慕容詳
後燕(五胡十六国)|在位 397年
- 諱(本名)
- 慕容詳
- 在位
- 397年
- 在位期間
- 183日365名中329位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
慕容宝が龍城へ逃れ生死不明となった混乱に乗じ、中山守備を任されていた開封公・慕容詳が自ら帝号を僭称した(「詳僭稱尊號,置百官,改年號」)。正式な冊立・禅譲の手続きを経ない自立的な即位。
出典: 晉書/卷124補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
同じ後燕内で別に自立していた慕容麟が丁零の軍を率いて中山に入城し、詳とその一党300余人を斬った(「麟率丁零之衆入中山,斬詳及其親黨三百餘人」)。戦闘中の死ではなく入城後の集団処断(斬首)であり、麟を征服者的立場とみなし処刑に分類(ユーザー承認済み)。
出典: 晉書/卷124補記: zh.wikisource.org。判定は境界事例、ユーザー確認済み
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
『晋書』巻124に「詳僭稱尊號,置百官,改年號」と明記されており、即位に伴う建元(改年号)が1回確認できる。在位は隆安元年5月頃から同年9月に慕容麟に討たれるまでの数ヶ月間で、それ以外の改元記事は見られない。具体的な年号名・改元日は原文に明記されていないため日付はnull。
大赦回数
慕容詳の在位期間(隆安元年5月〜9月、僭称即位から慕容麟に討たれるまで)について、『晋書』巻124に大赦・大赦天下の記載は見られない。むしろ「荒酒奢淫,殺戮無度,誅其王公以下五百餘人,内外震局,莫敢忤視」と、恩赦とは対照的な粛清・虐殺の記述のみである。帝紀(安帝紀)にある戊子日の「大赦」は隆安元年4月、東晋(安帝)による大赦であり慕容詳とは無関係。
立后回数
慕容詳が皇后を立てたとする記載は『晋書』巻124に見られない。在位が数ヶ月と極めて短く、立后の記録はない。
皇太子廃立回数
同上
親征回数
在位は隆安元年(397年)5月僭称即位〜同年9月に慕容麟に討たれるまでの約4ヶ月間、一貫して中山城内に留まっており、自ら軍を率いて城外へ出征した記録は『晋書』巻124(慕容宝載記)に見当たらない。即位前、開封公として中山守備中に城内へ突入してきた慕容会を斬った事績があるが、これは城内での討ち取りであり出征(遠征)に該当せず、かつ即位前・慕容宝の臣下としての行動のため対象期間外として計上しない。
反乱鎮圧回数
詳自身の在位期間(397年5月〜9月)中に、蜂起を鎮圧したという記録はない。在位中の軍事事象は専ら慕容麟軍による中山攻撃・詳の敗死のみで、詳の側が鎮圧の主体となった事例は存在しない。なお即位直前に開封公として慕容会(慕容宝に対して挙兵していた将)を中山城内で討ち取った事績があるが、これは慕容宝の臣下としての行動であり詳自身の在位期間(皇帝僭称後)より前の出来事のため対象外とした。また在位中「誅其王公以下五百余人」という粛清の記述があるが、これは臣下に対する一方的な処刑であり、相手方が武力蜂起した記録がないため反乱鎮圧には該当しない(例外3に相当)。
被反乱回数
麟・詳とも後燕(慕容宝政権)崩壊後に中山で自立した対立僭称君主同士の抗争であり、対等な別政権間の統一戦争ではなく同一王朝内部の帝位継承争いとみなしてrebellionSufferedCountに計上した(南北朝ブロックの対立君主パターンと同型の扱い)。
遷都回数
晋書載記を通読。中山→龍城の遷都は慕容宝の代の出来事で、以後の各代(慕容詳・慕容麟・慕容盛・慕容煕)には龍城からの追加の遷都記録はない。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(reigns.note/accessionRoute.note/deathCause.note/eraChangeCount等)および_corpus_cache/houyan-murongxiang.txt(『晋書』巻124慕容宝載記の該当箇所抜粋)を確認したが、生年月日・即位時年齢・享年についての直接記載は見当たらなかった。慕容詳は397年5月に中山で皇帝を僭称し同年9月に慕容麟の丁零軍に討たれるまでの約4ヶ月間のみ在位した短命の僭称君主であり、原典(晋書載記)にも生没年・享年の記載は存在しない。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱397年9月慕容麟・丁零軍による中山攻撃
首謀者: 慕容麟
結果: 慕容麟が丁零の軍勢を率いて中山に入城し、詳とその親党300余人を斬殺。詳の在位(隆安元年5月〜9月、約4ヶ月)はここで終了し、麟が続いて中山で帝位を僭称した。
『晋書』巻124慕容宝載記「麟率丁零之衆入中山,斬詳及其親黨三百餘人,復僭稱尊號」。慕容麟は本データセットに別人物(houyan-muronglin)として収録されている対立君主で、五胡十六国ブロックの『同一王朝を称する対立政権の首謀者パターン』に該当する。詳の側から見れば自らの政権(中山で僭称した帝位)を武力で打倒された事例であり、鎮圧できないまま在位終了(討死)に至ったためrebellionSufferedCountに1件計上し、rebellionSuppressionCountには計上しない。
改元日付不詳慕容宝が魏軍に敗れ龍城へ逃走し生死不明となった混乱に乗じ、中山守備を任されていた開封公・慕容詳が隆安元年(397年)5月、中山で自ら皇帝を僭称。
慕容宝が魏軍に敗れ龍城へ逃走し生死不明となった混乱に乗じ、中山守備を任されていた開封公・慕容詳が隆安元年(397年)5月、中山で自ら皇帝を僭称。即位に伴い百官を設置し、新元号を制定(建元)した(「詳僭稱尊號,置百官,改年號」)。帝紀(安帝紀)でも同年5月の記事として「慕容寶將慕容詳僭即皇帝位於中山,寶奔黃龍」と対応。
出典: 晉書/卷124 慕容寶載記