献帝
後漢|在位 189–220年

- 諱(本名)
- 劉協
- 在位
- 189–220年
- 在位期間
- 31年81日365名中22位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 9歳(数え年)172名中・若い順22位タイ
- 没年齢
- 54歳(数え年)269名中・長寿順63位タイ
- 改元
- 6回332名中15位タイ
- 大赦
- 11回267名中27位タイ
- 立后
- 2回204名中14位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 4回289名中127位タイ
- 遷都
- 2回45名中3位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:献帝
即位の経緯
霊帝の中子。少帝弁の即位後、勃海王→陳留王に封じられていたが、董卓が宦官誅殺の混乱に乗じて上洛し実力で朝政を掌握した後、百官を集めて廃立を強行し擁立した(「遂脅太后、策廢少帝……乃立陳留王、是為獻帝」)。董卓による軍事力を背景とした廃立で本人の主体的簒奪ではないため擁立と判定。
出典: 後漢書・本紀第九章 孝霊帝紀/第十章 孝献帝紀/列伝第六十六章 董卓列傳
死因の経緯
曹丕への禅譲後、山陽公として厚遇された晩年を送り、234年に54歳で死去。魏の曹叡(明帝)が哭礼を行い「孝献皇帝」と諡した。暗殺・不審死を示す記述はない。
出典: 後漢書 巻九 孝獻帝紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
『後漢書』孝獻帝紀の原文で確認。即位時の建元(永漢)を1回目として含める(CLAUDE.md/ADDITIONAL_SCHEMA.mdの方針)。なお即位直前、少帝(劉辯)の在位中に光熹→昭寧と改元されているが、これは少帝自身の治世下の改元であり献帝の改元回数には含めない。献帝自身が即位に伴い昭寧を永漢に改めた行為が献帝にとっての最初の改元となる。その後、董卓の主導により同年十二月に光熹・昭寧・永漢の三号を廃止し中平六年に復するという異例の「元号取り消し」が行われており、これも献帝の治世下で生じた年号切り替えとして1回に数えた。
大赦回数
『後漢書』孝獻帝紀の原文全文を直接確認し「大赦天下」の語句を精査した結果、正確に11回出現する。部分的な恩赦(「原輕繫」等の減刑記事)は対象外とし、「大赦天下」と明記された記事のみをカウントした。
立后回数
『後漢書』孝獻帝紀の原文で確認。伏皇后は建安十九年(214年)に廃后・処刑され(『後漢書』皇后紀下によれば正式な廃后の策書あり)、その後曹皇后が新たに立てられた。再冊立(同一人物の複数回立后)はない。
皇太子廃立回数
『後漢書』孝獻帝紀の原文全文を確認したが、献帝の在位中(189〜220年)に皇太子が立てられた記録自体が見当たらない。皇子は南陽王馮(建安五年に立てられ同年薨去)、済陰王熙・山陽王懿・済北王邈・東海王敦(建安十七年に立てられる)等、いずれも「王」に封じられただけで「皇太子」として冊立された記事はない。本紀中「太子」の語は「太子舍人」という官職名としてのみ出現し、皇太子本人を指す用例はない。したがって皇太子の廃立自体が発生し得ず、count:0とする。
親征回数
『後漢書』孝献帝紀の全文(189年即位〜220年禅譲)を通読したが、「帝自将」「上自将兵」等、献帝本人が軍を率いて出陣したことを示す記述は一切ない。董卓専権期・李傕郭汜の乱・曹操による挟天子以降の諸戦役(呂布・袁術・袁紹・劉表・孫権・張魯・韓遂馬超等との戦い)はすべて董卓配下の将、あるいは曹操自身が指揮しており、献帝は常に擁立・保護(あるいは人質)される側であった。195年の長安脱出(車駕東帰)でも、戦闘を実際に行ったのは楊奉・董承ら護衛の将であり、献帝自身が軍を指揮した記述はない。該当記事なしのため0回と判定。
反乱鎮圧回数
