中国皇帝統計

王莽

新|在位 8–23年

王莽の肖像
諱(本名)
王莽
在位
8–23年
在位期間
14年298日365名中89位
即位経路
禅譲
死因
処刑
即位時年齢
53歳(数え年)172名中・若い順161位タイ
没年齢
68歳(数え年)269名中・長寿順19位タイ
改元
4332名中29位タイ
大赦
11267名中27位タイ
立后
2204名中14位タイ
皇太子廃立
129名中5位タイ
親征
0
反乱鎮圧
10225名中38位タイ
被反乱
10289名中48位タイ
遷都
0

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

居摂・仮皇帝として実権を握った後、梓潼の哀章が偽造した符命(金匱)を口実に、居摂3年(8年)戊辰の日、高廟で「金匱神嬗」を受けたと称して即真天子位に即いた。原文:「戊辰,莽至高廟拜受金匱神嬗…即真天子位,定有天下之號曰『新』」(漢書・王莽傳上)。同日、孺子嬰(宣帝玄孫、当時の皇位継承予定者)を「定安公」に降格する策命を読み上げ、王莽自ら孺子の手を執って泣きながら「昔周公摂位,終得復子明辟,今予獨迫皇天威命,不得如意」と述べた(漢書・王莽傳中)。形式上は孺子嬰から皇帝位を「禅譲」される体裁だが、その禅譲劇自体が王莽側が用意した偽造符命により主導されたものであり、実質は外戚・摂政による前漢簒奪である。禅譲と簒奪が併存する境界事例のため、形式上の手続きに基づき禅譲を採用。

出典: 漢書 王莽傳上・王莽傳中

死因の経緯

緑林軍が長安に侵入し新朝が崩壊する混乱の中、漸台に立てこもったところを一般の商人杜吳に殺された(「商人杜吳殺莽,取其綬」)。校尉公賓就が首の在処を聞き出して斬首し、更始帝の元に送られ宛の市場で晒し者にされた(「傳莽首詣更始,懸宛市,百姓共提擊之,或切食其舌」)。遺体は兵士らに引き裂かれ奪い合いになった。政権交代後の勝者(緑林軍・更始政権)側による殺害・晒し首という公的処断の性格が強く処刑に分類。

出典: 漢書 王莽傳下

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

居摂(6年〜、当時は「仮皇帝」で真の皇帝ではないため対象外)に続き、王莽が真に皇帝を称してから使用した年号は初始・始建国・天鳳・地皇の4つ。ただし初始と始建国は居摂3年(8年)十一月の同一の即位劇(戊辰の日の即真天子位)の中でごく短期間のうちに連続して定められており(初始建元の直後、即位当日中に「十二月朔癸酉」をもって「建国元年正月朔」とすると布告)、これを1回の建元とみなすか2回とみなすかは解釈の余地がある。本データでは原文が明示的に別個の改元詔として記録している以上、2回として数えた(confidence medium)。

大赦回数

『漢書』王莽伝中・下より「大赦天下」「赦天下」と明記された記事を全件抽出(原文をwikisource生テキストで確認)。始建国元年〜天鳳期は卷099中、地皇期は卷099下に基づく。元始5年12月(平帝崩御時、前漢としての大赦)および居摂3年春(莽がまだ「仮皇帝」で真の皇帝ではなかった時期)の大赦は、王莽自身の在位(8年冬の即真天子位以降)に含まれないため除外。更始元年3月の大赦(劉玄による)も王莽自身の行為ではないため除外。

立后回数

王莽自身の皇后として冊立されたのは2人。元始4年(4年)に王莽の娘が平帝の皇后に立てられた記事(『漢書』王莽伝上)は王莽自身の皇后ではないため対象外。

皇太子廃立回数

四男・王臨は始建国元年(9年)に皇太子に立てられたが(原文:「乃以臨為皇太子」王莽伝中)、地皇元年(20年)七月、「兄(安)がいるのに太子を称するのは名分が正しくない」との理由で廃され「統義陽王」に降格された。原文:「臨有兄而稱太子,名不正...其立安為新遷王,臨為統義陽王」(漢書・王莽伝下)。この後、地皇二年正月、臨は妻・愔らとの莽暗殺共謀が発覚し自殺に追い込まれたが(「賜臨藥,臨不肯飲,自刺死」)、これは既に廃太子後の出来事であり別事象(廃立そのものは1回とカウント)。

