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王莽の肖像画

新第1代

王莽

在位 8–23年(14年269日)9年1月10日 〜 23年10月6日 ( 8年11月25日から)

日本は弥生時代

として漢の政治を握り、を根拠に帝位に就いて新を建てたが、改革に行き詰まり、長安に兵が攻め入るなかで殺された皇帝である。

王莽の人物データ

生年
前45年
在位
  • 9年1月10日〜23年10月6日 8年11月25日から
14年269日長い順89位/365人53歳で即位(数え年)
没年
23年10月6日68歳(数え年)長生き順同率19位/266人
死因
同じ死因8人/365人
即位経路
(易姓)
先代
  • 劉嬰王莽は劉嬰の外戚
次代
—
呼び名
姓王諱莽字巨君呼び名の見方
目立つ記録
  • 皇太子を廃した 1回多い順同率4位

出典

在位
漢書 巻九十九上・中・下 王莽傳
死因
漢書 王莽傳下
即位経路
漢書 王莽傳上・王莽傳中

生涯

どんな皇帝か

漢書の賛は、王莽を仁を装い行いは背く者かと問い、天の時にも助けられたとしつつ、禍の大きさで王莽に及ぶ乱臣賊子はいないと断じる。

即位まで

元帝の皇后の甥で、父を早くに失い、贅沢な一族の中でひとり倹約して礼経を学び、母と兄嫁に仕えて兄の遺児を養った。伯父の王鳳が病むと薬を味見し、幾月も帯を解かず看た。哀帝の代に新都国へ退いていたとき、奴を殺した息子の王獲を責めて自殺させた。1年に安漢公の号を受けた。息子の王宇が、平帝の母方の衛氏を都から遠ざけたことに反対して邸の門に血を塗らせると、獄に送られた宇は薬を飲んで死んだ。王莽は衛氏と自分を批判してきた者まで誅した。平帝が没すると、宣帝の玄孫のうち最も幼い2歳の劉嬰を選び、太后の詔で周公にならって天子の代行となった。哀章の偽ったを受けて8年に帝位に就き、国号を新とし、劉嬰の手を取って周公のように位を返せないと泣いた。

史料について

平帝の毒殺は、漢書の本文では翟義のや漢兵の言葉に出てくるだけで、資治通鑑は地の文で、椒酒に毒を入れたと書く。

治世と最期

9年に天下の田をとして売買を禁じたが、民の怨みを知って12年に禁を解いた。自分の顔を人を食う相だと言った待詔を誅し、以後は雲母の屏風で顔を隠した。制度さえ定まれば天下は治まると考えて議論に没頭し、万事を抱え込んで夜通し働いても処理しきれなかった。妻は、王莽がたびたび息子を殺したのを嘆いて失明した。21年、王莽は子の王臨が自分を殺そうと謀ったと知ると毒薬を与え、臨は自刺した。

23年、王邑・王尋の大軍は昆陽で劉秀の軍に敗れた。同じ年に宮殿が燃えると、北斗の柄の向きに席を回して座り、天が私に徳を授けた、漢兵が私をどうできようかと言った。漸台に逃れたところを商人の杜呉に殺され、首は宛の市に懸けられて民に打たれた。

王莽とつながる皇帝

在位中の出来事

反乱10・皇后2・皇太子1・改元3・大赦11
  1. 9年
  2. 反乱9–22年句町・西南夷(益州蛮夷)の反乱
  3. 改元9年1月元号を「始建国」とする
  4. 9年1月
  5. 皇后9年1月妻(宜春侯王氏の娘)を皇后に立てる。
  6. 反乱9年4月徐郷侯劉快の乱
  7. 10年
  8. 12年
  9. 改元14年元号を「天鳳」とする
  10. 14年
  11. 14年
  12. 15年
  13. 16年
  14. 反乱17–18年琅邪呂母の乱
  15. 反乱17–20年臨淮瓜田儀の乱
  16. 反乱18–23年赤眉の乱
  17. 改元20年元号を「地皇」とする
  18. 20年
  19. 20年
  20. 皇太子20年皇太子を廃する
  21. 反乱20–23年緑林・新市・平林・下江の反乱および更始政権による長安陥落
  22. 反乱21年南郡秦豊の反乱
  23. 反乱21年平原遅昭平の反乱
  24. 反乱22年無塩索盧恢の反乱
  25. 反乱23年成紀隗崔・隗囂の反乱
  26. 23年3月
  27. 皇后23年3月皇后を立てる

年表

新・後漢初の時代を年表で見る

新が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「受禅(易姓)」の18名をデータベースで見る

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