恵愍帝
後燕(五胡十六国)|在位 396–398年
- 諱(本名)
- 慕容宝
- 在位
- 396–398年
- 在位期間
- 1年340日365名中269位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 44歳(数え年)269名中・長寿順111位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 3回225名中129位タイ
- 被反乱
- 5回289名中97位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:恵愍帝
即位の経緯
父・慕容垂の死後、太子として正式に皇位を継承(「垂死後,寶嗣偽位」)。
出典: 晉書/卷124 慕容寶載記
死因の経緯
398年、外戚(岳父)の蘭汗に外邸に招かれ弑殺された(「汗引寶入于外邸,弒之」)。享年44、在位3年。
出典: 晉書/卷124 慕容寶載記
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中、永康以外の改元記事は見当たらない。慕容宝弑殺後は兰汗僭称・慕容盛即位に伴い改元「建平」が行われるが、これは後継者側(慕容盛)の在位に帰属する事象であり、慕容宝の在位にはカウントしない。
大赦回数
载记本文で明記される「大赦境内」は即位時の1回のみ。以降、慕容宝が兰汗に弑されるまでの間(在位三年)に大赦の記述は確認できなかった。
立后回数
立后は段氏の1回のみ確認。廃后や再冊立の記載は見当たらない。
皇太子廃立回数
皇太子慕容策は、宝が兰汗に弑されるまで廃立されなかった。載記中、清河公会の側近・侍御史仇尼归が会に対し「盍诛二王,废太子」(二王を誅し太子を廃せよ)と進言した記述はあるが、会はこれに従わず(会不从)実行されていないため、実際の廃立事件としてはカウントしない。なお宝の死後、太子策は兰汗に殺害されているが、これは廃立ではなく殺害であり、また慕容宝自身の在位中の出来事でもないため、本項目には含めない。
親征回数
史料は『晋書』慕容宝載記および『資治通鑑』晋紀三十一。参合陂の戦い(太元二十年=395年)は太子時代(垂の治世下)の出来事であり、宝自身の在位(396年4月即位〜398年5月弑殺)開始前のため親征回数から除外した。
反乱鎮圧回数
皇帝本人が親率した鎮圧行動(段速骨の乱)と、将軍への派遣による鎮圧(平規・慕容会)の両方を含む。慕容詳・慕容麟の帝位僭称は宝側からの鎮圧行動が確認できないため鎮圧回数には含めていない(被反乱回数のみに計上、末尾参照)。
被反乱回数
鎮圧回数と一致しない2件(慕容詳・慕容麟の帝位僭称)は、いずれも宝の在位終了(弑殺)までに宝自身の勢力による鎮圧行動が着手されなかった事例(未鎮圧のまま在位終了、または第三者=北魏・別の反乱者に討たれたケース)にあたる。なお、399年末に発覚し兵力行使前に鎮圧された『晋書』慕容皓(尚書)の弑逆未遂計画(義兄の密告により発覚、共謀者数十人と共に魏へ出奔)は、実際の挙兵に至らなかったため被反乱回数に含めていない。
遷都回数
在位中に遷都1回(0397年 中山→龍城(黄龍))。
即位時年齢・没年齢
『晋书』巻124慕容宝載記末尾に「汗引宝入于外邸,弑之,時年四十四,在位三年,即隆安三年也」とあり、崩御時の年齢44歳が明記される。ただし本紀等では慕容宝の死は隆安元年(397年)5月頃とされることが多く(本タスク付与情報でも398年5月27日)、載記が記す「隆安三年(399年)」は他史料・本紀と食い違う(載記に頻出する紀年錯誤の一例と思われる)。生年月日・即位時年齢の直接記載は見当たらなかった。
