武昭帝
後秦(五胡十六国)|在位 386–394年

- 諱(本名)
- 姚萇
- 廟号
- 太祖
- 在位
- 386–394年
- 在位期間
- 7年263日365名中148位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 64歳(数え年)269名中・長寿順26位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 4回112名中18位タイ
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 5回289名中97位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:武昭帝
即位の経緯
苻堅の敗死後、西州豪族らに盟主に推挙され(「咸推萇為盟主」)、太元9年(384年)に万年秦王を自称、太元11年(386年)長安で正式に皇帝を称し「大秦」(後秦)を建国(「僭即皇帝位於長安…國號大秦」)。
出典: 晉書/卷116 姚萇載記補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
苻堅の亡霊に脅かされる夢を見て以降「陰腫」(腫瘍)を発症し、治療を受けるも病状悪化、譫言を発するようになった末、太元18年(393年)64歳で死去。暗殺・処刑等の外的加害記述はない。
出典: 晉書/卷116 姚萇載記補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
固有注意事項に従い、秦王自立(白雀建元)と皇帝号改称(建初改元)の2回をeraChangeCountに算入。載記中に他の改元記事は見られない(建初は姚萇の死まで継続、以後の改元は後継者の姚興による)。
大赦回数
「大赦」と明記された記事は2件(384年の万年秦王自立時、386年の皇帝即位時)。同載記中盤の「除妖謗之言及赦前姦穢」(赦前の意)は新規の全国規模大赦の明記ではないため不採用。
立后回数
立后は1回のみ確認。廃后・再冊立の記載なし。
皇太子廃立回数
386年皇帝即位時に子の姚興を皇太子に立てた記事(立太子)はあるが、廃立の記載は載記中に見られない。姚興はそのまま姚萇の死後に後継した。
親征回数
在位期間全体(太元九年〔384年〕の万年秦王自立から太元十八年〔393年〕崩御まで)を対象に集計。対苻登戦は数年にわたる断続的抗争のため『同一目的の継続』として1件にまとめており、この点は解釈の幅がある。
反乱鎮圧回数
対苻登・苻堅本宗との抗争(対等な独立政権同士の統一戦争)は反乱に含めず、一旦服属した者の離反・服属民の蜂起のみを反乱として計上した。徐嵩・胡空の件は『資治通鑑』のみに記載があり日付の比定に幅がある。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountの4件全てに加え、崩御までに後秦側の鎮圧記事が確認できなかった関中巴蜀人の離反(392年)を未鎮圧のまま在位終了のケースとして追加計上した。
遷都回数
晋書載記を通読。姚萇の長安(常安)定都(建国時の定都)から417年の劉裕による滅亡まで長安が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
「以太元十八年死,時年六十四,在位八年。」享年64(数え)と明記。即位時年齢の記載はなし。太元十八年は西暦393年(晋書本文の表記に従う。データセット既存値の394年とは1年のずれがあるが、原文の年号表記をそのまま採用)。