親征回数

在位中の全軍事行動(対匈奴十二道討伐、対句町・益州、対緑林・赤眉・下江・新市・更始等)はいずれも将軍(王邑・王寻・厳尤・陳茂・廉丹・太師王匡・孫建等)への派遣によるものであり、『漢書』王莽伝上中下のいずれにも「自将」「帝自将」等、王莽自身が出陣・戦場に赴いたことを示す記述は一切ない。地皇四年の長安陥落時も王莽は宮殿・漸台に籠り、王邑父子ら側近が防戦したのみで自ら兵を率いて出撃した記述はない。該当記事なしのため0件。

反乱鎮圧回数

新朝末期は多数の農民反乱・辺境反乱が同時多発した時期であり、鎮圧の成否・具体的な鎮圧軍派遣の有無について原文の記述量に差がある(徐郷侯劉快・無塩索盧恢は鎮圧成功が明記、句町・呂母・瓜田儀・赤眉・緑林/更始は鎮圧失敗が明記、秦豊・遅昭平・隗崔/隗嚣は具体的な鎮圧軍派遣の記載が乏しく政権崩壊により鎮圧策を講じられないまま終わった可能性が高いためconfidence lowとした)。銅馬の乱は『漢書』王莽伝上中下に記載がなく(後漢書の更始・光武期に記載)、王莽在位中の事件として確認できないため対象外とした。

被反乱回数

【2026-07-16基準改訂に伴う再監査】rebellionSuppressionCount.eventsの10件を1件ずつ再検討し、政治的地位・規模を問わず武装反乱であればrebellionSufferedCountにも計上する原則を適用した。従来「政治的地位を持つ反乱者による皇帝への直接挑戦のみ」という誤った基準で除外していた呂母・瓜田儀・赤眉・索盧恢・秦豊・遅昭平(いずれも飢民・盗賊による武装蜂起)と、「辺境部族反乱」として除外していた句町・西南夷(実際は牂柯郡内の属国=服属民の反乱)、および隗崔・隗嚣(未鎮圧のまま新朝滅亡)を追加し、count=2→10に修正した。徐郷侯劉快の乱・緑林/更始政権による長安陥落は元から両方に計上済みのため変更なし。地皇四年の大司馬董忠・衛将軍王涉・国師劉歆によるクーデター計画は実際の武力行使に至る前に発覚・鎮圧されたため、密告・摘発のみで終わった謀反計画として引き続き除外(変更なし)。原文はchina-history/汉书/传/第七十五~七十七章-王莽传-原文.htmlで該当箇所(句町の五威将記事、秦丰・迟昭平・隗崔隗嚣の記事)を確認した。

遷都回数

即位当初から一貫して長安(新朝下で「常安」と改称)が首都。洛陽を東都とする複都制の詔・造営はあったが実行されず、地皇4年(23年)の敗死まで常安のまま。

即位時年齢・没年齢

『漢書』王莽伝上「根因乞骸骨,荐莽自代,上遂擢为大司马。是岁,绥和元年也,年三十八矣。」(_corpus_cache/wang-mang.txt 4行目)より、綏和元年(前8年)時点で数え38歳との直接記載を確認。生年月日・崩御時の「時年」直接記載は原文中に見当たらないため、この年齢直接記載と、既存データで確定済みの即位年(reigns[0].startYear=8年、初始元年冬の即真天子位)・崩御日(reigns[0].endDate=0023-10-06、地皇4年9月3日)との年号年ラベル差分から逆算した。綏和元年(前8年)→即位年(8年)は15年差のため即位時年齢=38+15=53歳。綏和元年(前8年)→崩御年(23年)は30年差のため没年齢=38+30=68歳。逆算生年は前45年(天文学的年表記で-0044年、月日不詳のためbirthDatePrecisionはyear)。両逆算値は同一の直接記載値(38歳)から一貫して導出されており内部矛盾なし。

