赫連定
夏・五胡(五胡十六国)|在位 428–431年
- 諱(本名)
- 赫連定
- 在位
- 428–431年
- 在位期間
- 2年364日365名中224位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 4回112名中18位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
兄・赫連昌が北魏に敗れて捕らえられた後、平涼に逃れて自ら尊号を称し即位した(『魏書』原文「昌敗,定奔於平涼,自稱尊號,改年勝光」)。禅譲等の正式な手続きはないが、夏という同一王朝内での皇位継続と見なし世襲に分類。
出典: 魏書/卷95補記: zh.wikisource.org原文
死因の経緯
431年、北涼遠征の途上で服属していたはずの吐谷渾(慕璝)に裏切られて捕縛され、北魏の首都平城に送られた。『魏書』巻95原文「神䴥四年,為吐谷渾慕璝所襲,擒定,送京師,伏誅」。夏はこれにより滅亡。
出典: 魏書/卷95補記: zh.wikisource.org原文
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
列傳の記述は簡潔で、赫連定の在位中(勝光年間)に別の改元があったことを示す記載は見られない。即位に伴う建元1回のみを確認。
大赦回数
魏書列傳第八十三(夏国伝、赫連定の記述部分=行6015)には「大赦」「大赦天下」等の記載は見られない。なお同時期の北魏側帝紀(世祖紀)には北魏自身の大赦記事があるが、これは北魏皇帝の行為であり赫連定自身の在位中の恩赦ではないため対象外とした。
立后回数
赫連定の皇后冊立に関する記載は見られない。在位期間が短く(平涼で自立後、間もなく吐谷浑に捕縛・北魏に送られ処刑)、宮廷制度整備の記事自体が乏しい。
皇太子廃立回数
赫連定の在位期間(胜光年間、平涼を拠点とした短期政権)中に皇太子の立太子・廃立に関する記載は見られない。定自身は兄・赫連昌の廃太子(族兄弟間の内紛)とは別人物であり、定自身が皇太子を廃した記録はない。
親征回数
427年(即位前、兄昌治世下)に平原公として長安で奚斤と戦い上邽へ敗走した戦役は、定自身がまだ君主でなかったため親征カウントから除外した。431年正月の乞伏暮末(西秦)討滅は将軍韋代が一万を率いて南安を包囲・攻略しており、定本人は上邽に留まっていたと読めるため親征に含めなかった。
反乱鎮圧回数
在位期間(428年〜431年6月)中、夏国内部からの反乱・離反蜂起を鎮圧した記録は魏書夏国伝・帝紀に見当たらない。定が交戦した相手(北魏・西秦・北涼・吐谷渾)はいずれも定の統治下にない独立政権であり、五胡十六国ブロックの基準により鎮圧・被反乱の対象外とした。
被反乱回数
弟の酒泉公俊が429年正月に平涼から北魏へ出奔した記録があるが、これは離反・亡命であり武力を伴う反乱蜂起ではないため計上しなかった。定は在位を通じて北魏(旧宗主)・西秦・北涼・吐谷渾という独立政権との抗争に終始しており、統治下の服属民による反乱は確認できなかった。
遷都回数
晋書載記を通読。赫連勃勃の統万城定都(建国時の定都、群臣の長安遷都進言を明確に拒否)から427年の統万陥落後の平涼転戦期を含め、恒久的な再定都は確認されない。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(reigns[0].note)・_corpus_cache/xia-heliading.txt(『十六国春秋』巻六十八 夏録三)を確認したが、赫連定本人の生年・享年に関する直接記載(「時年」「享年」等)は見当たらなかった。原文は「赫連定小字直獖勃勃之第五子也」(勃勃の第五子と明記するのみ)で始まり、即位記事・捕縛記事・処刑記事(「其明年春三月壬申慕璝送定至魏世祖殺之是魏延和元年也」=432年、延和元年三月壬申)にも年齢の言及なし。没日(432年5月13日)は既存データの暦換算値をそのまま採用(延和元年三月壬申の西暦換算、reigns[0].noteに既記載)。accessionAge/deathAgeは調査したが原典に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかったためnullとする。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征428年3月北魏(奚斤軍)
対象: 北魏(奚斤軍)
結果: 平涼馬髦嶺で自ら追撃してきた北魏司空奚斤軍を迎撃・伏撃し、奚斤・娥清・劉抜らを捕らえ、魏兵六、七千人を討ち取る大勝を収めた。
魏書列伝(奚斤伝)に「定知斤軍無糧乏水,乃邀斤前後」とあり定自身の用兵と明記。
親征429年5月北魏(統万城)
対象: 北魏(統万城)
結果: 旧夏都・統万城(当時北魏が占拠)に自ら侵攻し、東は侯尼城まで進んだが占領には至らず撤退した。
魏書帝紀「是月,赫連定来侵統万,東至侯尼城而還」。
親征430年9月〜430年11月北魏(隗歸・世祖親征軍)
対象: 北魏(隗歸・世祖親征軍)
結果: 鄜城を攻めた弟の敗報を受け自ら数万を率いて隗歸を討ちに東進したが、平涼への北魏世祖親征を知り引き返して救援。古弼軍に鹑觚原で撃破され、平涼籠城中に水源を断たれて大敗、重傷を負い単騎で上邽へ逃走した。
一連の防衛戦(対隗歸出撃→平涼救援→籠城敗走)として1回にまとめた。
親征431年6月北涼(沮渠蒙逊)
対象: 北涼(沮渠蒙逊)
結果: 上邽から北上して沮渠蒙逊(北涼)を襲おうとしたが、行軍中に吐谷渾の慕璝に急襲されて捕らえられ、北魏の都へ送られた(翌年処刑)。
魏書帝紀「六月,赫連定北襲沮渠蒙遜,為吐谷渾慕璝所執」。
改元日付不詳赫連昌が北魏軍に敗れて捕らえられた後、赫連定は平涼に逃れて自ら尊号を称し(皇帝に即位)、「勝光」と改元した(原文:「昌敗、定奔於平涼、自稱尊號改年勝光」)。
赫連昌が北魏軍に敗れて捕らえられた後、赫連定は平涼に逃れて自ら尊号を称し(皇帝に即位)、「勝光」と改元した(原文:「昌敗、定奔於平涼、自稱尊號改年勝光」)。夏国最後の年号であり、これが赫連定期の唯一の建元・改元記事。
出典: 魏書列傳第八十三(夏国伝)