宣帝
後梁・南北朝|在位 555–562年
- 諱(本名)
- 蕭詧
- 廟号
- 中宗
- 在位
- 555–562年
- 在位期間
- 7年33日365名中158位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 44歳(数え年)269名中・長寿順111位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:宣帝
即位の経緯
梁の元帝(蕭繹)と対立し西魏に称藩を申し出、西魏の軍事支援を受けて自立、江陵平定後「太祖立詧為梁主…詧乃稱皇帝於其國」と自国(西梁)で皇帝を称した。西魏による「梁王」冊命という擁立的側面も併存する境界事例だが、新規政権樹立という結果面を重視し王朝創始者として建国に分類。
出典: 周書 巻48 列傳第40 蕭詧補記: zh.wikisource.org 周書/卷48
死因の経緯
『周書』卷48:西魏に降った後、江陵陥落で城内の民が虜囚となったことを悔い「詧乃追悔曰『恨不用尹德毅之言,以至于是。』…常懐憂憤」、「遂以憂憤發背而殂」(憂憤のあまり背中に癰疽を発症して死去)と明記。
出典: 周書 巻48 列傳第40 蕭詧補記: zh.wikisource.org 周書/卷48
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元(大定)の1回のみ。在位中の再改元の記述はなし。
大赦回数
『周書』卷48蕭詧傳を通読したが、「大赦」「大赦天下」等の全国規模の恩赦に該当する記述は見当たらない(在位555〜562年)。
立后回数
即位に伴う立后1回のみ確認。それ以外の立后・廃后記述は列伝中に見当たらない。
皇太子廃立回数
即位時に「子岿為皇太子」と立太子した記述はあるが、廃立の記述はない。岿はそのまま蕭詧崩御後に嗣位している。
親征回数
在位期間(555年即位〜562年2月薨、周書卷48蕭詧伝・北史巻93「僭偽附庸伝」で確認)に皇帝本人が親征したと明記する記述は見当たらない。江陵滅亡後、梁元帝の旧将王琳が湘州から遣わした潘純陀・侯方児が来寇した際「詧(察)御之、純陀等退帰夏口」とあるが、「帝自将」「親征」等の明示的な皇帝親率の表現がなく、一般的な国家としての防戦を指す可能性が高いため親征とは判定しなかった。詧の4年(558年頃)に王琳の長沙・武陵・南平等を攻略した際も「詧遣其大将軍王操略取」と明記され、将軍派遣であり皇帝本人の出陣ではない。即位前(太清2年〜大統15年頃、549-549年頃)に張纉・杜岸の乱に際し自ら襄陽から江陵へ2万の兵を率いて出征した記述(「察時以誉危急、乃留諮議参軍蔡大宝守襄陽、率衆二萬、騎千匹伐江陵以救之」)があり、これは彼自身の出陣と読めるが、即位(皇帝となったのは555年)より前の雍州刺史・岳陽王時代の出来事であるため、対象期間外として計上していない。
反乱鎮圧回数
在位期間(555-562年)中に自身の政権に服属していた臣下・将軍・宗室等による離反・蜂起の記述は周書・北史とも見当たらない。江陵陥落後、梁元帝の旧将王琳(湘州を拠点に梁室再興を志向)が潘純陀・侯方児、雷文柔らを派遣して後梁領を侵犯した事件(詧の即位直後〜5年目頃)があるが、王琳は後梁(蕭詧政権)に服属していた臣下ではなく、あくまで独立した対立勢力(滅亡した梁元帝系統の残存軍閥、のち陳・北斉との間で去就する)であるため、対等勢力間の抗争として反乱鎮圧には含めなかった。即位前(雍州刺史時代)の張纉・杜岸の離反・敗死事件は在位期間外のため対象外とした。
被反乱回数
在位期間中、自身の政権内部からの反乱・クーデター・弑逆の類の記述は見当たらない(周書は「察在位八載、年四十四、保定二年二月、薨」とのみ記し、憂憤により発病して自然死したとする)。上述の王琳勢力(潘純陀・侯方児、雷文柔らの侵攻)は対等な独立勢力(旧梁元帝系の残存軍閥)による侵攻であり、後梁に服属していた者の蜂起ではないため被反乱には含めなかった。即位前の張纉・杜岸の乱(部下杜岸兄弟の離反により襄陽を一時追われた事件)は史料上重大だが、これは雍州刺史・岳陽王時代(大統年間、549年頃)の出来事であり、皇帝在位期間(555-562年)より前のため対象外とした。
遷都回数
在位中に遷都1回(0555年 江陵→建康)。
即位時年齢・没年齢
在位8年・没年齢44歳は周書に「察在位八載,年四十四,保定二年二月,薨」と直接記載。生年・即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元555年1月魏恭帝元年、江陵平定後に西魏より梁主に立てられ、「詧乃稱皇帝於其國,年號大定」と即位に伴い建元(年号「大定」)。
魏恭帝元年、江陵平定後に西魏より梁主に立てられ、「詧乃稱皇帝於其國,年號大定」と即位に伴い建元(年号「大定」)。原文は月日までは特定できず、既存データ(emperors.json内の当該人物startDate 0555-01-01・datePrecision:month)と整合させ月精度とした。在位中の改元はこの1回のみで、以後崩御(562年2月)まで「大定」が用いられ続けた。
出典: 周書 巻48 列傳第40 蕭詧
立后555年1月魏恭帝元年、江陵平定後、太祖(西魏)が詧を梁主に立て「詧乃稱皇帝於其國,年號大定」と即位。
魏恭帝元年、江陵平定後、太祖(西魏)が詧を梁主に立て「詧乃稱皇帝於其國,年號大定」と即位。同時に「追尊其父統為昭明皇帝…立妻王氏為皇后,子岿為皇太子」と正妻の王氏を皇后に冊立。廃后・再冊立の記述はなし。
出典: 周書 巻48 列傳第40 蕭詧
遷都555年2月江陵 → 建康
承聖三年十一月(554年)、西魏軍により江陵が陥落し元帝が殺害された後、太尉王僧辯・司空陳霸先は晋安王蕭方智(後の敬帝)を推戴し、承聖四年二月癸丑(555年)、尋陽より京師(建康)に入り朝堂に居した。梁書卷六敬帝紀「三年十一月,江陵陷…奉迎還京師。四年二月癸丑,至自尋陽,入居朝堂」。これにより梁朝の統治拠点が江陵から建康へ戻り、以後陳朝を通じて建康が首都であり続けた。(出典: 梁書 卷六 敬帝紀)