在位中の出来事(38件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元8年11月居摂三年(8年)十一月、「初始」に改元。

居摂三年(8年)十一月、「初始」に改元。同月内の戊辰の日に高廟で金匱を受け「即真天子位」に即いた(本データの在位開始時点)。原文:「以居攝三年為初始元年,漏刻以百二十為度,用應天命...戊辰,莽至高廟拜受金匱神嬗。御王冠,謁太后,還坐未央宮前殿...即真天子位」(漢書・王莽伝上)

大赦9年始建国元年秋、五威将が符命四十二篇を天下に頒布した際に「大赦天下」(月日不詳、季節のみ判明のため年精度とする)。

始建国元年秋、五威将が符命四十二篇を天下に頒布した際に「大赦天下」(月日不詳、季節のみ判明のため年精度とする)。原文:「秋,遣五威將王奇等十二人班符命四十二篇於天下...大赦天下」(漢書・王莽伝中)

反乱鎮圧9年〜22年句町・西南夷(益州蛮夷)の反乱

首謀者: 王邯(句町)ほか益州蛮夷諸族

結果: 鎮圧失敗・長期化(平蛮将軍馮茂は士卒の疾疫で大敗し召還後獄死、後任の廉丹・史熊も決着つかず益州は荒廃したまま新朝滅亡に至る)

始建国元年、五威将が句町王を句町侯に格下げしたことに王邯が反発、牂柯大尹周歆が王邯を謀殺すると弟の承が挙兵し周歆を殺害。以後「益州蛮夷」全域(大尹程隆殺害等)で反乱が続き天凤・地皇年間を通じて鎮圧できなかった。

被反乱9年〜22年句町・西南夷(益州蛮夷)の反乱

首謀者: 王邯(句町)ほか益州蛮夷諸族

結果: 鎮圧されないまま長期化し、新朝滅亡まで平定できなかった

句町は牂柯郡(新朝の統治機構下)に組み込まれた属国で、句町王が句町侯に格下げされたことへの反発に端を発し、牂柯大尹周歆殺害を経て益州蛮夷全域に拡大した。属国の異民族による服属民の反乱に該当するため、2026-07-16基準改訂により被反乱に算入(従来は辺境部族反乱として除外していたが訂正)。

改元9年1月即位当日(戊辰)の詔で、国号を「新」と定め、旧暦十二月朔癸酉の日をもって「建国元年正月朔」とすると布告(始建国への改元)。

即位当日(戊辰)の詔で、国号を「新」と定め、旧暦十二月朔癸酉の日をもって「建国元年正月朔」とすると布告(始建国への改元)。原文:「定有天下之號曰新。其改正朔...以十二月朔癸酉為建國元年正月之朔」(漢書・王莽伝上)

大赦9年1月始建国元年、皇后冊立・皇太子冊立の記事直後に「大赦天下」。

始建国元年、皇后冊立・皇太子冊立の記事直後に「大赦天下」。原文:「乃以臨為皇太子,安為新嘉辟...大赦天下」(漢書・王莽伝中)

立后9年1月始建国元年、妻(宜春侯王氏の娘)を皇后に立てる。

始建国元年、妻(宜春侯王氏の娘)を皇后に立てる。原文:「莽妻宜春侯王氏女,立為皇后」(漢書・王莽伝中)

反乱鎮圧9年4月徐郷侯劉快の乱

首謀者: 劉快(徐郷侯)

結果: 鎮圧成功(劉快は即墨攻撃に失敗し敗走、長広で死亡)

始建国元年四月、劉快が数千人を率いて即墨を攻めたが、兄で扶崇公(旧胶東王)劉殷に阻まれ敗走し長広で死亡。王莽は殷を赦し戦没者を弔った。

被反乱9年4月徐郷侯劉快の乱

首謀者: 劉快(徐郷侯)