在位中の出来事(14件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元396年即位に伴う建元。
即位に伴う建元。「垂死,其年宝嗣伪位,大赦境内,改元为永康」。永康と改元(=即位建元)。
出典: 晋書載記第二十四 慕容宝
大赦396年父慕容垂の死去に伴い慕容宝が即位した年(太元二十一年=396年)、即位に伴う大赦「垂死,其年宝嗣伪位,大赦境内,改元为永康」。
父慕容垂の死去に伴い慕容宝が即位した年(太元二十一年=396年)、即位に伴う大赦「垂死,其年宝嗣伪位,大赦境内,改元为永康」。在位中これ以外に大赦の記載は見当たらない。
出典: 晋書載記第二十四 慕容宝
反乱鎮圧396年4月〜396年7月平規(旧燕将軍)残党の反乱・高唐拠守
首謀者: 平規
結果: 鎮圧成功。宝が高陽王隆に討伐を命じ、隆が済北で規を斬殺した。
『資治通鑑』晋紀三十一「平規収合餘党拠高唐,燕主宝遣高陽王隆将兵討之…隆進軍臨河,規棄高唐走。隆遣建威将軍慕容進等済河追之,斬規於済北」。規の反乱自体は垂治世下(太元年間)に始まり、垂自身の親征で一度敗走させられていたが、宝即位後に残党が再蜂起し、宝の命で最終的に討滅された経緯があるため、発端は先代治世にある点に留意(信頼度medium)。
被反乱396年4月〜396年7月平規(旧燕将軍)残党の反乱・高唐拠守
首謀者: 平規
結果: 鎮圧成功(高陽王隆が済北で規を斬殺)。
rebellionSuppressionCountの同項目と対応。
親征397年1月〜397年2月北魏(拓跋珪)
対象: 北魏(拓跋珪)
結果: 大敗(柏肆の戦い)。深沢に出屯後、歩卒12万・騎3万7千を率いて曲陽柏肆に布陣し、夜襲を仕掛けるも味方の混乱で失敗、魏軍の反撃を受けて中山へ敗走。厳冬の行軍で凍死者多数、鎧・武具を捨てて逃げるほどの惨敗となり、以後中山も放棄するに至った。
『晋書』慕容宝載記「乃尽衆出距…宝惮魏師之鋭…寸刃無返」、『資治通鑑』晋紀三十一「悉発其衆歩卒十二万騎三万七千屯於曲陽之柏肆…宝恐為魏軍所及,命士卒皆棄袍仗、兵器数十万」に基づく。
被反乱397年3月〜397年10月趙王慕容麟の謀反・皇帝僭称
首謀者: 慕容麟(趙王)
結果: 未鎮圧のまま終息。麟は当初、兵を用いて北地王精に宝弑殺への協力を強要し拒否されると精を殺害して丁零へ出奔、後に丁零の兵を率いて中山に入り慕容詳を殺害して自ら皇帝を称したが、最終的に北魏軍に敗れて鄴へ逃走した。一連の過程で宝自身の勢力による鎮圧は行われていない。
『資治通鑑』「麟以兵劫左衛将軍北地王精,使帥禁旅弑宝。精以義拒之,麟怒,殺精,出奔西山,依丁零餘衆」、『晋書』慕容宝載記「麟率丁零之衆入中山,斬詳及其親党三百餘人,復僭称尊号…与魏師戦於義台,麟軍敗績。魏師遂入中山,麟乃奔鄴」。開始日(精殺害の夜)は宝の中山脱出直前と推定、確度medium。
反乱鎮圧397年4月清河王慕容会の反乱
首謀者: 慕容会(清河王)
結果: 鎮圧成功。会は龍城を包囲・攻撃したが、龍城守備兵の反撃と侍御郎高雲の夜襲により大敗し敗走、中山で開封公慕容詳に殺害された。ただし味方の高陽王隆は殺害され、遼西王農も重傷を負う代償を伴った。
『晋書』慕容宝載記「会復奔其衆,於是勒兵攻宝…会囲龍城,侍御郎高雲夜率敢死士百餘人襲会,敗之,衆悉逃散」、『資治通鑑』「城中将士皆憤怒,向暮出戦,大破之…侍御郎高雲夜帥敢死士百餘人襲会軍,会衆皆潰。会将十餘騎奔中山,開封公詳殺之」。
被反乱397年4月清河王慕容会の反乱
首謀者: 慕容会(清河王)
結果: 鎮圧成功。会は龍城攻撃に失敗し敗走、中山で慕容詳に殺害された。宝側も高陽王隆を失い、遼西王農が重傷を負った。
rebellionSuppressionCountの同項目と対応。
被反乱397年5月〜397年7月開封公慕容詳の皇帝僭称
