少帝の人物データ
- 生年
- 173年
- 在位
- 189年5月15日〜189年9月28日
- 没年
- 190年3月6日18歳(数え年)長生き順同率243位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱辯諡号懐王別称弁別名少帝弁・弘農懐王呼び名の見方
出典
- 在位
- 後漢書 巻八 孝靈帝紀(即位)/巻九 孝獻帝紀(廃位)
- 死因
- 後漢書 皇后紀下・
董卓列伝 - 即位経路
- 後漢書・
本紀第九章 孝霊帝紀/列伝第六十三章 竇何列傳
生涯
即位まで
母は屠者の家から後宮に入った何氏(のちの皇后)で、幼いころは道人の史氏に養われ、史侯と呼ばれた。異母弟の劉協が生まれると、霊帝は劉辯を軽々しく威儀が無いと見たが、何皇后の寵愛と何進の権勢があって、太子を長く決められなかった。189年、霊帝は臨終に劉協を蹇碩に託したが、蹇碩が何進を殺して劉協を立てようとした謀は成らず、劉辯が即位した。
史料について
即位したときの年は、後漢書の霊帝紀が17歳、資治通鑑が14歳と食い違う。
治世と最期
外戚皇帝の母や皇后の実家の一族の何進は、袁紹らの策で董卓ら四方の将を呼び寄せ、兵で何太后に迫って宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男を除こうとした。同じ年、何進は宦官の張讓らに太后の詔と偽って宮中へ呼び出され、尚方監の渠穆に斬られ、袁術が宮を焼くと、張讓らは劉辯と陳留王の劉協を連れて小平津まで逃げた。追っ手が迫ると、張讓らは陛下はご自愛くださいと泣いて別れを告げ、河に身を投げた。二人は夜、蛍の光を頼りに歩き、民家の荷車に乗った。北芒で董卓に迎えられた劉辯は恐れて泣き、問いに答えられなかったが、陳留王は乱の次第を語ったので、董卓は陳留王を賢いと見た。
董卓が廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることを議すると、尚書天子のもとで政治の実務を扱う役所や役人、また儒教の古典の名の盧植ひとりが、今上は年若く行いに徳を失ったことはないと反論した。董卓は何太后を脅して劉辯を廃させ、弘農王とした。弘農王は殿から下ろされて北を向いて臣と称させられ、何太后は涙をのんだ。その2日後、何太后も董卓に殺された。
190年、山東で義兵が起こると、董卓は李儒に毒酒を進めさせた。弘農王は拒んだが強いられ、妻の唐姫らと別れの宴をして、逆臣に迫られて命は延びないと悲歌し、唐姫に自愛せよと言い残して薬を飲んで死んだ。
史料について
死んだ日を、献帝紀と資治通鑑は癸酉、後漢紀は癸丑とし、後漢紀の校注は癸酉はその月に無い日だとする。三国志は、董卓伝が弘農王と何太后を殺してから陳留王を立てたと書き、武帝紀は廃位と同時に献帝を立て、殺害も189年の段に置く。
少帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・改元2・大赦2
- 改元189年5月15日元号を「光熹」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。189年5月15日少帝(劉辯)即位に伴う大赦。
- 改元189年9月25日元号を「昭寧」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。189年9月25日宦官の乱(張讓・
段珪による何進殺害、少帝拉致)を経て還宮した際の大赦、および光熹から昭寧への改元。 - 反乱189年9月28日〜190年3月6日董卓の廃立・
弘農王毒殺
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