在位中の出来事(18件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元384年【皇帝即位前】太元九年、苻堅敗死後に西州豪族らに推され、大将軍・大単于・万年秦王を自称し「称制行事」、年号を白雀と建元(最初の建元)。
出典: 晉書 巻116 姚萇載記
大赦384年太元九年、大将軍・大単于・万年秦王を自称した際に「大赦境内」(境内に大赦す)と明記。
太元九年、大将軍・大単于・万年秦王を自称した際に「大赦境内」(境内に大赦す)と明記。年号を白雀と建元。
出典: 晉書 巻116 姚萇載記
親征384年〜385年苻堅(前秦)
対象: 苻堅(前秦)
結果: 宋方の軍を貳県で撃破、新平を包囲・攻略(抵抗した守将苟輔らを降伏後に生き埋め)、安定を攻略。最終的に部将呉忠に命じて五将山に逃れた苻堅を捕らえさせ、太元十年八月(385年)に弑殺した。
太元九年(384年)四月頃、万年秦王・大単于を自称した直後からの一連の対苻堅(前秦本宗)戦役。同年、苻堅自身も反撃のため趙氏坞に親征し姚萇軍を追い詰めたが、大雨に助けられ姚萇側が持ちこたえた(『資治通鑑』太元九年条)。討伐の一部(新平攻略・苻堅捕縛)は部将に委ねられたが、萇自身も貳県での宋方撃破・七万の兵を率いた楊璧撃破など要所で親征しているため一連の親征として1件に計上した。
改元386年【皇帝即位(改元同時)】太元十一年、長安で正式に皇帝位に即き(僭即皇帝位)、国号を大秦(後秦)とし、「改元曰建初」と明記。
【皇帝即位(改元同時)】太元十一年、長安で正式に皇帝位に即き(僭即皇帝位)、国号を大秦(後秦)とし、「改元曰建初」と明記。秦王自立から皇帝号への改称に伴う改元。
出典: 晉書 巻116 姚萇載記
大赦386年太元十一年、長安で皇帝に即位した際に「大赦」と明記。
太元十一年、長安で皇帝に即位した際に「大赦」と明記。年号を建初に改元。
出典: 晉書 巻116 姚萇載記
立后386年太元十一年、皇帝即位に伴い妻の虵氏(蛇氏)を皇后に立てたと明記(「立妻虵氏為皇后」)。
出典: 晉書 巻116 姚萇載記
親征386年〜393年苻登(前秦後継政権)
対象: 苻登(前秦後継政権)
結果: 太元十一年(386年)の苻登即位直後から崩御直前(太元十八年十月)まで一進一退の攻防を継続。載記に「登と相持すること積年、しばしば登に敗れる」とあるほど苦戦した局面もあり(胡奴阜の戦いで矢を受け重傷)、大界の奇襲・安定城東の大勝等で優位に立つ場面もあった。最終的な苻登討滅は果たせぬまま崩御し、後継の姚興に持ち越された。
苻登本人および一時服属・離反を繰り返した前秦系勢力(秦州刺史王統・平涼の匈奴金熙・鮮卑没奕于等)との継続的抗争をまとめて1件として計上。対等な独立政権同士の統一戦争にあたるため反乱鎮圧・被反乱には含めない。
反乱鎮圧386年〜387年徐嵩・胡空の離反(苻登への帰順)
首謀者: 徐嵩・胡空
結果: 鎮圧成功(徐嵩を捕縛・処刑、その部曲を生き埋め)
長安争奪戦の混乱期(太元十年〔385年〕頃)に私兵5000ずつを擁して自衛していた徐嵩・胡空は、いったん後秦の官爵を受けて服属したが、苻登が接近すると寝返って降伏し、登から雍州刺史・京兆尹に任じられた。後に部将姚方成が徐嵩の砦を攻略し、徐嵩を捕らえて処刑、その兵を生き埋めにした(『資治通鑑』太元十一〜十二年条。『晋書』載記には未記載)。萇本人は出陣せず部将による鎮圧のため親征には含めない。
被反乱386年〜387年徐嵩・胡空の離反(苻登への帰順)
首謀者: 徐嵩・胡空
結果: 後秦から離反し苻登に帰順したが、最終的に部将姚方成に捕縛・処刑された
rebellionSuppressionCountと同一事象。いったん後秦の官爵を受けて服属した後、苻登の接近を機に寝返った服属民の反乱として計上。
親征386年4月盧水胡郝奴・扶風王驎(関中割拠勢力)
