中国皇帝統計

慕容超

南燕(五胡十六国)|在位 405–410年

諱(本名)
慕容超
在位
405–410年
在位期間
5年32日365名中189位
即位経路
世襲
死因
処刑
即位時年齢
不詳
没年齢
26歳(数え年)269名中・長寿順207位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

叔父慕容徳に実子がなく、兄の子である超を後継者として養育し正式に皇太子に立てた(「頃之,立為太子」)。徳の死後、太子として帝位を継承し大赦・改元。

出典: 晉書/卷128 慕容超載記

死因の経緯

東晋・劉裕軍に広固を攻略され脱出を図るも捕らえられ、建康の市場に送られ斬首された(「送建康市斬之,時年二十六」)。征服者(劉裕・東晋)による公的処断のため処刑。

出典: 晉書/卷128 慕容超載記

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位に伴う建元(太上)1回のみ。在位中盤以降の改元記事は本紀・載記いずれにも見当たらない。

大赦回数

載記中に「大赦」の語で明記される全国規模の恩赦は2回。地域限定の恩赦記事はなし。

立后回数

呼延氏の立后1回のみ。廃后・再冊立の記載はなし。

皇太子廃立回数

慕容超自身が慕容徳の太子に立てられた記事はあるが(徳の代の出来事)、超自身の在位中に皇太子を立てた記事・廃した記事は載記中に見当たらない。よって皇太子廃立は0回。

親征回数

義熙五年に将軍らを派遣して宿豫・済南を侵掠させた記事があるが、いずれも超自身は出陣しておらず親征に含めていない。

反乱鎮圧回数

『晋書』慕容超載記は本事件を即位直後の出来事のように記すが、実際は『資治通鑑』により義熙二年(406年)と判明した。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと同一事件を反乱を受けた側として計上。粒度・鎮圧成否の判断根拠はrebellionSuppressionCountのnoteを参照。

遷都回数

晋書載記を通読。慕容徳の広固定都(建国時の定都選定過程の一部、滑台からの遷移含む)から410年の劉裕による滅亡まで広固が一貫した都。

即位時年齢・没年齢

『晋書』巻百二十八 慕容超載記に「送建康市斩之,時年二十六。在位六年」とあり、処刑時の年齢26歳・在位年数6年が明記される。生年月日・即位年齢・崩御の正確な月日は本文に記載なし(誕生は羌中への逃亡中で、後趙滅亡後の混乱期であるため年月日不詳)。

在位中の出来事(7件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元405年義熙元年、慕容徳の死を承けて僭嗣位し、大赦境内するとともに「改元曰太上」と改元(建元)した。

義熙元年、慕容徳の死を承けて僭嗣位し、大赦境内するとともに「改元曰太上」と改元(建元)した。以後、載記中に別の改元記事はない。

出典: 晋書載記第二十九 慕容超

大赦405年義熙元年、慕容徳の死去に伴い即位した際に「大赦境内」を実施。

出典: 晋書載記第二十九 慕容超

反乱鎮圧406年9月〜406年10月慕容法・慕容鍾・段宏の謀反

首謀者: 慕容法・慕容鍾・段宏(西中郎将封融、済陽王慕容凝も呼応)

結果: 公孫五楼の専権を恐れた兗州刺史慕容法・青州牧慕容鍾・徐州刺史段宏が謀反。超は鍾を召還しようとしたが応じず、関係者の侍中慕容統らを誅殺、内通を疑われた尚書左僕射封嵩を車裂に処した。超は慕容鎮に青州、慕容昱に徐州、済陽王凝・韓範に梁父をそれぞれ攻めさせ、莒城を陥落させて段宏を魏へ敗走させ、梁父も奪還。鍾は妻子を殺して単身後秦へ、法は魏へ、途中で寝返った凝も後秦へ逃亡し、鎮圧に成功した(ただし魏に逃れていた封融が別に群盗を集めて石塞城を襲い鎮西大将軍余郁を殺害する余波もあった)。

『資治通鑑』により義熙二年(406年)九月末〜十月頃の出来事と比定(干支のみで月名の明記なし)。3名は同時発覚の一つの謀反として集計し、付随した封融の石塞城襲撃・慕容凝の離反は同一事件の粒度として含め、別カウントしなかった。

被反乱406年9月〜406年10月慕容法・慕容鍾・段宏の謀反

首謀者: 慕容法・慕容鍾・段宏(西中郎将封融、済陽王慕容凝も呼応)

結果: 南燕の高官(兗州刺史・青州牧・徐州刺史)による謀反であったが、超側の反撃と派兵により鎮圧され、首謀者は全員国外(後秦・北魏)へ逃亡した。

rebellionSuppressionCountと同一事件。日付は同样に資治通鑑で比定。

大赦407年義熙三年、南郊祭祀の際に赤鼠のような怪獣が現れ大風が起きる異変があり、太史令成公綏の進言(信用奸臣・誅戮賢良・賦斂繁多等)を受けて超が恐れて大赦し、公孫五楼らを譴責した。

出典: 晋書載記第二十九 慕容超

立后407年義熙三年、父慕容徳を穆皇帝と追尊し、母段氏を皇太后とするとともに、妻呼延氏を皇后に立てた。

出典: 晋書載記第二十九 慕容超

親征409年7月〜410年2月刘裕(东晋)

対象: 刘裕(东晋)

結果: 刘裕の北伐軍が大岘を越えて臨朐に迫ると、超は歩騎四万を自ら率いて臨朐の慕容鎮軍に合流したが、水源を巡る戦いに公孫五楼が敗れ、劉裕軍の奇襲で段暉らが討たれると単騎で逃走し広固へ敗走。以後は広固城内に籠城して防戦したが、義熙六年正月(410年2月頃)に城が陥落し捕らえられ、建康に送られて斬られた(在位中唯一の親征で、最終的に敗死に至った)。

『晋書』慕容超載記および『資治通鑑』晋紀二十四(義熙五年六月己巳〜丙子、義熙六年正月丁亥)に基づく月精度推定。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。