献帝紀全体を通読し、上記4件を政権側(献帝朝廷)による鎮圧事例として算入した。判断が難しく除外した事例:(1) 建安元年の反董卓連合(山東州郡起兵以討董卓)は指示通り董卓打倒目的であり献帝自身への反乱ではないため除外。(2) 196年以降、曹操が主導した呂布・袁術・袁紹・劉表・孫権・張魯・韓遂馬超・公孫康らとの一連の戦役は、光武帝の隗囂・公孫述平定の前例と同様、既に独立していた群雄同士の統一戦争・征服戦とみなし反乱鎮圧に含めなかった(呂布については一時的に漢の官位を受けていたため『叛』の語が使われ境界事例だが、実質的には独立軍閥同士の抗争として除外)。(3) 下邳賊闕宣の自称天子(興平元年六月)は、本紀に朝廷側・地方官による具体的な鎮圧行動の記述がないため除外(史書によれば陶謙が後に誅殺したとされるが、献帝紀原文にその記載はない)。(4) 建安十二年冬十月の黄巾賊による済南王贇殺害は、対象が皇帝ではなく諸侯王であり、かつ鎮圧の記述もないため除外。(5) 建安十年の黒山賊張燕の投降(墨山賊張燕率衆降)は、戦闘・鎮圧行動の記述がなく単なる帰順であるため除外。(6) 建安五年の董承・王服・種輯による曹操誅殺計画(衣帯詔事件)は、事泄(発覚)により実際の兵力行使に至らなかったため除外。(7) 194年の韓遂・馬騰と郭汜・樊稠の長平観の戦いは、韓遂・馬騰が実質独立した涼州軍閥であり、既服属の臣民の反乱というより群雄間の抗争の性格が強いため除外した(境界事例)。
被反乱回数
2026-07-16の被反乱算入基準改訂により、rebellionSuppressionCountに計上した4件のうち3件(白波賊の河東・東郡侵寇、青州黄巾の泰山・勃海侵寇、馮翊羌の反乱)を被反乱にも追加算入した。耿紀・韋晃の変は標的が曹操であり献帝の統治権への武力反抗とは言えないため除外を維持。
遷都回数
在位中に遷都2回(0190年 雒陽(洛陽)→長安、0196年 雒陽(洛陽)→許(許昌))。
即位時年齢・没年齢
即位時年齢は既存収録の後漢書孝献帝紀原文「九月甲戌,即皇帝位,年九歲」により9歳(189年)。没年齢は_corpus_cache/hou-han-xiandi.txt末尾(後漢書孝献帝紀)の「魏青龍二年三月庚寅,山陽公薨。自遜位至薨,十有四年,年五十四,謚孝獻皇帝」により54歳(234年、既存deathCause.noteの記述と一致)。生年は両者の逆算値(189-9+1=181年、234-54+1=181年)が完全に一致するためbirthDate=181年(precision:year)として確定。deathDateは魏青龍二年三月庚寅(234年3月、日は干支のみで西暦日への換算未実施のためmonth精度)。禅譲後に山陽公として没しており、reigns最終endDate(0220-12-11、退位日)とは別の日付。
在位中の出来事(29件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元189年9月献帝即位(九月甲戌)に伴い、少帝の年号「昭寧」を「永漢」に改める。
献帝即位(九月甲戌)に伴い、少帝の年号「昭寧」を「永漢」に改める。原文:「九月甲戌,即皇帝位,年九歲。……大赦天下。改昭寧為永漢。」
大赦189年9月即位(九月甲戌)に伴い大赦天下。
即位(九月甲戌)に伴い大赦天下。原文:「九月甲戌,即皇帝位,年九歲。遷皇太后於永安宮。大赦天下。改昭寧為永漢。」
反乱鎮圧189年10月〜190年1月白波賊の河東・東郡侵寇
首謀者: 不詳(白波谷を根拠地とした黄巾系賊徒集団、首謀者個人名は本紀に記載なし)
結果: 文献上、鎮圧成功の明記なし。「白波賊寇河東,董卓遣其将牛輔擊之」(中平六年冬)とあるのみで交戦の帰趨は記されず、翌年(初平元年)「白波賊寇東郡」と再度の侵寇のみ記録される。
献帝紀原文:「白波賊寇河東,董卓遣其将牛輔擊之。」(中平六年冬十一月条の直前)/「白波賊寇東郡。」(初平元年春正月条)。董卓は既に朝政を掌握していたが、形式上は献帝の朝廷(政権側)が将を派遣して対応したものであり、政権側鎮圧に算入した。同一の白波賊集団による連続的侵寇とみなし1件に統合したが、2年にまたがり間に交戦の記述もないため確信度は低い。
