成武帝
後燕(五胡十六国)|在位 386–396年

- 諱(本名)
- 慕容垂
- 廟号
- 世祖
- 在位
- 386–396年
- 在位期間
- 10年155日365名中130位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 71歳(数え年)269名中・長寿順9位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 5回112名中12位タイ
- 反乱鎮圧
- 3回225名中129位タイ
- 被反乱
- 3回289名中146位タイ
- 遷都
- 0回
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:成武帝
即位の経緯
前秦崩壊後、太元8年に滎陽で大将軍・大都督・燕王を自称して自立し、太元11年(386年)に正式に皇帝を僭称した後燕の建国者。
出典: 晉書/卷123 慕容垂載記
死因の経緯
参合陂の戦い後、平城北方で疾篤となり撤退。太元21年(396年)、上谷郡沮陽にて71歳で病死(「以太元二十一年死,時年七十一」)。
出典: 晉書/卷123 慕容垂載記
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
固有注意事項に従い、燕王自立時の建元(燕元)と皇帝号僭称時の改元(建兴)の2回をeraChangeCountに含めた。これ以降、慕容垂死去(太元二十一年/396年)までの間に新たな改元の記載は載記中に見当たらない。
大赦回数
載記本文中に「赦」の字が現れるのはこの即位時の一箇所のみ(grep確認済み)。文言は「大赦天下」ではなく「赦其境内」だが、後燕という地方政権の全領域を指すため大赦に準じるものとして扱った。他に大赦の記載は見当たらない。
立后回数
同じ載記内で「追尊母兰氏为文昭皇后,迁皝后段氏」という記述もあるが、これは父・慕容皝の妃(垂の継母)に関する追尊・改葬の記事であり、垂自身の立后とは別人・別事象のため区別してカウント対象から除外した。垂自身の皇后冊立は「立其夫人段氏为皇后」の1件のみ。
皇太子廃立回数
載記中に「废」の字は2箇所現れるが、いずれも皇太子廃立とは無関係(「皇纲废驰」=綱紀が乱れる、「天之所废」=天に見放される、という文脈)。太子宝は燕王自立時(384年)および皇帝即位時(386年)の2度にわたり「立宝为(燕王)太子」と冊立されているが、廃立の記載は一切なく、慕容垂の在位中(384~396年)を通じて太子宝が廃されたことを示す記述はない。
親征回数
『晋書』巻123 慕容垂載記を第一次史料とし、『晋書』孝武帝紀の記事で年月を補完した。即位前(太元九年/384年の燕王自立)から在位終了(太元二十一年/396年崩御)までを対象期間とし、本人が軍を率いた5件の遠征を計上した。苻定ら前秦残党への遠征・高句麗への対応はいずれも部将への派遣(慕容楷・慕容農等)で本人不出征のため除外した。
反乱鎮圧回数
いずれも後燕(垂)の配下・官吏(河南王に封じられた翟斌一族、建節将軍徐巌、清河太守賀耕)による反乱であり、服属民・臣下の反乱として計上した。翟遼・翟釗(翟魏)や慕容永(西燕)、苻丕(前秦残党)、北魏との抗争は対等な独立政権同士の統一戦争と判断し、鎮圧・被反乱いずれからも除外してpersonalCampaignCountにのみ計上した。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと完全に対称(同一の3件を両面計上)。いずれも垂の在位中に鎮圧が完了しており、未鎮圧のまま在位終了した反乱は載記中に確認できなかった。翟遼・翟釗(翟魏)、慕容永(西燕)、苻丕(前秦残党)、北魏との戦争は対等な独立政権同士の統一戦争と判断し除外した。
遷都回数
晋書載記を通読。後燕建国時の中山定都(建国時の定都)から396年崩御まで中山が都。中山→龍城の遷都は子・慕容宝の代の出来事。
即位時年齢・没年齢
『晋書』慕容垂載記末尾に「垂至上谷之沮阳,以太元二十一年死,时年七十一,凡在位十三年」とあり、没年(太元21年=396年)と享年71歳が明記されている。誕生日・即位時年齢の直接記載はなし(没年から逆算すると生年は326年頃と推定されるが、原文に明記はないためbirthDateはnullとした)。
