多い順同率4位

出典

在位
後漢書 巻三 肅宗孝章帝紀
死因
後漢書・巻三 粛宗孝章帝紀
即位経路
後漢書・巻三 粛宗孝章帝紀

生涯

どんな皇帝か

魏の文帝は明帝を察察、章帝を長者と評したが、司馬光は、の竇憲の非を知りながら罰しなかったのを人主の戒めとした。

即位まで

母は賈貴人だが、子の無い馬が明帝の命で引き取り、実の子以上に心を尽くして育てた。60年に皇太子となり、若いころから寛容でを好んだ。75年に19歳で即位し、養母の馬氏を皇太后とした。

治世と最期

養母との仲は終始隔たりが無く、太后が自ら撰んだ記録から兄の馬防の働きを削ると、行き過ぎではないかと求めた。養母の兄弟を封じたいと願っては太后に退けられ、豊作の79年に馬廖・馬防・馬光をにした。その馬防兄弟が富み栄えて賓客を集め、馬防が羌胡から賦斂までするのを喜ばず、度々譴責して抑えた。光武帝の子の東平王劉蒼を重んじ、陵に県邑を起こすのを諫められると取りやめ、以後は疑わしい政事のたびに意見を求めた。79年、諸儒を白虎観に集めて五経の異同を議させ、自ら裁いて白虎議奏を作らせた。

78年に竇氏を皇后に立てた。のちに皇后の兄の竇憲がの園田を安値で奪うと、章帝は趙高の指鹿為馬になぞらえて叱りながら罪は問わなかった。子の無い竇皇后が劉慶の母の宋貴人を呪詛と誣い、82年、章帝は皇太子劉慶を清河王に落として梁貴人の子の劉肇を皇太子とし、宋貴人は姉妹とともに薬を飲んで自殺した。翌83年には梁貴人の父の梁竦も匿名の書で陥れられて誅された。

84年には拷問の酷さを憂えて禁を明らかにし、翌年には妊婦に穀物を与えて夫のを1年免じた。88年に章徳前殿で没し、を起こさないようした。

史料について

竇氏を皇后に立てた年を、竇憲の伝は77年とする。園田の件は、資治通鑑が83年の条に置く。宋貴人の自殺は清河王劉慶の伝による。は宋貴人の死には触れない。死因は本紀と資治通鑑の死の記事に無く、このサイトの死因が病死となっているのは、普通の死として記されていることによる。

章帝とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱5・皇后1・皇太子1・改元3・大赦3
  1. 75年11月即位に伴う大赦。
  2. 改元76年元号を「建初」とする
  3. 反乱76年武陵澧中蛮の反乱(建初元年)
  4. 反乱76–77年永昌哀牢夷の反乱(建初元年~二年)
  5. 反乱77–78年焼当羌の反乱(建初二年~三年)
  6. 78年明堂での宗祀の後に大赦。
  7. 皇后78年貴人竇氏(竇皇后、後の章徳竇皇后)を皇后に立てた。
  8. 反乱78–80年武陵漊中蛮の反乱(建初三年~五年)
  9. 皇太子82年皇太子慶(劉慶)を廃して清河王に降格し、皇子肇(劉肇、後の和帝)を新たに皇太子に立てた。
  10. 改元84年元号を「元和」とする
  11. 85年泰山での宗祀に伴う大赦。
  12. 反乱86–87年焼当羌の反乱(元和三年~章和元年)
  13. 改元87年元号を「章和」とする

後漢の歴代皇帝

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年表

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