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後燕(五胡十六国)第3代

慕容詳

在位 397年(183日)

日本は古墳時代

慕容詳は後燕の開封公で、397年に慕容宝が北魏に囲まれた中山を出たのち、城中の人々に主に立てられ、やがて皇帝を称した。

慕容詳の人物データ

生年
不詳
在位
  • 397年〜397年
183日長い順321位/365人即位の年齢は不詳
没年
397年年齢不詳
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
  • 恵愍帝後燕慕容詳は恵愍帝の同族(遠縁)
次代
  • 慕容麟後燕慕容麟は慕容詳の同族(遠縁)
呼び名
姓慕容諱詳呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻一百二十四 載記第二十四(慕容寶・盛・熙・雲合巻、慕容詳部分)
死因
晉書/卷124
即位経路
晉書/卷124

生涯

どんな皇帝か

飢えた城中で殺戮を重ね、その年のうちに慕容麟に急襲されて斬られた。

即位まで

慕容皝の曾孫で、396年に上谷だったとき、北魏の兵が燕の広寧太守を斬ると郡を捨てて逃げた。397年、慕容宝が北魏に囲まれた中山を出ると、城中の人々に主に立てられ、門を閉ざして魏軍を拒いだ。兵を遣わして慕容麟を急襲してその妻子を捕らえ、慕容宝に背いて逃げてきた慕容会も殺した。歩卒を出して魏の屯営を襲ったが、撃破された。慕容宝が遣わした庫傉官驥が中山に入ると、これと攻め合って驥を殺し、庫傉官氏を滅ぼした。自分の力で魏軍を退けたと自負して皇帝の位に即き、建始とした。を誦して燕の人々に重んじられていた魏王の弟の拓跋觚を殺して、衆心を固めた。

史料について

晋書のと十六国春秋の別伝は、慕容宝が中山を出るとき慕容詳に守りを任せたとし、資治通鑑と魏書は城中の人々が主に立てたとする。慕容宝との続柄は、確かめた即位前後の記事には無い。魏書は慕容詳を普鄰の名で呼ぶ。出した歩卒を、魏書は太祖紀で六千余、長孫肥伝で千余とする。

治世と最期

酒におぼれて奢りにふけり、殺戮に際限がなく、王公以下五百余人を誅して内外を震え上がらせた。城中は飢えてにも餓死する者が出たが、民が野生の穀物を採りに出ることを許さず、人々は趙王の慕容麟を迎えようと謀るに至った。

やがて租を取り立てに出した張驤の軍に慕容麟が入り込み、閉じていなかった城門から中山を急襲して、慕容詳とその親党を斬った。北魏が中山を落とすと、拓跋珪は慕容詳の墓を暴いて屍を斬った。

慕容詳とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(397年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

397年の地図に、慕容詳が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・改元1
  1. 改元397年6月元号を「建始」とする
  2. 反乱397年8月慕容麟・丁零軍による中山攻撃

後燕の歴代皇帝

歴代7人の一覧
  1. 第5代蘭汗皇帝を名乗っていない398年

年表

五胡十六国の時代を年表で見る

後燕が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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