桓帝の人物データ
- 生年
- 132年
- 在位
- 146年8月1日〜168年1月25日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 167年12月28日まで
- 没年
- 168年1月25日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 167年12月28日)36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
出典
- 在位
- 後漢書 巻七 孝桓帝紀
- 死因
- 後漢書 巻七 孝桓帝紀
- 即位経路
- 後漢書・
本紀第八章 孝桓帝紀
生涯
即位まで
父は蠡吾侯翼で、母の匽明は父の側室だった。父の死後に侯を継いだ。146年、梁太后の妹を娶るため夏門亭にいたところ、質帝が梁冀に毒殺された。宦官の曹騰らが梁冀に、蠡吾侯を立てれば富貴を長く保てると説いた。帝は南宮に迎えられたその日に即位した。
治世と最期
147年、清河の劉文が反して国相を殺し、劉蒜を天子に立てようとして誅され、劉蒜は自殺した。前太尉朝廷で最も位の高い大臣の一つの李固・杜喬も梁冀に陥れられて獄死した。150年、梁太后は政を返して没した。太后が没すると梁皇后への寵は衰えた。子の無い皇后は恨み妬み、身ごもった宮人宮中に仕え暮らした女性たちが無事に済むことはまれだったが、帝は梁冀を恐れて咎めず、召すことを減らした。
159年に梁皇后が没すると、帝は厠で宦官の唐衡に梁氏と不仲の者を問い、単超ら五人と謀って単超の腕を噛んで盟い、邸を囲ませて印綬官職や爵位を示す印とそれを下げるひもを取り上げ、梁冀夫妻は自殺した。一族は老若なく棄市人の集まる市場で死刑にしてさらすことされ、旧吏や賓客の免職は三百余人に及んだ。単超ら五人は同日に県侯に封じられて五侯と呼ばれた。
李雲が、帝は物事をつまびらかにしたくないのかと上書君主に意見を書いて差し出すことすると、帝は激怒して捕らえさせ、李雲は獄死した。爰延に自分はどんな君主かと問い、陳蕃に任せれば治まり宦官が関われば乱れる中主だと答えられると、面と向かって誤りを言ったと受け入れ、五官中郎将漢の末の、宮中を守る兵を率いた役職の一つに任じた。宮女を五六千人集め、165年には郭貴人と讒言しあった鄧皇后を廃した。166年の暮れ、李膺ら二百余人が党人同じ党派に属するとして罰せられた人々として投獄され、翌年の大赦で赦された。167年冬に病に臥すと、寵した田聖ら九人を貴人身分の高い人、また皇帝の妃の位の一つとし、同じ年の暮れに徳陽前殿で没した。
史料について
梁冀を除いたきっかけを、宦者伝は梁皇后の死の後のこととし、梁冀の伝は、梁冀が鄧貴人の母を殺そうとしたことへの帝の怒りとする。党人の赦しを、本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は党錮役人や学者を仲間(党)とみなし官職から締め出したことをことごとく除いたとし、党錮列伝と資治通鑑は、郷里に帰されたが終身禁錮とされたとする。
桓帝とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱31・皇后3・改元7・大赦14
- 改元147年元号を「建和」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。147年
- 皇后147年皇后を立てる
- 反乱147年清河劉文の乱(清河王劉蒜擁立未遂)
- 反乱147年陳留李堅の反乱(自称皇帝)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。148年
- 反乱148年白馬羌の広漢属国侵寇
- 改元150年元号を「和平」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。150年
- 反乱150年扶風裴優の乱(自称皇帝)
- 改元151年元号を「元嘉」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。151年
- 反乱151–153年武陵蛮の乱(第一次)
- 改元153年元号を「永興」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。153年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。154年
- 反乱154年蜀郡李伯の反乱(太初皇帝僭称)
- 反乱154–156年泰山・
琅邪賊公孫挙の乱 - 改元155年元号を「永寿」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。155年
- 反乱155年南匈奴の反乱(美稷侵寇)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。157年
- 反乱157–160年九真・
日南蛮夷の乱 - 反乱157–160年長沙蛮の乱(第一次)
- 改元158年元号を「延熹」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。158年
- 皇后159年皇后を立てる
- 反乱159年焼当等八種羌の反乱(隴右侵寇)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。160年
- 反乱160年焼何羌の反乱(張掖侵寇)
- 反乱160年泰山・
琅邪賊労丙の乱 - 反乱160年勒姐羌の允街包囲
- 反乱160年泰山賊叔孫無忌の乱
- 反乱160年武陵蛮の乱(第二次)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。161年
- 反乱161年犍為属国夷の反乱
- 反乱161年零吾・
先零羌等の反乱(三輔侵寇) - 反乱162年鳥吾羌の反乱(漢陽・
隴西・ 金城侵寇) - 反乱162–164年長沙・
零陵・ 桂陽・ 蒼梧・ 南海・ 交阯の大反乱 - 反乱162年武陵蛮の乱(第三次)
- 反乱162–163年滇那羌の反乱(武威・
張掖・ 酒泉侵寇) - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。163年
- 反乱163年武陵蛮の乱(第四次)
- 反乱164–165年当煎羌の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。165年
- 皇后165年皇后を立てる
- 反乱165年罕姐羌の反乱
- 反乱165年桂陽胡蘭・
朱蓋の反乱 - 反乱165年勃海妖賊蓋登の乱(太上皇帝僭称)
- 反乱166年沛国戴異の乱(太上皇僭称)
- 反乱166年南匈奴・
烏桓の反乱(縁辺九郡侵寇) - 改元167年元号を「永康」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。167年
- 反乱167年先零羌の反乱(三輔侵寇)
- 反乱167年当煎羌の反乱(武威侵寇、第二次)
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