在位中の出来事(15件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征384年〜386年前秦(苻丕)
対象: 前秦(苻丕)
結果: 太元九年(384年)、前秦から離反して滎陽で大将軍・大都督・燕王を自称して挙兵し、鄴城に拠る苻丕を包囲。東晋の龍驤将軍劉牢之による救援軍とも交戦し(一時敗れて鄴の包囲を解いたが再度攻勢)、太元十一年(386年)十月に河東で苻丕本軍を撃破。苻丕は東垣へ敗走した後、東晋の将軍馮該に斬られた。鄴城は後燕の支配下に入った。
起兵の正確な月日は不明(載記は「太元八年」、通行の紀年は「太元九年」とする既存の慕容垂レコードの説明と同一の食い違いあり)。終期の河東での苻丕撃破は『晋書』孝武帝紀に「冬十月」と明記され月精度で判明するが、開始年のみ精度が粗いため全体のdatePrecisionは年精度とした。
反乱鎮圧384年〜386年丁零翟斌・翟真・翟成の乱
首謀者: 翟斌(のち甥の翟真、翟真の族弟の翟成が継承)
結果: 垂の統府下で建義大将軍・河南王に封じられていた丁零族の翟斌が、尚書令の地位を求めて容れられなかったことに怒り前秦の苻丕に内通、丁零に命じて堤防を決壊させる謀反を企てたが事前に発覚し垂に誅殺された。甥の翟真がこれを継いで邯鄲・承営・行唐で抵抗を続けたが(一時は慕容楷の追撃軍を下邑で破るなど抵抗)、味方内部の内紛(司馬鮮于乞による翟真殺害と自立、その鮮于乞誅殺後の翟成擁立)を経て弱体化し、最終的に翟成配下の長史鮮于得が翟成を斬って投降。垂みずから行唐に入り残党を悉く坑殺して完全に鎮圧した。
鄴城包囲戦(対苻丕)と同時進行の内乱。垂の皇帝即位(太元十一年正月)以前に鎮圧完了と読める載記の記事順から、太元九〜十年(384〜385年)頃と推定した。
被反乱384年〜386年丁零翟斌・翟真・翟成の乱
首謀者: 翟斌(のち甥の翟真、翟真の族弟の翟成が継承)
結果: 垂の統府下で建義大将軍・河南王に封じられていた丁零族の翟斌が前秦の苻丕に内通して謀反を企てたが発覚し誅殺された。甥の翟真がこれを継いで邯鄲・行唐で抵抗を続けたが、味方内部の内紛を経て弱体化し、最終的に垂みずから行唐に入り残党を悉く坑殺して完全に鎮圧した。
rebellionSuppressionCountと同一事象を反対側から計上(対称基準)。太元九〜十年(384〜385年)頃と推定。
反乱鎮圧385年建節将軍徐巌の乱
首謀者: 徐巌
結果: 後燕の建節将軍徐巌が武邑で反乱を起こし、民衆四千余人を掠奪して幽州方面へ逃走した。垂配下の平規は垂の「固守して戦わず、丁零を破ってから自ら討伐する」との命令に反して迎撃し敗北、徐巌は薊を陥として千余戸を掠め令支に拠った。最終的に慕容農が令支を攻略し徐巌兄弟を斬って鎮圧した。
載記では丁零翟真の乱の鎮圧記事の直前・鄴城陥落前(皇帝即位前)に置かれており、太元十年(385年)頃と推定した。垂本人ではなく慕容農による鎮圧。
被反乱385年建節将軍徐巌の乱
首謀者: 徐巌
結果: 後燕の建節将軍徐巌が武邑で反乱を起こし民衆を掠奪して幽州方面へ逃走、垂配下の平規を破って薊・令支を占拠したが、最終的に慕容農が攻略し徐巌兄弟を斬って鎮圧した。
rebellionSuppressionCountと同一事象を反対側から計上(対称基準)。太元十年(385年)頃と推定。
親征386年〜387年翟遼(丁零・翟魏)
対象: 翟遼(丁零・翟魏)
結果: 太元十一年(386年)の皇帝即位後、みずから諸将を率いて南下し翟遼を攻撃。翟遼は黎陽で肉袒(上衣を脱ぎ謝罪の意を示す作法)して降伏し、垂はこれを厚遇して赦した。
『晋書』慕容垂載記には即位後・丁零平定後の記事として置かれているが具体的な月日の記載がなく、翟遼の子・翟釗が跡を継ぐ(388年頃)までの間と推定した(confidence個別には中程度)。
反乱鎮圧386年〜387年清河太守賀耕の乱
首謀者: 賀耕
結果: 後燕の清河太守賀耕が定陵で挙兵し翟遼(当時なお黎陽に割拠)に呼応したが、慕容農がこれを討伐・斬殺し定陵城を破却した。
載記では垂の翟遼親征(太元十一年即位後)の直後に置かれており、太元十一〜十二年(386〜387年)頃と推定した。垂本人ではなく慕容農による鎮圧。