結果: 鎮圧され失敗(劉快敗走・死亡)

新朝から徐郷侯に封じられていた劉氏宗室が数千人を率いて即墨を攻撃した、新朝支配下の有爵者による武装反乱として算入。(変更なし)

大赦10年2月始建国二年二月「赦天下」。

始建国二年二月「赦天下」。原文:「二年二月,赦天下」(漢書・王莽伝中)

大赦12年2月始建国四年二月「赦天下」。

始建国四年二月「赦天下」。原文:「四年二月,赦天下」(漢書・王莽伝中)

改元14年1月始建国五年の翌年、「天鳳」に改元。

始建国五年の翌年、「天鳳」に改元。原文:「明年改元曰天鳳」、及び「天鳳元年正月,赦天下」で正月からの施行を確認(漢書・王莽伝中)

大赦14年1月天鳳元年正月「赦天下」。

天鳳元年正月「赦天下」。原文:「天鳳元年正月,赦天下」(漢書・王莽伝中)

大赦14年3月天鳳元年三月壬申晦、日食に伴い「大赦天下」。

天鳳元年三月壬申晦、日食に伴い「大赦天下」。原文:「三月壬申晦,日有食之。大赦天下」(漢書・王莽伝中)

大赦15年2月天鳳二年二月「大赦天下」。

天鳳二年二月「大赦天下」。原文:「二年二月,置酒王路堂,公卿大夫皆佐酒。大赦天下」(漢書・王莽伝中)

大赦16年天鳳三年、日食(戊子晦)に伴い「大赦天下」。

天鳳三年、日食(戊子晦)に伴い「大赦天下」。文脈上、三年二月乙酉の地震記事より後、十月戊辰の記事より前に位置するため天鳳三年内だが具体的な月は特定できない。原文:「戊子晦,日有食之。大赦天下」(漢書・王莽伝中)

反乱鎮圧17年〜18年琅邪呂母の乱

首謀者: 呂母

結果: 鎮圧失敗(招撫使者を派遣するも「盗賊解れどもすぐ復た合す」と効果なく、王莽は使者を罷免)

県吏だった息子を県宰に不当に殺されたことを恨み、家財を売って兵を集め海曲県を攻め宰を殺して子の墓に祭った。勢力は万単位に拡大。原文には呂母個人のその後の帰趨は明記されない。

反乱鎮圧17年〜20年臨淮瓜田儀の乱

首謀者: 瓜田儀

結果: 投降交渉は成立したが本人が出頭前に病死、残党は降伏せず

会稽の長州に拠って挙兵。上谷の儲夏が説得に赴き文書で投降に応じたが出頭前に死去。王莽は遺骸を丁重に葬り懐柔を図ったが他の残党は誰も降伏しなかった。

被反乱17年〜18年琅邪呂母の乱

首謀者: 呂母

結果: 招撫失敗、反乱は拡大したまま王莽在位中鎮圧されなかった

琅邪の飢民集団が武装挙兵し海曲県を攻めて県宰を殺害した事例。無位無官の農民による蜂起であっても実際に武装し政権への反抗行動を取り、rebellionSuppressionCountにも計上されているため、2026-07-16基準改訂(黄巾の乱・赤眉の乱と同様の扱い)により被反乱に算入。

被反乱17年〜20年臨淮瓜田儀の乱

首謀者: 瓜田儀

結果: 投降交渉は成立したが本人が出頭前に病死、残党は降伏しなかった

会稽の長州に拠って挙兵した武装反乱。基準改訂により被反乱に算入。

反乱鎮圧18年〜23年赤眉の乱

首謀者: 力子都(のち樊崇)

結果: 鎮圧失敗(更始将軍廉丹が成昌の戦いで戦死、王匡は敗走)

