本文へスキップ

武帝の肖像画

宋・南北朝第1代

武帝劉裕

在位 420–422年(1年351日)420年7月10日 〜 422年6月26日

日本は古墳時代

貧しい家から軍功で身を起こし、桓玄を倒して東晋の実権を握り、晋から位を譲られて宋を建てた皇帝である。

  • 421年

    倭の五王(讃)

    倭の讃が遠くから貢ぎ物を送り、武帝は官職を授けるよう命じた。

    原文
    • 高祖永初二年,诏曰:“倭赞万里修贡,远诚宜甄,可赐除授。”― 宋書(列伝第五十七 夷蛮伝(倭国の条))

武帝の人物データ

生年
363年4月16日
在位
  • 420年7月10日〜422年6月26日
1年351日長い順264位/365人58歳で即位(数え年)
没年
422年6月26日60歳(数え年)長生き順同率39位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
(易姓)
先代
  • 恭帝東晋武帝と恭帝に血縁はない
次代
  • 少帝宋・南北朝少帝は武帝の子
呼び名
姓劉諱裕字徳輿幼名寄奴廟号高祖呼び名の見方

出典

在位
宋書 本紀第三 武帝紀下
死因
宋書/卷03 本紀第三 武帝下
即位経路
宋書/卷03

生涯

どんな皇帝か

宋書のは、地盤も兵も無いところから晋を立て直したと褒め、批判は無い。

即位まで

小名を寄奴といい、363年に生まれた。母はその日に亡くなり、家が貧しかったので、母の姉妹が自分の子を乳離れさせて育てた。世に出る前は自ら荻を刈り、妻の臧氏が手縫いした継ぎはぎの衣を、貴くなってから娘に渡し、驕り奢る者がいたら見せよと言った。399年に孫恩の乱が起こると劉牢之の軍に加わり、長刀をふるって奮戦した。404年、帝位を奪った桓玄に対し京口で挙兵して盟主に推され、桓玄を建康から追い、桓玄は逃れる途中で斬られた。410年に南燕の広固を落として慕容超を捕らえ、留守を突いて建康に迫った盧循を退けた。盧循を迎え撃つ戦いでは、持ち場を離れた徐赤特を斬り、味方を救わず退いた魏順之も斬ると、功臣たちは震え上がった。ともに桓玄討伐を謀った劉毅と諸葛長民を滅ぼした。劉藩と諸葛長民の殺され方を挙げて劉裕のやり方を責め、帰順を断った韓延之の返書には、人に仕えるならこうあるべきだと嘆じた。417年には後秦を滅ぼして長安に入ったが、引き揚げたのち関中は赫連勃勃に奪われた。418年の暮れ、讖に合わせるため王韶之にひそかに安帝を殺させ、420年に恭帝から位を譲られて即位した。

史料について

宋書の武帝紀は、安帝について天子が崩じたとだけ書く。殺し方を、宋書の王韶之伝は毒とし、資治通鑑は絞め殺させたとする。

治世と最期

継母の蕭太后には毎朝挨拶したが、弟の劉道憐を揚州にとの頼みは、務まらないと断った。零陵王とした恭帝は、421年、劉裕の差し向けた兵に殺された。

清簡で欲が少なく、下駄で出歩いた。北伐に出るころ献じられた琥珀の枕は、傷薬になると聞いて砕いて諸将に分けた。のちに孫の孝武帝はその居室を壊すとき、倹約をたたえるに答えず、田舎の爺さんには過ぎたものだと言った。422年に病が重くなると、太子に謝晦を警戒するよう言い残して没した。

史料について

宋書の武帝紀は恭帝の死を薨じたとだけ書いて哀悼したとし、殺害は同じ宋書の褚叔度伝と晋書・資治通鑑にある。南史は宋の意向による死だと書き添える。

武帝とつながる皇帝

南北朝の勢力図(420年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

420–422年の地図に、武帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・改元1・大赦3
  1. 改元420年7月10日元号を「永初」とする
  2. 420年7月10日南郊にて即位の礼を終え太極前殿に幸した当日に発した詔で大赦(改元と同一の詔)。
  3. 421年南郊祭祀に際し大赦。
  4. 反乱421年南康・掲陽の蛮族の反乱
  5. 反乱422年刁弥による京城襲撃
  6. 422年4月23日病が癒えたことを機に大赦。

宋・南北朝の歴代皇帝

歴代8人の一覧

年表

南北朝の時代を年表で見る

宋・南北朝が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「受禅(易姓)」の18名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。