敬帝・孝敬帝
梁・南北朝|在位 555–557年
- 諱(本名)
- 蕭方智
- 在位
- 555–557年
- 在位期間
- 2年16日365名中260位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 16歳(数え年)269名中・長寿順253位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 4回267名中93位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 6回225名中68位タイ
- 被反乱
- 6回289名中82位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:敬帝
即位の経緯
西魏の江陵攻略で元帝死去後、王僧辯・陳霸先が蕭方智を擁立、いったん蕭明(貞陽侯淵明)が即位するも「陳霸先襲殺王僧辯,黜蕭明而奉帝焉」で蕭明を廃し蕭方智を擁立。軍閥(陳霸先)の実力行使による傀儡的即位。
出典: 梁書/卷06 本紀第六 敬帝;南史/卷08 梁本紀下補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
『資治通鑑』卷167に「上使人害梁敬帝」と明記(陳霸先が刺客を送って殺害)。禅譲後既に江陰王に降格されていた人物を密かに殺害したため暗殺に分類。『陳書』は「乙丑,江陰王殂」と婉曲表現。
出典: 資治通鑑 卷167 陳紀一;陳書 卷二 高祖本紀下補記: 資治通鑑原文を第一根拠
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位(承聖四年九月丙午)の翌月に承聖から紹泰への改元(第1回)、その約1年後に紹泰から太平への改元(第2回)を確認。太平への改元詔は九月壬寅に出されているが、その年の正月以降の記事は史書の紀年慣行により遡って「太平元年」と表記されている。
大赦回数
『梁書』本紀第六・敬帝紀より「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦を4件抽出。「曲赦」(吳興郡・東揚州・江廣衡三州など地域限定)は3件確認したが対象外とした。
立后回数
『梁書』本紀第六・敬帝紀より、立后の記述は1件のみ確認。廃后・再冊立の記述はない。
皇太子廃立回数
本紀中に敬帝自身が皇太子を廃した記述はない。なお即位前の承聖四年七月甲辰、蕭淵明(貞陽侯)政権下で方智自身が「以帝爲皇太子」と皇太子に立てられた記事があるが、これは廃立ではなく立太子であり、かつ前政権(蕭淵明)下の出来事のため対象外とした。
親征回数
梁書卷六敬帝紀・陳書卷一/卷二・南史卷八いずれにも「帝自将」「帝親征」等、敬帝本人が軍を率いて出陣した記述は一切ない。敬帝は555年即位時に推定13歳前後、557年禅譲・558年江陰王として殺害時に16歳(時年十六)という若年の傀儡皇帝であり、在位期間中の全軍事行動(対杜龛・対徐嗣徽任約・対北齊萧轨軍・対萧勃等)はすべて司空/丞相陳霸先および周文育・侯安都ら諸将が実行した。該当記事なしのため0件と判定。
反乱鎮圧回数
梁書卷六敬帝紀・陳書卷一/卷二高祖本紀・南史卷八梁本紀下を突き合わせて調査。核となる4件(杜龛・韋載、任約・徐嗣徽、張彪、蕭勃)は三書すべてに一致する記述があり高確信度。陳嗣・曹朗の乱と王琳の抗命の2件は陳書のみに記載があり、確信度を中〜低として個別に注記した。北齊・北周・南朝間の対等な国家間戦争(例:太平元年の北齊萧轨軍の侵攻)は反乱に該当しないため対象外とした。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の6件を対称的に計上した(南北朝特有の対称基準に従い、鎮圧の主体・対象が同一の反乱群であるため)。理由の食い違いは生じていない(4事由のいずれにも該当する乖離なし)。
遷都回数