被反乱189年10月〜190年1月白波賊の河東・東郡侵寇
首謀者: 不詳(白波谷を根拠地とした黄巾系賊徒集団)
結果: 文献上、鎮圧成功の明記なし。中平六年冬に牛輔が撃つも交戦の帰趨は不明、翌年(初平元年)再度東郡に侵寇。
献帝紀原文『白波賊寇河東,董卓遣其将牛輔擊之』『白波賊寇東郡』。政権統治下の郡県への武装侵寇であり、rebellionSuppressionCountと同一事象として追加。
改元189年12月光熹・昭寧・永漢の三年号をすべて廃止し、中平六年(旧年号)に復する異例の措置。
光熹・昭寧・永漢の三年号をすべて廃止し、中平六年(旧年号)に復する異例の措置。原文:「詔除光熹、昭寧、永漢三號,還復中平六年。」
改元190年1月初平元年に改元。
初平元年に改元。原文:「初平元年春正月,山東州郡起兵以討董卓。」
大赦190年1月初平元年正月辛亥、大赦天下。
初平元年正月辛亥、大赦天下。原文:「辛亥,大赦天下。」
遷都190年2月雒陽(洛陽) → 長安
『後漢書』孝献帝紀、初平元年二月丁亥「遷都長安。董卓、京師の百姓を駆り徙し悉く西のかた関に入らしむ」と明確に『遷都』の語で記される。董卓主導の強制遷都で、三月乙巳「車駕長安に入り、未央宮に幸す」、己酉に董卓が洛陽の宮廟・人家を焼いたとある。なお建国時の洛陽定都(建武元年冬十月、光武帝紀「車駕洛陽に入り…遂に都を定む」)は建国時の最初の定都につき対象外。(出典: 後漢書 本紀第十 孝献帝紀)
大赦191年1月初平二年正月辛丑、大赦天下。
初平二年正月辛丑、大赦天下。原文:「二年春正月辛丑,大赦天下。」
反乱鎮圧191年11月〜192年4月青州黄巾の泰山・勃海侵寇から兗州侵寇・寿張投降まで
首謀者: 不詳(青州黄巾の残党、個別の首謀者名は本紀に記載なし)
結果: 最終的に曹操が寿張で大破し投降させた(192年)。それ以前に応劭(太山太守)・公孫瓚もそれぞれ撃破していた。
献帝紀原文:「十一月,青州黄巾寇太山,太山太守應劭擊破之。黃巾轉寇勃海,公孫瓚與戰於東光,復大破之。」(初平二年=191年)/「青州黄巾擊殺兗州刺史劉岱於東平。東郡太守曹操大破黄巾於壽張,降之。」(初平三年=192年)。同一の青州黄巾残党が移動を続けた一連の事件とみなし1件に統合したが、原文は各地域・各年で個別に記述されており同一集団と明記されているわけではないため、統合の妥当性についてはconfidence medium相当の留保あり。
被反乱191年11月〜192年4月青州黄巾の泰山・勃海侵寇から兗州侵寇・寿張投降まで
首謀者: 不詳(青州黄巾の残党)
結果: 最終的に曹操が寿張で大破し投降させた(192年)。それ以前に応劭・公孫瓚もそれぞれ撃破。
献帝紀原文で太山・勃海・兗州へ侵寇し兗州刺史劉岱を殺害するに至った武装反乱。政権側(応劭・公孫瓚・曹操)が迎撃・鎮圧しており、rebellionSuppressionCountと同一事象として追加。
大赦192年1月初平三年正月丁丑、大赦天下。
初平三年正月丁丑、大赦天下。原文:「三年春正月丁丑,大赦天下。」
大赦192年5月初平三年五月丁酉、大赦天下(董卓誅殺・王允が政務を総攬した後)。
初平三年五月丁酉、大赦天下(董卓誅殺・王允が政務を総攬した後)。原文:「五月丁酉,大赦天下。」
大赦192年6月初平三年六月己未、大赦天下(李傕・郭汜らが長安を陥落させた直後)。
初平三年六月己未、大赦天下(李傕・郭汜らが長安を陥落させた直後)。原文:「己未,大赦天下。」
被反乱192年6月〜195年12月李傕・郭汜の乱(長安陥落〜献帝東帰に至る兵乱)
首謀者: 李傕・郭汜(当初は樊稠・張済も合流)
結果: 192年に長安陥落・王允ら殺害、献帝を掌中に。195年に内訌し矢及御前の事態、献帝東帰を追撃し王師大敗、多数の官吏・宮人殺害。
既存項目(変更なし)。献帝紀原文が明確に『反』と記し、京師陥落・献帝の身柄拘束・追撃という直接的な武力反抗であるため従前通り算入。
