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後漢第4代

和帝劉肇

在位 88–105年(17年310日)88年4月9日 〜 106年2月13日 ( 105年12月22日まで)

日本は弥生時代

竇皇后に養われて幼くして即位し、のちにの竇氏を除いて自ら政を執った後漢の皇帝である。

和帝の人物データ

生年
79年
在位
  • 88年4月9日〜106年2月13日 105年12月22日まで
17年310日長い順65位/365人10歳で即位(数え年)
没年
106年2月13日( 105年12月22日)27歳(数え年)長生き順同率200位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 章帝後漢和帝は章帝の子
次代
  • 殤帝後漢殤帝は和帝の子
呼び名
姓劉諱肇廟号穆宗呼び名の見方

出典

在位
後漢書 巻四 孝和孝殤帝紀
死因
後漢書・巻四 孝和孝殤帝紀
即位経路
後漢書・巻四 孝和孝殤帝紀

生涯

どんな皇帝か

後漢書の賛は、沈着で内に激しさを持つと評する。

即位まで

章帝の第四子で、母の梁貴人は79年に劉肇を産んだが、子の無い竇皇后に引き取られ、その子として育てられた。竇皇后は宋を陥れてその子の皇太子劉慶を廃させ、82年に劉肇が皇太子に立てられた。翌83年には、の名を独占しようとする竇皇后が梁貴人の父を匿名の書で陥れて誅させ、梁貴人と、ともに貴人となっていた姉も憂いのうちに死んだ。88年に10歳で即位すると竇太后が朝に臨み、詔で兄の竇憲を内輔にと述べたが、竇憲は辞退し、鄧彪がとしての事を統べた。

治世と最期

劉肇は竇氏を除くにあたって左右を恐れ、兄の清河王劉慶に千乗王からひそかに外戚伝を求めさせ、劉慶を通じての鄭衆にを問わせた。92年、竇憲らの謀反が発覚すると、その党を捕らえて獄死させ、となっていた竇憲からを取り上げてへ移し、太后の手前名指しで誅さず、竇憲・竇篤・竇景を自殺に追い込んだ。

以前から南海が龍眼や荔枝を献じて道に死者が続いており、唐羌のを受けて、人を損なうなら民を愛する本ではないと詔して献上をやめさせた。97年に竇太后が没すると、梁貴人のもう一人の姉が貴人の非業の死を訴えたが、竇太后のを貶める奏は10年仕えたとして退け、のちに生母を皇太后にした。鄧貴人が病むと、その母や兄弟が日数を限らず看病に入ることを許し、鄧貴人がこれを辞退すると、深く自分を抑える人だと感じ入った。

102年に陰皇后を廃して鄧氏を皇后とした。宦官の蔡倫が105年に紙を作って奏上すると、その能を善しとし、紙は蔡侯紙と呼ばれて広まった。105年に章徳前殿で没した。民間で養われていた生後百日ほどの皇子劉隆が、鄧皇后に迎えられて立てられた。

史料について

謀反の主を、は竇憲、皇后紀・宦者伝は竇憲兄弟とし、竇融伝は鄧畳や郭挙らとする。没した殿を、後漢紀は嘉徳殿とする。

和帝とつながる皇帝

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在位中の出来事

反乱12・皇后2・改元2・大赦5
  1. 改元89年元号を「永元」とする
  2. 90年
  3. 反乱92–93年武陵零陵澧中蛮の乱
  4. 反乱92–93年焼当羌の金城侵寇
  5. 93年宗祀五帝於明堂の際に大赦。
  6. 反乱93年南単于安国の叛乱
  7. 反乱93年於除鞬の叛乱
  8. 反乱94年逢侯の叛乱
  9. 反乱94年武陵漊中蛮の乱
  10. 皇后96年貴人陰氏を皇后に立てる。
  11. 反乱96年南匈奴右温禺犢王の叛乱
  12. 反乱96–97年車師後王の叛乱
  13. 反乱97年焼当羌の隴西侵寇
  14. 99年
  15. 反乱100年日南象林蛮夷の反乱
  16. 反乱100–101年焼当羌の再叛
  17. 反乱101–102年巫蛮の南郡侵寇
  18. 102年辟雍への行幸・饗射の際に大赦。
  19. 皇后102年貴人鄧氏を皇后に立てる(陰皇后廃后後の再冊立)。
  20. 改元105年元号を「元興」とする
  21. 105年大赦と同時に改元元興。

後漢の歴代皇帝

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年表

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