姚泓は後秦の姚興の長子で、416年に父の死を受けて即位した。
姚泓の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 416年〜417年
- 没年
- 417年30歳(数え年)長生き順同率186位/266人
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 世襲先の皇帝が自分で跡継ぎを決めていて(遺詔・皇太子に立てるなど)、その跡を継いだ即位。
- 先代
- 文桓帝後秦姚泓は文桓帝の子
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓姚諱泓字元子呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百十九 載記第十九(姚泓)
- 死因
- 晉書/卷119 姚泓載記
- 即位経路
- 晉書/卷119 姚泓載記
生涯
どんな皇帝か
劉裕の北伐を受けるなか一族の反乱が続き、417年に長安で降り、建康の市で斬られた。晋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、凡庸で臆病な資質で乱れた後を継ぎ、策を失って降ったと評する。
即位まで
姚興の長子で、孝友寛和だったが国を治める才に乏しく病が多かったため、姚興は後継とするのをためらったのち、太子に立てた。博学で詩を好み、師の淳于岐が病むと自ら見舞って寝台の下で拝礼したので、以後は公侯も師傅皇族などを教え導く先生に拝礼するようになった。刑政を厳しくしようという議には、仁恕の道に努めず酷い刑ばかり求めるのかと退け、議は取りやめになった。409年に劉厥が背いたときは討ち取らせて残党を赦し、首級を誇るよう勧められても、責めは自分にあると退けた。弟の姚弼が嫡子の地位を奪おうと謀っても、以前どおり恩をもって接し、弼に付いた姚紹にもわだかまりを持たなかった。病の父が長安に戻ると、出迎えようとして、変事を恐れる宮臣に諫められた。416年に父が死ぬと喪を伏せたまま、乱を謀った姚愔らを誅し、そのうえで喪を発して即位した。
史料について
諫められた後を、晋書の姚興載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録は黄龍門で拝迎したとし、資治通鑑は出迎えをやめたとする。
治世と最期
東宮主に皇太子の住む宮殿、また皇太子その人の臣を封じようとして姚賛に諫められると、福を独り占めしては心に恥じると答えたが、姚紹が来春を待つよう勧めて取りやめた。劉裕の軍が来ると、姚恢を召して慰めるよう勧められたが、恢に背く心があるなら召せばかえって禍を早めると従わなかった。
劉裕が彭城に駐屯するころ、姚懿が挙兵して号を称したが、姚紹が蒲坂で捕らえた。その姚恢が長安へ迫ると、禍を同じ血筋から起こしたと姚賛に詫び、姚恢が討たれると声をあげて泣いて公の礼で葬った。
417年、自ら大軍を率いて出たが、沈田子に敗れて灞上へ退いた。王鎮悪が長安に入ると、数百騎で石橋へ逃れた。子の姚仏念は、降っても助からないと言って宮殿の壁から身を投げて死に、姚泓は妻子を連れて晋軍の陣門に降った。姚賛が宗室君主と同じ一族の人々の子弟百余人を率いて降ると劉裕はすべて殺し、姚泓は建康へ送られて市で斬られた。
史料について
敗れた戦いを、晋書の載記は先発の姚裕が沈田子に敗れたとし、資治通鑑は姚泓が自ら青泥で沈田子を襲って大敗したとする。
姚泓とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
416年の地図に、姚泓が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱8・親征1・改元1・大赦1
- 改元416年元号を「永和」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。416年
- 反乱416年南陽公姚愔・
大将軍尹元の政変未遂 - 反乱416年羌酋党容の離反
- 反乱416年北地太守毛雍の反乱
- 反乱416年李閏の羌族諸集団の蜂起
- 反乱416年并州・
定陽・ 貳城胡(曹弘擁立)の反乱 - 反乱416–417年平陽氐苟渴の蜂起
- 反乱416–417年征東姚懿の反乱(長安襲撃計画・
僭号) - 反乱417年征北姚恢の反乱
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。417年9月劉裕(東晋北伐軍)
後秦の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代武昭帝386–393年病死
- 第2代文桓帝394–399年病死
- 第3代姚泓416–417年処刑
年表
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