梁・
敬帝蕭方智
在位 555–557年(2年18日)555年10月29日 〜 557年11月16日
日本は古墳時代
蕭方智は梁の皇帝で、555年に陳霸先に立てられ、557年に陳に位を譲り、翌年に死んだ。
敬帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 555年10月29日〜557年11月16日
- 没年
- 558年5月5日16歳(数え年)長生き順同率250位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 蕭淵明梁・
南北朝 敬帝は蕭淵明の同族(遠縁)
- 蕭淵明梁・
- 次代
- 武帝陳武帝と敬帝に血縁はない
- 呼び名
- 姓蕭諱方智字慧相幼名法真呼び名の見方
出典
- 在位
- 梁書 本紀第六 敬帝紀(即位記事)/陳書 本紀第一 高祖紀上(禅譲完了日の確認)
- 死因
- 資治通鑑 卷167 陳紀一;陳書 卷二 高祖本紀下
- 即位経路
- 梁書/卷06 本紀第六 敬帝;南史/卷08 梁本紀下
生涯
どんな皇帝か
魏徴の論は政治が自分によらず、南史の論は幼くして衰運に当たった以上、譲位は避けられなかったとし、梁書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は天命が去っていたとして、重荷を下ろすようなものと評する。
即位まで
治世と最期
同じ年、任約らが石頭を占拠し、北斉軍もこれに加わったが、年の暮れに侯安都の水軍に破られて任約らは江西へ逃れた。556年にはさらに攻めてきた北斉軍を陳霸先が大破した。557年、陳霸先が陳王に進められると、敬帝は詔して別宮に退き、陳に位を譲った。詔は陳王の功を舜・禹になぞらえる。敬帝を別宮へ移す兵を率いよと命じられた沈恪は、蕭家に仕えた身で見るに忍びないと拒み、陳霸先は嘉して強いず、別の者に代えた。
敬帝は江陰王とされ、558年に陳の武帝の差し向けた者に殺された。
史料について
死を、梁書と陳書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分はただ薨じたと書き、南史の陳本紀は陳の意向による死とし、資治通鑑は陳の武帝が殺させたとする。北斉書は、陳霸先が即位した日に殺したとする。南史の劉師知伝は、欺かれて外へ出されかけた敬帝が寝台の周りを逃げ回り、天子になる必要はなかったのにどうして殺されるのかと言って刃にかかったと書く。この場面は陳書や資治通鑑には無く、伝は陳の武帝の受命より前の記事として置く。
敬帝とつながる皇帝

勢力図
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555–557年の地図に、敬帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱6・皇后1・改元2・大赦4
- 改元555年11月元号を「紹泰」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。555年11月
- 皇后555年11月皇后を立てる
- 反乱555年11月〜556年2月杜龕・韋載の乱
- 反乱555年11月〜556年2月任約・
徐嗣徽の乱(北齊の支援を受ける) - 改元556年元号を「太平」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。556年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。556年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。556年
- 反乱556年陳嗣・
曹朗の乱(姑孰) - 反乱556年張彪の乱
- 反乱557年3月〜557年6月蕭勃の乱
- 反乱557年9月王琳の抗命(湘州)
梁・南北朝の歴代皇帝
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