武帝
宋・南北朝|在位 420–422年

- 諱(本名)
- 劉裕
- 廟号
- 高祖
- 在位
- 420–422年
- 在位期間
- 1年351日365名中268位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 60歳(数え年)269名中・長寿順39位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
関連動画
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:武帝
即位の経緯
東晋恭帝からの禅譲を受けて宋を建国。王朝創始者のため「建国」に分類(他の王朝創始者と同様の扱い)。
出典: 宋書/卷03補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
永初三年(422年)五月、病重り太子への遺詔(顧命)を残した後「癸亥,上崩于西殿,時年六十」(宋書卷三 武帝下)。暗殺・事故を示す記述なし。
出典: 宋書/卷03 本紀第三 武帝下補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位期間(永初元年六月〜三年五月)は一貫して永初の元号のみが使用され、即位に伴う建国改元1回のみ。在位中に他の改元は行われていない(次の景平改元は少帝=子の代)。
大赦回数
本紀第三(武帝下、永初元年六月即位〜三年五月崩御)に明記された『大赦天下』は3件。『原赦』『原降』等の部分的・限定的な恩赦(永初元年八月乙亥『可悉原赦』、三年正月甲辰朔『悉皆原降』等)は全国規模の『大赦』と明記されていないため除外した。
立后回数
在位中(永初元年〜三年)に皇后を生前に正式冊立した記事はなし。永初元年八月辛未に亡き妃臧氏を追諡して敬皇后としているが(原文『辛未,追谥妃臧氏为敬皇后。』)、これは既に故人となっていた正妃への死後の追号(追贈)であり、生前の立后・冊立には当たらないため計上しない。
皇太子廃立回数
永初元年八月癸酉、王太子(劉義符)を皇太子に立てた記事(『癸酉,立王太子为皇太子。』)はあるが、在位中(永初元年〜三年五月崩御)に皇太子を廃した記事は本紀中に見当たらない。立太子自体はカウント対象外のため0回。
親征回数
宋書卷三(武帝下、永初元年〜三年)を全文確認したが、即位後(420年6月〜422年5月)に武帝自身が軍を率いて出征した記事は見当たらない。本紀中の「時将北征」「平関中」は義熙十三年(417年)の後秦討伐に関する回想記事で、即位前の出来事のため対象外。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
2件とも本紀に明記された鎮圧記事。刁弥の一件は規模・性格に不明点があるため個別に確信度を中とした。
被反乱回数
鎮圧回数と対称(同一2件)。理由の食い違いなし。
遷都回数
宋書本紀を通読。劉宋建国(建康定都、建国時の定都)から479年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢60歳は本紀に「時年六十」と直接記載(永初三年五月癸亥)。生年・即位時年齢の直接記載は本紀中になし。
在位中の出来事(8件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元420年7月10日永初元年六月丁卯、即位に伴い東晋の元熙二年を永初元年と改元(建国改元)。
永初元年六月丁卯、即位に伴い東晋の元熙二年を永初元年と改元(建国改元)。原文『其大赦天下。改晋元熙二年为永初元年。』
出典: 宋書/卷03 本紀第三 武帝下
大赦420年7月10日永初元年六月丁卯、南郊にて即位の礼を終え太極前殿に幸した当日に発した詔で大赦天下(改元と同一の詔)。
永初元年六月丁卯、南郊にて即位の礼を終え太極前殿に幸した当日に発した詔で大赦天下(改元と同一の詔)。原文『其大赦天下。改晋元熙二年为永初元年。』
出典: 宋書/卷03 本紀第三 武帝下
反乱鎮圧421年南康・掲陽の蛮族の反乱
首謀者: 不明(南康・掲陽の蛮族)
結果: 郡県(地方官)が討伐し鎮圧
永初二年(421年)正月丙子「南康揭阳蛮反,郡县讨破之」。政権に服属する異民族(蛮)による蜂起を郡県レベルの官が鎮圧。皇帝本人は関与せず。
被反乱421年南康・掲陽の蛮族の反乱
首謀者: 不明(南康・掲陽の蛮族)
結果: 郡県が討破
rebellionSuppressionCountと同一事象。服属異民族の反乱として被反乱にも計上。
反乱鎮圧422年刁弥による京城襲撃
首謀者: 刁弥(亡命者)
結果: 太尉留府司馬・陸仲元が討伐し刁弥を斬った
永初三年(422年)三月辛酉「亡命刁弥攻京城,得入,太尉留府司马陆仲元讨斩之」。逃亡者刁弥が武装して京城(文脈上、太尉の留府=京口とみられる)を攻撃し侵入したが、太尉留府司馬が討伐鎮圧。首謀者一個人による小規模な武装蜂起で、組織的な大規模反乱とは性格が異なる可能性があるため確信度は中とした。
被反乱422年刁弥による京城襲撃
首謀者: 刁弥
結果: 太尉留府司馬が討斬
rebellionSuppressionCountと同一事象。皇帝崩御の約2ヶ月前、皇帝が病臥中(三月上不豫)に発生した武装侵入事件。
大赦日付不詳永初二年正月辛酉、南郊祭祀に際し大赦天下。
永初二年正月辛酉、南郊祭祀に際し大赦天下。原文『二年春正月辛酉,車駕祠南郊,大赦天下。』(干支日のみで西暦換算は未実施のためdateはnull)
出典: 宋書/卷03 本紀第三 武帝下
大赦日付不詳永初三年三月己未、病が癒えたことを機に大赦天下。
永初三年三月己未、病が癒えたことを機に大赦天下。原文『上疾瘳,己未,大赦天下。』(干支日のみで西暦換算は未実施のためdateはnull)
出典: 宋書/卷03 本紀第三 武帝下