姚泓
後秦(五胡十六国)|在位 416–417年
- 諱(本名)
- 姚泓
- 在位
- 416–417年
- 在位期間
- 1年1日365名中296位タイ
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 30歳(数え年)269名中・長寿順188位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 8回225名中50位タイ
- 被反乱
- 8回289名中59位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
父・姚興の死後、皇太子の地位を狙う複数の政変(姚愔・尹元の反乱、姚弼の奪嫡の謀)を鎮圧・収拾した上で正嫡の皇太子として正式に帝位を継承(義熙12年・416年)。
出典: 晉書/卷119 姚泓載記補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
東晋・劉裕の北伐で長安が孤立し陥落。妻子とともに劉裕軍に降伏後、建康(現・南京)まで護送され市中で斬首された(「送泓于建康市斬之,時年三十,在位二年」)。征服者による公的処断のため処刑。
出典: 晉書/卷119 姚泓載記補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位約2年間で確認できる改元は即位時の「永和」建元1回のみ。
大赦回数
「大赦殊死已下」の一件のみ確認。なお前段の「赦其余党」(劉厥の残党を赦す)は反乱者一味に限定した部分的赦免であり、全国規模の大赦とは認められないため含めない。
立后回数
載記中に皇后冊立の記載は一切ない。姚泓の在位は義熙十二年(416年)~十三年(417年)の約2年間と短く、晋軍の侵攻・内乱鎮圧に忙殺されており、立后の記録は残っていない。
皇太子廃立回数
載記中に姚泓が皇太子(または皇太弟等)を立てて廃したとする記載はない。「皇太子」の語は姚興在世中の泓自身を指す用例(右僕射韋華の発言「皇太子実有恭惠之德」)のみで、泓自身の在位中の立太子・廃太子の記録は見られない。
親征回数
劉裕の東晋北伐は対等な独立政権同士の統一戦争にあたるが、指示に従い親征回数には該当すれば計上する扱いとした(鎮圧・被反乱には不算入)。
反乱鎮圧回数
各事件とも月日までは史料上特定できず年精度に留まる。姚愔・尹元事件は武力衝突の直接描写がなく解釈に幅があるが、既存データのaccessionRoute記載と整合させ計上した。
被反乱回数
反乱鎮圧回数と対称的に同一8事案を計上。すべて泓の在位中に発生・鎮圧されており、未鎮圧のまま在位終了した反乱は確認されない(劉裕による外征は対等政権同士の戦争として別枠扱い)。
遷都回数
晋書載記を通読。姚萇の長安(常安)定都(建国時の定都)から417年の劉裕による滅亡まで長安が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
載記末尾に「送泓于建康市斩之,时年三十,在位二年」とあり、没年齢30歳・在位2年と明記される。生年月日・崩御の具体的な日付・即位時の年齢についての直接記載は見当たらない。
在位中の出来事(19件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧416年南陽公姚愔・大将軍尹元の政変未遂
首謀者: 姚愔・尹元
結果: 泓(実権掌握中)が両名を誅殺し鎮圧
姚興死去直後、秘不発喪の期間中に発生。「南阳公姚愔及大将军尹元等谋为乱,泓皆诛之」。data/emperors.json既存のaccessionRoute記載でもこの一件を「姚愔・尹元の反乱」と位置づけている。
反乱鎮圧416年羌酋党容の離反
首謀者: 党容
結果: 姚賛が討伐、党容は降伏
安定に移住させられていた李閏の羌族を率いて旧地に叛還。姚賛が討ち、降伏後に有力者数百戸を長安へ、残りは李閏へ還した。
反乱鎮圧416年北地太守毛雍の反乱
首謀者: 毛雍
結果: 姚紹が討伐し捕らえた
「北地太守毛雍据赵氏坞以叛于泓,姚绍讨擒之」。