被反乱386年〜387年清河太守賀耕の乱
首謀者: 賀耕
結果: 後燕の清河太守賀耕が定陵で挙兵し翟遼に呼応したが、慕容農に討伐・斬殺され鎮圧された。
rebellionSuppressionCountと同一事象を反対側から計上(対称基準)。太元十一〜十二年(386〜387年)頃と推定。
親征389年6月翟釗(丁零・翟魏)
対象: 翟釗(丁零・翟魏)
結果: 太元十四年(389年)六月、翟遼の死後に後を継いだ翟釗を黎陽・滑台で急襲。牛皮船で夜間に黄河を渡る奇策で翟釗軍を撃破し、翟釗は西燕の慕容永のもとへ敗走した。翟釗配下の七郡三万八千戸を接収し、翟魏は事実上滅亡した。
『晋書』孝武帝紀に「戊午、慕容垂袭翟钊于黎阳,败之,钊奔于慕容永」とあり、載記の記述と整合する。
親征394年8月西燕(慕容永)
対象: 西燕(慕容永)
結果: 太元十九年(394年)八月、対立政権であった西燕の慕容永を長子に攻撃。潞川の戦いで西燕軍を大破(斬首八千余級)し晋陽を陥落させた後、長子を包囲。慕容永は捕らえられ処刑された。西燕旧領八郡七万六千八百戸を接収し、西燕は滅亡した。
『晋書』孝武帝紀に「八月己巳……慕容垂击慕容永于长子,斩之」と明記され、載記の記述と整合する。
親征396年2月〜396年3月北魏(拓跋部)
対象: 北魏(拓跋部)
結果: 太元二十一年(396年)、みずから大軍を率いて参合を経て平城を攻撃してこれを陥落させ、北魏軍三万余人を降した(陳留公拓跋虔の軍を破る)。しかし帰途、前年(太元二十年)の参合陂の戦いで戦死した将兵の白骨が積み重なる古戦場を目にして慙愧・慟哭のあまり吐血して発病、まもなく上谷郡沮陽で崩御した。
出兵開始の正確な月は載記に明記されないが、『資治通鑑』系統の記述(孝武帝紀「三月、慕容垂攻平城,拔之」)により平城陥落は太元二十一年三月と判明。この遠征が慕容垂の死因(deathCause)と直結する最後の親征。
改元太元八~九年(384年頃)【皇帝即位前】荥阳にて「自称大将军、大都督、燕王,承制行事,建元曰燕元」と、燕王自立とともに「燕元」の元号を建てた(建国者の最初の建元)。
【皇帝即位前】荥阳にて「自称大将军、大都督、燕王,承制行事,建元曰燕元」と、燕王自立とともに「燕元」の元号を建てた(建国者の最初の建元)。載記原文は「以太元八年」と記すが、通行の紀年(『晋書』孝武帝紀・『資治通鑑』等)では慕容垂の燕王自立・挙兵は太元九年(384年)とされ、本紀側の記述(太元十一年に皇帝僭称)とも整合する。原典の年次表記に一年のずれの可能性があるため日付precisionはuncertainとした。
出典: 晉書/卷123 慕容垂載記(載記第二十三)
改元太元十一年(386年)【皇帝即位(改元同時)】中山にて群臣に推されて皇帝号を僭称(即位)し、「改元曰建兴」と改元。
【皇帝即位(改元同時)】中山にて群臣に推されて皇帝号を僭称(即位)し、「改元曰建兴」と改元。『晋書』孝武帝紀にも「十一年春正月辛未,慕容垂僭即皇帝位于中山」と対応する記事があり、太元十一年(386年)で確定。
出典: 晉書/卷123 慕容垂載記(載記第二十三); 晉書/孝武帝紀
大赦太元十一年(386年)慕容垂が中山で皇帝を僭称(即位)した際に「赦其境内」と明記。
慕容垂が中山で皇帝を僭称(即位)した際に「赦其境内」と明記。地方政権(後燕)としての「境内」全域への恩赦であり、全国規模の大赦に相当するものとしてカウントした。
出典: 晉書/卷123 慕容垂載記(載記第二十三)
立后日付不詳「为其太子宝起承华观,以宝录尚书政事……立其夫人段氏为皇后」との記載があり、慕容垂の夫人・段氏が皇后に冊立されたことが明記されている(この段氏は後に慕容宝の代に自尽を強要されたことで知られる元妃段氏)。
「为其太子宝起承华观,以宝录尚书政事……立其夫人段氏为皇后」との記載があり、慕容垂の夫人・段氏が皇后に冊立されたことが明記されている(この段氏は後に慕容宝の代に自尽を強要されたことで知られる元妃段氏)。ただし本文中に具体的な年月日の記載はなく、記述の位置(皇帝即位・立太子の記事の直後)から386年(太元十一年)以降まもない時期と推測されるが特定できない。
出典: 晉書/卷123 慕容垂載記(載記第二十三)