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後梁・南北朝第2代

明帝蕭巋

在位 562–585年(23年98日)562年3月 〜 585年6月

日本は古墳時代

蕭巋は後梁の宣帝蕭詧の第三子で、北周に、のち隋に従う江陵の小国を継ぎ、娘を隋の晋王に嫁がせた皇帝である。

明帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 562年3月〜585年6月
23年98日長い順46位/365人即位の年齢は不詳
没年
585年6月44歳(数え年)長生き順同率110位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 宣帝後梁・南北朝明帝は宣帝の子
次代
  • 後主後梁・南北朝後主は明帝の子
呼び名
姓蕭諱巋字仁遠廟号世宗諡号孝明皇帝呼び名の見方

出典

在位
周書 巻四十八 列傳第四十 蕭詧(巋附)
死因
隋書 巻79 列傳第44 外戚(蕭巋)/周書 巻48 列傳第40
即位経路
周書 巻48 列傳第40 蕭詧(巋附)

生涯

どんな皇帝か

周書は、孝悌慈仁で祖先の祭祀のたびに涙を流し、下の者の扱いがうまく国内がよく治まったと評し、は継世の令主と呼ぶ。

即位まで

後梁の宣帝蕭詧の第三子で、弁が立って文学があり、下の者をうまく扱った。562年に父が没すると、北周の武帝の命で位を嗣いだ。

治世と最期

564年に宰相の蔡大宝が没すると、激しく泣いて3度弔問した。のち陳の華皎が来附すると、蕭巋の軍は北周軍とともに陳と戦って敗れ、長沙と巴陵は陳の手に落ちた。北周の衛公宇文直が敗戦の罪を蕭巋の殷亮に帰すと、蕭巋は殷亮だけの責任ではないと知りながら、命に背けず誅した。568年、呉明徹に江陵を水攻めにされると紀南へ避けたが、配下の騎兵が呉明徹を破り、江陵へ戻った。575年にの王操が没すると、天はなぜ吾が賢相をこうも早く奪うのかと涙を流した。

577年、北斉を平定した北周の武帝に鄴で朝した。重んじられないと知ると、父が救われた恩と両国が唇歯の間柄であることを述べて涙を流し、以後厚遇された。宴では北斉の旧臣を桀を助けず尭に吠えた者と評して武帝を大笑いさせ、琵琶を弾く武帝に舞を請うた。580年、尉遅迥らが楊堅に挙兵し、将帥がひそかに呼応を求めたが、蕭巋は退けた。のちに柳荘に、衆人の言に従っていればは守れなかったと語った。582年、娘が隋の晋王の妃となった。この娘は叔父や母方のおじに育てられていたが、他の娘の占いがみな不吉で、蕭巋が迎えた。江陵総管が廃され、蕭巋は国を自ら治めた。

584年に長安へ来朝し、帰るとき隋の文帝は手を取り、長江に軍を進めて故都へ送り返そうと言った。585年、病に臥して臨終に文帝へ表を上り、没した。

史料について

580年の態度を、周書は固く不可としたとし、隋書の柳荘伝は迷う蕭巋を柳荘が説いて納得させたとする。江陵総管を廃したわけを、隋書は献皇后の進言とし、周書は婚姻に続けて書く。北史の隋は廃止を585年とし、のち旧に復したとする。病と臨終の表は隋書にあり、周書の伝にはない。

明帝とつながる皇帝

南北朝の勢力図(562年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

562–585年の地図に、明帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

改元1
  1. 改元562年4月元号を「天保」とする

後梁・南北朝の歴代皇帝

歴代3人の一覧

年表

南北朝の時代を年表で見る

後梁・南北朝が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「世襲」の120名をデータベースで見る

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