少帝・弁
後漢|在位 189年
- 諱(本名)
- 劉辯
- 在位
- 189年
- 在位期間
- 136日365名中335位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 17歳(数え年)172名中・若い順62位タイ
- 没年齢
- 18歳(数え年)269名中・長寿順246位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
霊帝の長子(何皇后所生)。霊帝末年、群臣は「辯輕佻無威儀、不可爲人主」として立太子を決めかね、王貴人所生の協を寵愛する空気もあり太子は正式に立てられなかった。霊帝崩御直前、協を宦官蹇碩に託したが、蹇碩は何進を先に誅殺し協を立てようと図って失敗し、結果として辯が即位した。正式冊立前の霊帝急死と外戚・宦官の暗闘の結果であり、本人の主体的行為ではないため擁立と判定。
出典: 後漢書・本紀第九章 孝霊帝紀/列伝第六十三章 竇何列傳
死因の経緯
董卓により廃位され弘農王に降格された劉辯は、初平元年(190年)正月癸丑、山東諸侯の挙兵を恐れた董卓の命により郎中令李儒が進めた鴆(毒酒)を強飲させられ死去(時年十八)。『後漢書』皇后紀下「卓乃置弘農王於閣上,使郎中令李儒進酖…遂飲藥而死」、董卓列伝「及聞東方兵起,懼,乃鴆殺弘農王」に明記。実行者は李儒だが背後に董卓の指示があり同一政権内の謀殺のため暗殺に分類。
出典: 後漢書 皇后紀下・董卓列伝補記: 原典検証(2026-07-15、原文確認)で、旧noteの「何太后とともに」毒殺されたという記述は誤りと判明。何太后(霊思何皇后)の鴆殺は前年189年9月頃に別途行われており、劉辯本人の死(190年正月)とは半年ほど時期がずれる別の事件。
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
少帝弁の在位中(189年4月〜9月)に2回の改元(光熹→昭寧)があったことが『後漢書』孝霊帝紀に明記されている。3回目の改元「永漢」(189年9月甲戌)は董卓による少帝廃位・弘農王への降格と同日に行われた献帝の即位に伴う改元であり(『後漢書』孝献帝紀:「即皇帝位…大赦天下。改昭寧爲永漢」)、少帝弁自身の在位中の改元としてはカウントしない。なお後に献帝により光熹・昭寧・永漢の3年号は廃止され「中平六年」に一括統一された(『後漢書』孝献帝紀:「詔除光熹、昭寧、永漢三號,還復中平六年」)が、これは追認的な暦法整理であり実際に行われた改元回数(2回)とは別に扱う。
大赦回数
在位中(189年4月〜9月)に2回の大赦天下が『後漢書』孝霊帝紀に明記されている(即位時と、宦官の乱後の還宮時)。なお9月甲戌の董卓による少帝廃位・献帝即位に伴う3回目の大赦(永漢改元時、『後漢書』孝献帝紀「大赦天下。改昭寧爲永漢」)は献帝の治世の出来事としてカウントし、少帝弁の在位中の大赦には含めない。
立后回数
在位中(189年4月〜9月、約5ヶ月)に少帝弁が皇后を新たに冊立した記録は『後漢書』に見当たらない。即位時に「尊皇后曰皇太后」とあるのは、霊帝の皇后(何皇后、少帝の生母)を皇太后に格上げした記事であり、新規の立后ではない。在位が極端に短く、実権は何太后・宦官・董卓側にあったため、立后の記録自体が存在しないと判断。
皇太子廃立回数
少帝弁の在位中(189年4月〜9月)に皇太子を立てた記録・皇太子を廃した記録は『後漢書』孝霊帝紀・孝献帝紀に見当たらない。189年9月甲戌に董卓が行ったのは皇太子ではなく皇帝(少帝本人)の廃位であり、弘農王への降格である(『後漢書』孝献帝紀の即位記事、および先行研究・辞書類が一致して伝える)。この出来事はcrownPrinceDepositionCount(皇太子廃立)の定義(立てられていた皇太子を廃した回数)には該当しないためcount:0とする。
親征回数
『後漢書』孝霊帝紀・孝献帝紀の少帝弁在位期間(中平六年四月戊午~九月甲戌、189年5月15日~9月28日)該当箇所を確認したが、少帝本人が自ら軍を率いて出征した記述(「帝自将」等)は存在しない。即位時わずか17歳で在位も約4ヶ月と短く、記載される軍事的出来事は何進・宦官・董卓ら臣下間の政争(何進暗殺、袁紹による宦官誅殺、董卓の廃立)のみで、いずれも皇帝本人の出陣ではない。該当記事なしのため該当なし。
反乱鎮圧回数
少帝弁在位期間(189年5月15日~9月28日)の『後漢書』孝霊帝紀該当箇所には、何進暗殺・宦官誅殺・董卓の廃立という宮廷内クーデターの記述はあるが、地方における蜂起・反乱を政権側が鎮圧した記事は見当たらない(黄巾残党・羌胡・張純ら諸反乱はいずれも先代・霊帝期中平元年~五年の出来事であり、少帝即位前に既に発生・大半は鎮圧済み)。該当記事なしのため該当なし。
被反乱回数
