章帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 75年9月5日〜88年4月9日
- 没年
- 88年4月9日33歳(数え年)長生き順同率173位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱炟廟号粛宗呼び名の見方
- 目立つ記録
- 皇太子を廃した 1回多い順同率4位
出典
- 在位
- 後漢書 巻三 肅宗孝章帝紀
- 死因
- 後漢書・
巻三 粛宗孝章帝紀 - 即位経路
- 後漢書・
巻三 粛宗孝章帝紀
生涯
どんな皇帝か
魏の文帝は明帝を察察、章帝を長者と評したが、司馬光は、外戚皇帝の母や皇后の実家の一族の竇憲の非を知りながら罰しなかったのを人主の戒めとした。
即位まで
母は賈貴人だが、子の無い馬貴人身分の高い人、また皇帝の妃の位の一つが明帝の命で引き取り、実の子以上に心を尽くして育てた。60年に皇太子となり、若いころから寛容で儒術孔子の教えに基づく学問とその考え方を好んだ。75年に19歳で即位し、養母の馬氏を皇太后とした。
治世と最期
養母との仲は終始隔たりが無く、太后が自ら撰んだ記録から兄の馬防の働きを削ると、行き過ぎではないかと求めた。養母の兄弟を封じたいと願っては太后に退けられ、豊作の79年に馬廖・馬防・馬光を列侯侯の位を持ち、領地を与えられた者にした。その馬防兄弟が富み栄えて賓客を集め、馬防が羌胡から賦斂までするのを喜ばず、度々譴責して抑えた。光武帝の子の東平王劉蒼を重んじ、陵に県邑を起こすのを諫められると取りやめ、以後は疑わしい政事のたびに意見を求めた。79年、諸儒を白虎観に集めて五経の異同を議させ、自ら裁いて白虎議奏を作らせた。
78年に竇氏を皇后に立てた。のちに皇后の兄の竇憲が公主皇帝の娘の園田を安値で奪うと、章帝は趙高の指鹿為馬になぞらえて叱りながら罪は問わなかった。子の無い竇皇后が劉慶の母の宋貴人を呪詛と誣い、82年、章帝は皇太子劉慶を清河王に落として梁貴人の子の劉肇を皇太子とし、宋貴人は姉妹とともに薬を飲んで自殺した。翌83年には梁貴人の父の梁竦も匿名の書で陥れられて誅された。
84年には拷問の酷さを憂えて禁を明らかにし、翌年には妊婦に穀物を与えて夫の算賦一人あたりに銭で納めさせた税を1年免じた。88年に章徳前殿で没し、寝廟墓のそばに建てて亡き皇帝をまつる建物を起こさないよう遺詔皇帝が死に際に残した命令した。
史料について
竇氏を皇后に立てた年を、竇憲の伝は77年とする。園田の件は、資治通鑑が83年の条に置く。宋貴人の自殺は清河王劉慶の伝による。本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は宋貴人の死には触れない。死因は本紀と資治通鑑の死の記事に無く、このサイトの死因が病死となっているのは、普通の死として記されていることによる。
章帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱5・皇后1・皇太子1・改元3・大赦3
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。75年11月即位に伴う大赦。
- 改元76年元号を「建初」とする
- 反乱76年武陵澧中蛮の反乱(建初元年)
- 反乱76–77年永昌哀牢夷の反乱(建初元年~二年)
- 反乱77–78年焼当羌の反乱(建初二年~三年)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。78年明堂での宗祀の後に大赦。
- 皇后78年貴人竇氏(竇皇后、後の章徳竇皇后)を皇后に立てた。
- 反乱78–80年武陵漊中蛮の反乱(建初三年~五年)
- 皇太子82年皇太子慶(劉慶)を廃して清河王に降格し、皇子肇(劉肇、後の和帝)を新たに皇太子に立てた。
- 改元84年元号を「元和」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。85年泰山での宗祀に伴う大赦。
- 反乱86–87年焼当羌の反乱(元和三年~章和元年)
- 改元87年元号を「章和」とする
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