梁書本紀・南史を通読。建康定都(建国時の定都)から侯景の乱期を含め遷都の記録なし(承聖元年の江陵遷都は元帝の代の出来事として計上済み)。
即位時年齢・没年齢
没年齢16歳は本紀末尾に「時年十六」と直接記載(陳への禅譲後、江陰王として薨去)。生年月日・崩御日・即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(19件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元555年10月紹泰元年冬十月己巳、詔「可改承聖四年爲紹泰元年,大赦天下」。
紹泰元年冬十月己巳、詔「可改承聖四年爲紹泰元年,大赦天下」。承聖四年九月丙午の即位に伴う最初の建元。
出典: 梁書本紀第六 敬帝
大赦555年10月紹泰元年冬十月己巳、承聖四年を紹泰元年と改める詔の中で「大赦天下,內外文武賜位一等」。
紹泰元年冬十月己巳、承聖四年を紹泰元年と改める詔の中で「大赦天下,內外文武賜位一等」。改元と同時の大赦。
出典: 梁書本紀第六 敬帝
立后555年10月紹泰元年冬十月戊午、「尊所生夏貴妃爲皇太后。
紹泰元年冬十月戊午、「尊所生夏貴妃爲皇太后。立妃王氏爲皇后」。
出典: 梁書本紀第六 敬帝
反乱鎮圧555年10月〜556年1月杜龛・韋載の乱
首謀者: 杜龛(震州刺史)、韋載(義興太守、当初呼応)
結果: 鎮圧成功。韋載は挙兵直後に降伏し陳霸先に赦免されたが、杜龛は義興・呉興一帯で抵抗を続け、太平(紹泰二年)正月癸未に降伏、詔により賜死。
梁書卷六敬帝紀「震州刺史杜龛挙兵,攻信武将軍陳蒨於長城,義興太守韋載拠郡以応之」、陳書卷一高祖本紀上、南史卷八梁本紀下すべてに一致した記述あり。敬帝即位(555-11-01)直後の紹泰元年十月に発生し在位期間内の出来事。
反乱鎮圧555年10月〜556年2月任約・徐嗣徽の乱(北齊の支援を受ける)
首謀者: 任約(南豫州刺史)、徐嗣徽(譙秦二州刺史)
結果: 京師近郊の石頭城を占拠し北齊の援軍(安州刺史翟子崇ら)を引き入れたが、555年12月に侯安都の水軍に大敗し北齊援軍は投降。556年2月、残った任約・徐嗣徽は採石戍を襲撃後、梁領を離れ北齊へ亡命し反乱は終息(生擒には至らず)。
両名とも梁朝現職刺史であり、対等勢力たる北齊の兵力を招き入れた点で複雑だが、首謀・挙兵の主体は梁の官職保持者であるため服属官による反乱として計上(南北間の対等な国家間戦争とは区別)。梁書・陳書卷一・南史卷八すべてに一致した記述あり。
被反乱555年10月〜556年1月杜龛・韋載の乱
首謀者: 杜龛(震州刺史)、韋載(義興太守)
結果: 敬帝即位直後の紹泰元年十月に発生した挙兵。義興を拠点とする反乱で、韋載は早期投降・赦免、杜龛は太平(紹泰二年)正月に降伏後賜死となり鎮圧された。
rebellionSuppressionCountと同一事案。梁書・陳書・南史一致。
被反乱555年10月〜556年2月任約・徐嗣徽の乱(北齊の支援を受ける)
首謀者: 任約(南豫州刺史)、徐嗣徽(譙秦二州刺史)
結果: 京師近郊の石頭を占拠され朝廷は一時脅かされたが、侯安都の反撃で555年12月に大敗させ、556年2月に両名は北齊へ逃亡し梁領内の脅威は解消。
rebellionSuppressionCountと同一事案。北齊の援軍を伴う点で対外戦争の要素もあるが、首謀者自体は梁の現職官である服属官の反乱として計上。
反乱鎮圧555年12月陳嗣・曹朗の乱(姑孰)
首謀者: 陳嗣(江寧令)、曹朗(黄門侍郎)
結果: 侯安都・徐度により迅速に鎮圧され、斬首数千級。
陳書卷一高祖本紀上のみに記載(「江寧令陳嗣、黄門侍郎曹朗拠姑孰反,高祖命侯安都、徐度等討平之」)。梁書敬帝紀・南史梁本紀下には見えない。同時期・同地域(採石近傍)で進行していた任約・徐嗣徽の乱と関連した動きの可能性もあるが、原文は別個の首謀者として記載しているため独立事案として計上。史料が陳書一書のみのため確信度中。