琅邪に起こり饑饉を背景に勢力数万に拡大。地皇三年、太師王匡・更始将軍廉丹が東征したが梁郡成昌で赤眉別働隊(董憲ら)に大敗し廉丹戦死。王莽在位中は最後まで鎮圧できず、王莽死後も存続した。

被反乱18年〜23年赤眉の乱

首謀者: 力子都(のち樊崇)

結果: 鎮圧失敗(更始将軍廉丹が成昌の戦いで戦死)、王莽在位中最後まで鎮圧できなかった

琅邪に起こった飢饉起因の武装蜂起が数万規模に拡大し官軍を撃破した。訂正基準で明示的に例示された事例(黄巾の乱・赤眉の乱)に該当するため被反乱に算入。

大赦20年地皇元年閏月丙辰「大赦天下」(閏月のため通常の月番号に対応せず年精度とする)。

地皇元年閏月丙辰「大赦天下」(閏月のため通常の月番号に対応せず年精度とする)。原文:「閏月丙辰,大赦天下,天下大服民私服在詔書前亦釋除」(漢書・王莽伝下)

反乱鎮圧20年〜23年緑林・新市・平林・下江の反乱および更始政権による長安陥落

首謀者: 王匡・王凤(緑林)→劉玄(更始帝、地皇四年三月即位)

結果: 鎮圧失敗、王莽敗死・新朝滅亡(地皇四年六月昆陽の戦いで王邑・王尋の号百万の大軍が壊滅、同年十月長安陥落、王莽は漸台で殺害された)

南郡雲杜の緑林山に起こった飢民集団を起源とし、『漢書』王莽伝下では地皇元年前後に「下江兵」の名で言及される(他史料〈後漢書〉では天凤四年=17年起兵説あり、王莽伝の記述だけでは正確な起点は特定できない)。後に新市(朱鮪・陳牧)・平林(陳牧)・下江(王常・成丹)と合流し、地皇四年三月に劉玄(更始帝)を擁立。六月の昆陽の戦いで新朝主力を撃破し、十月長安を陥落させ王莽を殺害した。

被反乱20年〜23年緑林・新市・平林・下江の反乱および更始政権による長安陥落

首謀者: 王匡・王凤(緑林)→劉玄(更始帝、地皇四年三月即位)

結果: 反乱成功、王莽は長安陥落時に漸台で殺害され新朝は滅亡した

南郡雲杜の緑林山に起こった飢民集団を起源とする武装反乱が更始政権樹立・昆陽の戦い・長安陥落に至った事例。(変更なし)

改元20年1月天鳳六年の翌年、「地皇」に改元。

天鳳六年の翌年、「地皇」に改元。原文:「明年改元曰地皇,從三萬六千歲曆號也」、及び「地皇元年正月乙未,赦天下」で正月からの施行を確認(漢書・王莽伝下)

大赦20年1月地皇元年正月乙未「赦天下」。

地皇元年正月乙未「赦天下」。原文:「地皇元年正月乙未,赦天下」(漢書・王莽伝下)

皇太子廃立20年7月皇太子・王臨を廃し「統義陽王」に降格。

皇太子・王臨を廃し「統義陽王」に降格。壬午の日の暴風被害を機に「名不正」を名目とする詔が七月に下された(具体的な日付は不詳、月のみ判明)。原文:「七月,大風毀王路堂...臨有兄而稱太子,名不正...其立安為新遷王,臨為統義陽王」(漢書・王莽伝下)

反乱鎮圧21年南郡秦豊の反乱

首謀者: 秦豊

結果: 具体的な鎮圧策が講じられないまま推移(群臣は「天囚行尸、命在漏刻」と楽観視するのみで討伐軍派遣の記載なし)

confidence low。地皇二年、南郡で秦豊が挙兵し勢力ほぼ一万人に達したが、王莽が群臣に鎮圧策を問うても具体策は出ず、公孫禄はむしろ朝廷内部の失政を指摘した。原文に鎮圧軍派遣の記載がなく実態不明。