対象: 盧水胡郝奴・扶風王驎(関中割拠勢力)
結果: 馬嵬に拠った扶風王驎を撃破(驎は漢中へ敗走)、郝奴の弟・多を捕らえて長安に迫ると、郝奴は畏れて降伏した。これにより長安を確保し、同年(太元十一年)長安で皇帝に即位する基盤を得た。
苻堅死後、長安を占拠していた慕容沖が東方へ去った隙に自立した割拠勢力に対する親征(『晋書』姚萇載記・『資治通鑑』太元十一年四月条)。
親征390年4月魏掲飛・雷悪地
対象: 魏掲飛・雷悪地
結果: 自ら精兵約1600を率いて出陣し、部将王超・譚亮らに命じて魏掲飛の軍を撃破・斬首(首級一万余)、雷悪地は再度降伏した。
反乱鎮圧回数の同名事案(雷悪地の反乱)と同一事象。萇本人が現地(杏城方面)に赴いたため親征としても計上した。
反乱鎮圧390年4月魏掲飛・雷悪地の反乱
首謀者: 魏掲飛・雷悪地
結果: 鎮圧成功(掲飛斬首、悪地は再度降伏)
雷悪地は太元十四年(389年)十二月に一旦後秦に降り鎮軍将軍に任じられていたが、太元十五年(390年)四月、なお前秦(苻登)の鎮東将軍だった魏掲飛の挙兵に呼応して離反し、後秦の安北将軍姚当城(杏城)・鎮東将軍姚汉得(李潤)を攻撃した。萇自ら精兵を率いて赴き鎮圧した。
被反乱390年4月魏掲飛・雷悪地の反乱
首謀者: 魏掲飛・雷悪地
結果: 後秦の安北将軍・鎮東将軍の拠点を攻撃したが、萇の親征により鎮圧された
rebellionSuppressionCountと同一事象。雷悪地は一旦後秦に服属した将であり服属民の反乱として計上。
反乱鎮圧390年7月〜390年12月郭質の反乱(馮翊・三輔の蜂起)
首謀者: 郭質
結果: 鎮圧成功(郭質は敗れて洛陽へ逃亡)
太元十五年(390年)七月、馮翊の郭質が挙兵し「姚萇凶虐」を掲げて三輔に檄を飛ばし、三輔の砦の多くが呼応した(郑県の苟曜のみ従わず後秦側に付いた)。同年十二月、苟曜が郑県東で郭質を撃破し、質は洛陽へ敗走した。萇本人は出陣せず部将(苟曜)による鎮圧のため親征には含めない。
被反乱390年7月〜390年12月郭質の反乱(馮翊・三輔の蜂起)
首謀者: 郭質
結果: 馮翊・三輔の広範な地域が呼応する大規模な反乱となったが、苟曜により鎮圧された
rebellionSuppressionCountと同一事象。後秦統治下の馮翊・三輔住民による蜂起として計上。
反乱鎮圧391年苟曜の反乱(苻登への内応)
首謀者: 苟曜
結果: 鎮圧成功(当初は敗れるも立て直して大破し、後に長安で誘殺)
郭質の乱鎮圧の功で予州刺史に任じられた苟曜が、太元十六年(391年)に密かに苻登に内応。五月、馬頭原の戦いで萇自ら迎撃したが当初は苻登に敗れ右将軍呉忠を失った。萇は軍を立て直して反撃し苻登を大破、登は郿へ退いた。その後萇は長安の太子姚興に『苟曜が来たら捕らえて誅殺せよ』と命じ、苟曜は長安で誅殺された。
被反乱391年苟曜の反乱(苻登への内応)
首謀者: 苟曜
結果: 萇自身が緒戦で敗れ将軍呉忠を失う被害を受けたが、立て直して鎮圧・誅殺した
rebellionSuppressionCountと同一事象。萇自ら任じた予州刺史の内部者による裏切りとして計上。
被反乱392年関中巴蜀人の離反
首謀者: 巴蜀人(関中在住)
結果: 未鎮圧のまま姚萇は崩御(弘農は後秦の統制から外れたまま推移)
太元十七年(392年)、関中に居住していた巴蜀出身の民が後秦に叛き、弘農に拠って苻登側に帰順した(『資治通鑑』太元十七年条)。その後は東晋軍(郗恢配下)が苻登配下の竇沖を弘農周辺で攻撃した記録があるのみで、後秦(姚萇)側による鎮圧記事は太元十八年の崩御までに見当たらないため、未鎮圧のまま在位終了のケースとしてrebellionSufferedCountのみに計上した(rebellionSuppressionCountには含めない)。