首謀者: 慕容詳(開封公)
結果: 未鎮圧のまま終息。宝が中山脱出時に取り残された慕容詳が城内で擁立され、宝存命中に独自に皇帝を称し(建始と改元)、暴政の末に趙王慕容麟に殺害された。宝自身の勢力による鎮圧行動は確認できない。
『晋書』慕容宝載記「詳僭称尊号,置百官,改年号…麟率丁零之衆入中山,斬詳」、『資治通鑑』「慕容詳自謂能却魏兵,威徳已振,乃即皇帝位,改元建始」「挙城皆謀迎趙王麟…麟自丁零入驤軍,潜襲中山…執詳,斬之」。即位月は推定(五〜六月頃)で確度medium。
遷都397年5月中山 → 龍城(黄龍)
『晋書』帝紀第十 安帝紀 隆安元年(397)五月条:「慕容寶將慕容詳僭即皇帝位於中山、寶奔黄龍」。載記第二十四(慕容寶)にも北魏軍による中山包囲・内紛(慕容会の反乱等)で寶が龍城へ逃れた経緯が詳述される。中山は同年冬に慕容詳・慕容麟の僭称を経て北魏に完全に陥落し、以後、寶・盛・煕と続く後燕正統は一貫して龍城を都とした(後燕滅亡=義熙三年/407年まで回復されず)。当初は軍事的敗走に伴う避難という性格を帯びるが、中山が二度と回復されず龍城が恒久的な都となったため、南宋の臨安遷都と同様の「事実上恒久的な遷都」として計上した。(出典: 晋書 帝紀第十 安帝紀 隆安元年/晋書 載記第二十四 慕容寶)
親征398年2月〜398年3月北魏(中山・中原奪回目的)
対象: 北魏(中山・中原奪回目的)
結果: 未遂・中止。龍城から出陣し中原(魏占領下の旧領)奪回を目指したが、行軍中の乙連で段速骨・宋赤眉の反乱が勃発し、魏軍と交戦する前に遠征そのものが崩壊した。
『晋書』慕容宝載記「慕容徳遣侍郎李延勧宝南伐…宝発龍城…歩騎三万,次於乙連」、『資治通鑑』晋紀三十一「二月,乙亥,宝出就頓…己卯,燕軍発龍城…壬午,宝至乙連,長上段速骨、宋赤眉等因衆心之憚征役,遂作乱」に基づく。
反乱鎮圧398年3月段速骨・宋赤眉の乱(蘭汗が背後で連携)
首謀者: 段速骨・宋赤眉
結果: 鎮圧失敗。宝自ら軍を返して速骨討伐を試みたが、遠征に疲弊していた将兵が反乱側に投降・離散し、鎮圧は成らなかった。この失敗を機に反乱は拡大し、最終的に宝自身の弑殺(蘭汗による)に至った(被反乱回数の該当項目参照)。
『晋書』慕容宝載記「宝単騎奔農,仍引軍討速骨。衆咸憚征幸乱,投杖奔之。腾衆亦潰,宝、農馳還龍城」。実際に武力による鎮圧行動(親征)が試みられ失敗した事例のため、失敗の結末を明記した上でカウントした。
被反乱398年3月〜398年5月段速骨・宋赤眉の乱および蘭汗による弑逆
首謀者: 段速骨・宋赤眉(実質的首謀者は蘭汗)
結果: 宝は自ら討伐を試みたが将兵の離反で失敗。乱に乗じて当初から速骨と密かに通じていた蘭汗が実権を掌握し、遼西王農を謀殺、宝を南へ敗走させた後、太子策を擁して宝を龍城へ呼び戻し、最終的に宝を弑殺した(隆安二年=398年五月、『晋書』安帝紀に基づく)。宝の太子策および王公卿士百余人も殺害された。
『晋書』慕容宝載記「長上段速骨、宋赤眉…殺司空、楽浪王宙…蘭汗潜与速骨通謀…農為蘭汗所譎,潜出赴賊,為速骨所殺…汗引宝入於外邸,弑之,時年四十四,在位三年」。ただし載記は「即隆安三年也」とするが、『晋書』安帝紀「(隆安)二年…夏五月,蘭汗弑慕容宝」との記載と矛盾するため、安帝紀の隆安二年(398年)五月を採用した(載記の「三年」表記は燕の独自年号=永康三年との混同の可能性があり、研究ノートに記録)。
立后日付不詳「宝遂与麟等定计,立策母段氏为皇后,策为皇太子,盛、会进爵为王」。
「宝遂与麟等定计,立策母段氏为皇后,策为皇太子,盛、会进爵为王」。慕容策の生母段氏が皇后に冊立された(時期は策立太子時と同時、具体的な年月日は載記に明記なし)。
出典: 晋書載記第二十四 慕容宝