反乱鎮圧416年李閏の羌族諸集団の蜂起
首謀者: 不詳(李閏在住の羌族諸集団)
結果: 姚紹が討伐し撃破
姚宣が李閏を放棄し邢望へ南遷した後、残された李閏に羌族が拠って叛乱、姚紹が討破した。姚宣自身は武力衝突なく姚紹へ帰罪・誅殺されたため別事案として不算入。
反乱鎮圧416年并州・定陽・貳城胡(曹弘擁立)の反乱
首謀者: 曹弘(推戴した并州・定陽・貳城胡数万落)
結果: 征東姚懿が平陽で大破し曹弘を捕らえ長安へ送致
「并州、定阳、贰城胡数万落叛泓,入于平阳...推匈奴曹弘为大单于,所在残掠。征东姚懿自蒲坂讨弘,战于平阳,大破之,执弘」。
反乱鎮圧416年〜417年平陽氐苟渴の蜂起
首謀者: 苟渴
結果: 初戦は敗退したが姚諶が討伐し苟渴を捕らえた
「平阳氐苟渴聚众千余,据五丈原以叛,遣镇远姚万、恢武姚难讨之,为渴所败。姚谌讨渴,擒之」。
反乱鎮圧416年〜417年征東姚懿の反乱(長安襲撃計画・僭号)
首謀者: 姚懿
結果: 姚紹が蒲坂で懿を捕縛・幽閉、参謀孫暢らを誅殺し鎮圧
司馬孫暢の勧めで長安襲撃・姚紹誅殺・泓廃立を企図し挙兵僭号。鎮人らが包囲し、姚紹が蒲坂に入って捕らえた。
被反乱416年南陽公姚愔・大将軍尹元の政変未遂
首謀者: 姚愔・尹元
結果: 鎮圧され両名誅殺
鎮圧回数と同一事案。
被反乱416年羌酋党容の離反
首謀者: 党容
結果: 鎮圧され降伏
鎮圧回数と同一事案。
被反乱416年北地太守毛雍の反乱
首謀者: 毛雍
結果: 鎮圧され捕縛
鎮圧回数と同一事案。
被反乱416年李閏の羌族諸集団の蜂起
首謀者: 不詳(李閏在住の羌族諸集団)
結果: 鎮圧され撃破
鎮圧回数と同一事案。
被反乱416年并州・定陽・貳城胡(曹弘擁立)の反乱
首謀者: 曹弘(并州・定陽・貳城胡数万落)
結果: 鎮圧され曹弘捕縛
鎮圧回数と同一事案。
被反乱416年〜417年平陽氐苟渴の蜂起
首謀者: 苟渴
結果: 鎮圧され苟渴捕縛
鎮圧回数と同一事案。
被反乱416年〜417年征東姚懿の反乱(長安襲撃計画・僭号)
首謀者: 姚懿
結果: 鎮圧され捕縛
泓廃立・姚紹誅殺を狙った皇族による内乱。鎮圧回数と同一事案。
反乱鎮圧417年征北姚恢の反乱
首謀者: 姚恢
結果: 姚紹・姚賛が挟撃し大破、姚恢とその弟3人を殺害
安定鎮戸3万8千を率いて挙兵し大都督・建義大将軍を自称、長安に迫り「長安大震」の事態となったが最終的に鎮圧された。泓は恢の死を悲しみ公礼で葬った。
被反乱417年征北姚恢の反乱
首謀者: 姚恢
結果: 鎮圧され姚恢とその弟3人が殺害された
長安に迫り「長安大震」を引き起こした皇族による大規模内乱。鎮圧回数と同一事案。
親征417年4月〜417年7月劉裕(東晋北伐軍)
対象: 劉裕(東晋北伐軍)
結果: 長安周辺での防衛戦に自ら出陣したが各地で敗退し、最終的に長安が陥落。妻子と共に降伏し建康に送られ処刑された(後秦滅亡)。
「泓遣姚裕率步骑八千距之,泓躬将大众继发」との記載で姚泓自身が主力軍を率いて出陣したことが明記される。以後「泓自灞上还军」「泓自逍遥园赴之」等、長安近郊での防衛行動が続いた。開始月日は明確でないため西暦417年4月頃(姚紹戦死・対魏援軍要請の後)〜7月(長安陥落・被虜)と推定。劉裕の遠征自体は義熙12年(416年)8月に開始しているが、姚泓自身が親征した(軍を率いて出陣した)と明記されるのはこの終盤局面。
改元日付不詳「泓发丧,以义熙十二年僭即帝位,大赦殊死已下,改元永和,庐于谘议堂」。
「泓发丧,以义熙十二年僭即帝位,大赦殊死已下,改元永和,庐于谘议堂」。義熙十二年(416年)、姚興の喪を発すると同時に帝位に即き、建元(初めての改元)として「永和」に改元した。以後、義熙十三年(417年)に長安陥落・処刑されるまで別の改元記事は見当たらない。
出典: 晋書載記第十九姚泓
大赦日付不詳「泓发丧,以义熙十二年僭即帝位,大赦殊死已下,改元永和」。
「泓发丧,以义熙十二年僭即帝位,大赦殊死已下,改元永和」。姚興の死去を秘して喪を発した後、義熙十二年(416年)に即位し、死刑以外の罪を大赦、同時に永和と改元した。
出典: 晋書載記第十九姚泓