慕容詳は後燕の開封公で、397年に慕容宝が北魏に囲まれた中山を出たのち、城中の人々に主に立てられ、やがて皇帝を称した。
慕容詳の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 397年〜397年
- 没年
- 397年年齢不詳
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 呼び名
- 姓慕容諱詳呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百二十四 載記第二十四(慕容寶・
盛・ 熙・ 雲合巻、慕容詳部分) - 死因
- 晉書/卷124
- 即位経路
- 晉書/卷124
生涯
どんな皇帝か
飢えた城中で殺戮を重ね、その年のうちに慕容麟に急襲されて斬られた。
即位まで
慕容皝の曾孫で、396年に上谷太守郡を治める長官だったとき、北魏の兵が燕の広寧太守を斬ると郡を捨てて逃げた。397年、慕容宝が北魏に囲まれた中山を出ると、城中の人々に主に立てられ、門を閉ざして魏軍を拒いだ。兵を遣わして慕容麟を急襲してその妻子を捕らえ、慕容宝に背いて逃げてきた慕容会も殺した。歩卒を出して魏の屯営を襲ったが、撃破された。慕容宝が遣わした庫傉官驥が中山に入ると、これと攻め合って驥を殺し、庫傉官氏を滅ぼした。自分の力で魏軍を退けたと自負して皇帝の位に即き、建始と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。経書儒学の教えの基本となる古典を誦して燕の人々に重んじられていた魏王の弟の拓跋觚を殺して、衆心を固めた。
史料について
晋書の載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録と十六国春秋の別伝は、慕容宝が中山を出るとき慕容詳に守りを任せたとし、資治通鑑と魏書は城中の人々が主に立てたとする。慕容宝との続柄は、確かめた即位前後の記事には無い。魏書は慕容詳を普鄰の名で呼ぶ。出した歩卒を、魏書は太祖紀で六千余、長孫肥伝で千余とする。
治世と最期
酒におぼれて奢りにふけり、殺戮に際限がなく、王公以下五百余人を誅して内外を震え上がらせた。城中は飢えて公卿朝廷の位の高い大臣たちにも餓死する者が出たが、民が野生の穀物を採りに出ることを許さず、人々は趙王の慕容麟を迎えようと謀るに至った。
やがて租を取り立てに出した張驤の軍に慕容麟が入り込み、閉じていなかった城門から中山を急襲して、慕容詳とその親党を斬った。北魏が中山を落とすと、拓跋珪は慕容詳の墓を暴いて屍を斬った。
慕容詳とつながる皇帝

勢力図
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397年の地図に、慕容詳が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・改元1
- 改元397年6月元号を「建始」とする
- 反乱397年8月慕容麟・
丁零軍による中山攻撃
後燕の歴代皇帝
歴代7人の一覧- 第1代成武帝386–396年病死
- 第2代恵愍帝396–398年暗殺
- 第3代慕容詳397年処刑
- 第4代慕容麟397–398年自害
- 第5代蘭汗皇帝を名乗っていない398年
- 第6代昭武帝398–400年暗殺
- 第7代昭文帝401–407年処刑
年表
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