反乱鎮圧21年平原遅昭平の反乱

首謀者: 遅昭平

結果: 具体的な鎮圧策が講じられないまま推移(秦豊と同時に群臣で協議されたが実効的な討伐は確認できず)

confidence low。地皇二年、平原の女性遅昭平が博戯(賭博の術)を説いて数千人を黄河の阻地に集めた。

被反乱21年南郡秦豊の反乱

首謀者: 秦豊

結果: 具体的な鎮圧策が講じられないまま新朝滅亡(南郡で勢力ほぼ一万人に拡大)

confidence low。汉书原文「是岁、南郡秦丰众且万人」およびその後の「四方皆以饥寒穷愁起为盗贼」との総括に基づき、南郡(新朝統治下の commandery)で武装蜂起した飢民系反乱と確認。政治的地位を問わず被反乱に算入(基準改訂)。

被反乱21年平原遅昭平の反乱

首謀者: 遅昭平

結果: 具体的な鎮圧策が講じられないまま推移

confidence low。汉书原文で秦豊と並記され「四方皆以饥寒穷愁起为盗贼」と総括される武装蜂起集団の一つ(平原で数千人を黄河の阻地に集めた)。基準改訂により被反乱に算入。

反乱鎮圧22年無塩索盧恢の反乱

首謀者: 索盧恢

結果: 鎮圧成功(廉丹・王匡が攻め落とし斬首一万余級)

地皇三年冬、無塩県で索盧恢らが挙兵し城に立て籠もったが、廉丹・王匡が攻略し多数を斬首した。

被反乱22年無塩索盧恢の反乱

首謀者: 索盧恢

結果: 廉丹・王匡により鎮圧され斬首一万余級

無塩県で挙兵し城に立て籠もった武装反乱。鎮圧に成功した事例だが、武装反乱として被反乱にも算入(基準改訂)。

反乱鎮圧23年成紀隗崔・隗嚣の反乱

首謀者: 隗崔(兄)・隗嚣(甥、大将軍に推戴)

結果: 鎮圧策を講じる間もなく新朝が崩壊(大尹李育を捕らえ、雍州牧陳慶・安定卒正王旬を殺害し勢力拡大)

confidence low。地皇四年秋、成紀で隗崔兄弟が大尹李育を捕らえ、甥の隗嚣を大将軍に推戴して挙兵、雍州牧陳慶・安定卒正王旬を殺してその衆を併合、郡県に檄文を送り王莽の罪を桀紂以上と数えた。長安陥落直前で新朝側が具体的な鎮圧行動を取る余地がなかった。

被反乱23年成紀隗崔・隗嚣の反乱

首謀者: 隗崔(兄)・隗嚣(甥、大将軍に推戴)

結果: 鎮圧策を講じる間もなく新朝が崩壊、勢力拡大のまま長安陥落に至った

confidence low。汉书原文「成纪隗崔兄弟共劫大尹李育、以兄子隗嚣为大将军、攻杀雍州牧陈庆、安定卒正王旬」を確認、新朝の統治機構下(天水郡)で発生し官吏を殺害した武装反乱。在位終了までに鎮圧が着手されなかった事例として基準改訂により被反乱に算入。

大赦23年3月地皇四年(更始元年3月に劉玄が皇帝を称したとの報に接した)頃、新たな皇后(史氏)冊立の後に「大赦天下」。

地皇四年(更始元年3月に劉玄が皇帝を称したとの報に接した)頃、新たな皇后(史氏)冊立の後に「大赦天下」。原文:「進所徵天下淑女杜陵史氏女為皇后...大赦天下」(漢書・王莽伝下)

立后23年3月先の皇后(王氏)が地皇二年正月に死去(「莽妻死,諡曰孝睦皇后」)した後、地皇四年、杜陵の史氏の娘を新たに皇后に立てる。

先の皇后(王氏)が地皇二年正月に死去(「莽妻死,諡曰孝睦皇后」)した後、地皇四年、杜陵の史氏の娘を新たに皇后に立てる。原文:「進所徵天下淑女杜陵史氏女為皇后」(漢書・王莽伝下)

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