大赦193年1月初平四年正月丁卯、大赦天下。
初平四年正月丁卯、大赦天下。原文:「丁卯,大赦天下。」
改元194年1月興平元年に改元。
興平元年に改元。原文:「興平元年春正月辛酉,大赦天下,改元興平。」
大赦194年1月興平元年正月辛酉、改元興平と同時に大赦天下。
興平元年正月辛酉、改元興平と同時に大赦天下。原文:「興平元年春正月辛酉,大赦天下,改元興平。」
反乱鎮圧194年8月馮翊羌の反乱
首謀者: 不詳(馮翊の羌、個別の首謀者名は本紀に記載なし)
結果: 撃破成功
献帝紀原文(興平元年八月条):「馮翊羌叛,寇屬縣,郭汜、樊稠擊破之。」西羌は辺境の郡県支配下にあった集団であり、独立勢力との征服戦とは区別して反乱鎮圧に算入した。郭汜・樊稠は当時すでに李傕らと共に長安を制圧し朝政を専断していた勢力だが、名目上は献帝朝廷の将軍位にあり政権側として鎮圧を行ったため算入した。
被反乱194年8月馮翊羌の反乱
首謀者: 不詳(馮翊の羌)
結果: 撃破成功
献帝紀原文『馮翊羌叛,寇屬縣,郭汜、樊稠擊破之』。服属民(属県の羌)による武装反乱であり、rebellionSuppressionCountと同一事象として追加。
大赦195年1月興平二年正月癸丑、大赦天下。
興平二年正月癸丑、大赦天下。原文:「二年春正月癸丑,大赦天下。」
立后195年4月興平二年四月甲午、貴人伏氏を皇后に立てる(伏寿、伏完の娘)。
興平二年四月甲午、貴人伏氏を皇后に立てる(伏寿、伏完の娘)。原文:「夏四月甲午,立貴人伏氏為皇后。」後に建安十九年(214年)十一月丁卯、曹操が伏皇后とその一族・二皇子を殺害(『後漢書』皇后紀下に正式な廃后の策書あり)。原文(本紀):「十一月丁卯,曹操殺皇后伏氏,滅其族及二皇子。」
改元196年1月建安元年に改元。
建安元年に改元。原文:「建安元年春正月癸酉,郊祀上帝於安邑,大赦天下,改元建安。」
大赦196年1月建安元年正月癸酉、安邑にて郊祀・改元建安と同時に大赦天下。
建安元年正月癸酉、安邑にて郊祀・改元建安と同時に大赦天下。原文:「建安元年春正月癸酉,郊祀上帝於安邑,大赦天下,改元建安。」
大赦196年7月建安元年七月丁丑、洛陽到着後、郊祀上帝とともに大赦天下。
建安元年七月丁丑、洛陽到着後、郊祀上帝とともに大赦天下。原文:「丁丑,郊祀上帝,大赦天下。」
遷都196年8月雒陽(洛陽) → 許(許昌)
『後漢書』孝献帝紀、建安元年八月庚申「遷都許」と明確に『遷都』の語で記される。同年七月甲子に献帝は李傕・郭汜の乱からの流浪の末に洛陽へ還った(「車駕洛陽に至る」)が、当時「宮室焼尽、百官荊棘に依る」有様で仮寓に過ぎず正式な定都とは認められない。曹操が献帝を迎えた上で八月に許(許昌)へ正式に遷都した。(出典: 後漢書 本紀第十 孝献帝紀)
立后215年1月建安二十年正月甲子、貴人曹氏(曹操の娘)を皇后に立てる。
建安二十年正月甲子、貴人曹氏(曹操の娘)を皇后に立てる。原文:「二十年春正月甲子,立貴人曹氏為皇后。」
反乱鎮圧218年1月耿紀・韋晃の変(曹操誅殺未遂事件)
首謀者: 耿紀(少府)・韋晃(丞相司直)
結果: 鎮圧成功(不克、夷三族)
献帝紀原文(建安二十三年正月甲子条):「少府耿紀、丞相司直韋晃起兵誅曹操,不克,夷三族。」実際に挙兵(兵力行使)に及んだ点で単なる摘発止まりの謀反計画(建安五年の董承の衣帯詔事件、事泄により実際の兵力行使に至らず除外)とは区別し算入対象とした。ただし標的は曹操であり献帝自身ではなく、また鎮圧を主導したのも献帝ではなく事実上の権力者曹操(丞相)であるため、『政権側(朝廷)による鎮圧』とみなせるかは境界事例であり、confidenceを下げる要因とした。むしろ献帝の意を受けた(あるいは献帝を奉じようとした)勢力によるクーデター未遂とも解釈しうる。
改元220年3月建安二十五年三月、延康に改元(献帝としての最後の改元。
建安二十五年三月、延康に改元(献帝としての最後の改元。同年十月に禅譲・退位)。原文:「三月,改元延康。」