武帝の人物データ
- 生年
- 363年4月16日
- 在位
- 420年7月10日〜422年6月26日
- 没年
- 422年6月26日60歳(数え年)長生き順同率39位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓劉諱裕字徳輿幼名寄奴廟号高祖呼び名の見方
出典
- 在位
- 宋書 本紀第三 武帝紀下
- 死因
- 宋書/卷03 本紀第三 武帝下
- 即位経路
- 宋書/卷03
生涯
どんな皇帝か
宋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、地盤も兵も無いところから晋を立て直したと褒め、批判は無い。
即位まで
小名を寄奴といい、363年に生まれた。母はその日に亡くなり、家が貧しかったので、母の姉妹が自分の子を乳離れさせて育てた。世に出る前は自ら荻を刈り、妻の臧氏が手縫いした継ぎはぎの衣を、貴くなってから娘に渡し、驕り奢る者がいたら見せよと言った。399年に孫恩の乱が起こると劉牢之の軍に加わり、長刀をふるって奮戦した。404年、帝位を奪った桓玄に対し京口で挙兵して盟主に推され、桓玄を建康から追い、桓玄は逃れる途中で斬られた。410年に南燕の広固を落として慕容超を捕らえ、留守を突いて建康に迫った盧循を退けた。盧循を迎え撃つ戦いでは、持ち場を離れた徐赤特を斬り、味方を救わず退いた魏順之も斬ると、功臣たちは震え上がった。ともに桓玄討伐を謀った劉毅と諸葛長民を滅ぼした。劉藩と諸葛長民の殺され方を挙げて劉裕のやり方を責め、帰順を断った韓延之の返書には、人に仕えるならこうあるべきだと嘆じた。417年には後秦を滅ぼして長安に入ったが、引き揚げたのち関中は赫連勃勃に奪われた。418年の暮れ、讖に合わせるため王韶之にひそかに安帝を殺させ、420年に恭帝から位を譲られて即位した。
史料について
宋書の武帝紀は、安帝について天子が崩じたとだけ書く。殺し方を、宋書の王韶之伝は毒とし、資治通鑑は絞め殺させたとする。
治世と最期
継母の蕭太后には毎朝挨拶したが、弟の劉道憐を揚州刺史州という地方の区画を治めた長官にとの頼みは、務まらないと断った。零陵王とした恭帝は、421年、劉裕の差し向けた兵に殺された。
清簡で欲が少なく、下駄で出歩いた。北伐に出るころ献じられた琥珀の枕は、傷薬になると聞いて砕いて諸将に分けた。のちに孫の孝武帝はその居室を壊すとき、倹約をたたえる侍中皇帝のそばに仕える高官。唐では政治の最高職の一つに答えず、田舎の爺さんには過ぎたものだと言った。422年に病が重くなると、太子に謝晦を警戒するよう言い残して没した。
史料について
宋書の武帝紀は恭帝の死を薨じたとだけ書いて哀悼したとし、殺害は同じ宋書の褚叔度伝と晋書・資治通鑑にある。南史は宋の意向による死だと書き添える。
武帝とつながる皇帝

勢力図
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420–422年の地図に、武帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・改元1・大赦3
- 改元420年7月10日元号を「永初」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。420年7月10日南郊にて即位の礼を終え太極前殿に幸した当日に発した詔で大赦(改元と同一の詔)。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。421年南郊祭祀に際し大赦。
- 反乱421年南康・
掲陽の蛮族の反乱 - 反乱422年刁弥による京城襲撃
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。422年4月23日病が癒えたことを機に大赦。
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