董卓による廃位・毒殺という一連の政変を1件として算入したが、①何進暗殺・宦官誅殺劇を含めるべきか(今回は少帝本人への直接的な軍事行動ではないため除外)、②廃位(189年9月)と毒殺(190年3月)を1件とみるか2件に分けるべきか(今回は同一首謀者・同一政変の帰結として1件とした)という2点で解釈の余地があるためconfidenceはmediumとした。
遷都回数
後漢書本紀を通読。洛陽が建国から一貫した都で、在位中に追加の遷都記録はない(献帝期の洛陽→長安→許昌の遷都は献帝自身の代の出来事として計上済み)。
即位時年齢・没年齢
即位時年齢・没年齢とも『後漢書』に直接記載あり(数え年)。孝霊帝紀・即位記事「戊午,皇子辯即皇帝位,年十七」(189年5月15日、既存amnestyCount.note内に引用あり)により即位時年齢は数え17歳。deathCause.noteに引用の『後漢書』董卓列伝系記事により、初平元年正月癸丑(190年3月6日、鴆殺)時点で「時年十八」とあり没年齢は数え18歳。生年は直接記載がないため、この2つの直接記載(189年=17歳、190年=18歳)から逆算:189-17+1=173、190-18+1=173で一致したため生年を173年と確定(月日不詳のためbirthDatePrecisionはyear)。deathDateは既存rebellionSufferedCount.eventsのendDate(0190-03-06)およびdeathCause記載の鴆殺日と一致させた(reignsのendDateは廃位日0189-09-28でありdeathDateとは異なる。退位後に別途没した事例)。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元189年5月15日中平六年四月戊午(189年5月15日)、即位に伴う建元。
中平六年四月戊午(189年5月15日)、即位に伴う建元。「光熹」に改元。『後漢書』孝霊帝紀:「戊午,皇子辯即皇帝位…大赦天下,改元爲光熹。」
大赦189年5月15日中平六年四月戊午(189年5月15日)、少帝(劉辯)即位に伴う大赦。
中平六年四月戊午(189年5月15日)、少帝(劉辯)即位に伴う大赦。『後漢書』孝霊帝紀:「戊午,皇子辯即皇帝位,年十七。尊皇后曰皇太后,太后臨朝。大赦天下,改元爲光熹。封皇弟協爲渤海王。」
改元189年9月1日中平六年八月辛未、宦官の乱後の還宮に伴い「光熹」から「昭寧」に改元。
中平六年八月辛未、宦官の乱後の還宮に伴い「光熹」から「昭寧」に改元。『後漢書』孝霊帝紀:「辛未,還宮。大赦天下,改光熹爲昭寧。」
大赦189年9月1日中平六年八月辛未(189年頃)、宦官の乱(張讓・段珪による何進殺害、少帝拉致)を経て還宮した際の大赦、および光熹から昭寧への改元。
中平六年八月辛未(189年頃)、宦官の乱(張讓・段珪による何進殺害、少帝拉致)を経て還宮した際の大赦、および光熹から昭寧への改元。『後漢書』孝霊帝紀:「辛未,還宮。大赦天下,改光熹爲昭寧。」datePrecisionはday(干支月日は判明しているが、月初からの通日換算はグレゴリオ暦変換の概算のため厳密なズレの可能性あり)。
被反乱189年9月28日〜190年3月6日董卓の廃立・弘農王毒殺
首謀者: 董卓
結果: 少帝弁は廃位され弘農王に降格、翌年(初平元年正月癸丑=190年3月6日)郎中令李儒を介して鴆殺された
『後漢書』孝霊帝紀:中平六年(189年)八月戊辰、中常侍張譲・段珪が大将軍何進を殺害、これに対し虎賁中郎将袁術・司隷校尉袁紹が宦官を皆殺しにする政変が発生(この過程で少帝と陳留王は張譲・段珪に一時拉致され小平津まで連行されたが、辛未に無事還宮)。その直後、并州牧董卓が入京して執金吾丁原を殺し軍事的実権を掌握、九月甲戌(189年9月28日)、董卓は自らの兵力を背景に少帝を廃して弘農王に格下げした(『後漢書』孝献帝紀:「初平元年春正月…癸丑(酉とする版もあり)、董卓殺弘農王」、董卓列伝等により正月癸丑=190年3月6日に鴆殺と確認、deathCauseフィールドの既存調査と整合)。判断基準:何進暗殺・宦官誅殺は少帝本人を標的とした軍事行動ではなく何進派と宦官派の権力闘争であり、少帝は巻き込まれて一時拘束されたのみで廃位・殺害には至っていないため、この部分単独では被反乱に算入しない。一方、董卓による廃位は皇帝本人(少帝)を標的として軍事力を背景に強制的に地位を奪ったものであり、朝廷内権力者による実力(兵力)を伴うクーデターに該当するため被反乱1件として算入した。廃位(189年9月)と毒殺(190年3月)は董卓による一連の政変・処断の帰結であるため同一の反乱事件として1件にまとめ、廃位日をstartDate、毒殺日をendDateとした。毒殺時点で少帝は既に皇帝の地位を剥奪され弘農王であったが、基準に定める「反乱により廃位・殺害された場合」に該当するため算入し、deathCauseと内容が重複する。