被反乱555年12月陳嗣・曹朗の乱(姑孰)
首謀者: 陳嗣(江寧令)、曹朗(黄門侍郎)
結果: 姑孰を占拠して反乱したが、侯安都・徐度により即座に鎮圧された。
陳書卷一のみに記載。確信度中。
大赦556年1月太平元年春正月戊寅、「大赦天下,其與任約、徐嗣徽協契同謀,一無所問」。
出典: 梁書本紀第六 敬帝
反乱鎮圧556年1月〜556年2月張彪の乱
首謀者: 張彪(東揚州刺史。かつては忠実な将として征東大将軍にまで進号されていた)
結果: 臨海太守王懐振を剡岩で攻囲したことから朝廷が周文育・陳蒨(後の陳文帝)を派遣して討伐、張彪は会稽で敗走し、若耶村人に斬殺され首級が京師に送られた。
梁書卷六・陳書卷一・南史卷八すべてに一致した記述あり。杜龛の乱鎮圧直後、太平元年正月末〜二月にかけて発生。
被反乱556年1月〜556年2月張彪の乱
首謀者: 張彪(東揚州刺史)
結果: 元は朝廷側の有力武将であったが離反し臨海太守を攻撃、討伐を受け敗死。
rebellionSuppressionCountと同一事案。梁書・陳書・南史一致。
大赦556年6月六月戊午、陳霸先が齊軍を大破した直後、「大赦天下,軍士身殞戰場,悉遣斂祭,其無家屬,即爲瘞埋」。
出典: 梁書本紀第六 敬帝
改元556年9月九月壬寅、「改元大赦」により紹泰から太平へ改元。
出典: 梁書本紀第六 敬帝
大赦556年9月九月壬寅、「改元大赦,孝悌力田賜爵一級」。
九月壬寅、「改元大赦,孝悌力田賜爵一級」。紹泰から太平への改元と同時の大赦(この記事のある年は史書の紀年慣行により遡って「太平元年」と表記されている)。
出典: 梁書本紀第六 敬帝
反乱鎮圧557年2月〜557年5月蕭勃の乱
首謀者: 蕭勃(太保・広州刺史、梁宗室)ほか欧陽頠・傅泰・蕭孜(勃の子)・余孝頃・李宝蔵・蕭任(怀安侯)
結果: 太平二年三月甲寅、蕭勃は部下(陳法武・譚世遠)に攻め殺されたが、その後も蕭勃残党(李宝蔵・蕭任ら)が広州で作乱を継続、最終的に五月までに余孝頃が丞相府へ降伏し反乱は完全に終息。
梁書・陳書卷一・南史卷八すべてに一致した記述あり。梁宗室・高官による大規模な服属官反乱。
被反乱557年2月〜557年5月蕭勃の乱
首謀者: 蕭勃(太保・広州刺史、梁宗室)ほか欧陽頠・傅泰・蕭孜・余孝頃・李宝蔵・蕭任
結果: 梁宗室の重臣による大規模な反乱。広州から南康・豫章方面へ進出したが討伐を受け、蕭勃自身は部下に殺害され、残党も5月までに投降・鎮圧された。
rebellionSuppressionCountと同一事案。梁書・陳書・南史一致。
反乱鎮圧557年8月王琳の抗命(湘州)
首謀者: 王琳(湘州・郢州刺史、梁の重臣)
結果: 朝廷(陳霸先)は太平二年八月丙申頃、周文育・侯安都に討伐を命じたが、敬帝在位中(〜0557-11-16)には軍事的決着がつかず、実際の武力衝突(沌口の戦いで周文育・侯安都が王琳に捕らえられる)は禅譲後の陳・永定元年十一月に発生。以後、王琳の反乱は陳朝天嘉元年(561年)まで長期化した。
陳書卷一高祖本紀上のみに記載(「是時,湘州刺史王琳拥兵不応命,高祖遣周文育、侯安都率衆討之」)。梁書敬帝紀・南史梁本紀下には見えない。討伐命令自体は敬帝在位中に発せられたため、規則の「未鎮圧のまま在位終了」に該当すると判断し計上したが、敬帝在位中に実際の武力行使(挙兵)が発生していたか判然としない点で確信度は低〜中。
被反乱557年8月王琳の抗命(湘州)
首謀者: 王琳(湘州・郢州刺史)
結果: 太平二年八月頃に王琳が朝命への服従を拒否(「拥兵不応命」)、討伐軍が派遣されたが敬帝在位終了(0557-11-16禅譲)までに軍事的決着はつかず、実際の武力衝突は陳霸先即位後(永定元年11月の沌口の戦い)に持ち越された。その後陳朝天嘉元年(561年)まで長期化。
陳書卷一のみに記載(梁書・南史には見えない)。未鎮圧のまま在位終了したケースとして計上。ただし敬帝在位中に実際の武力衝突が生じていたかは不明瞭であり確信度は低〜中。