赫連定の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 428年〜431年
- 没年
- 432年5月13日年齢不詳
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 簒奪前の皇帝を退けて、自ら位を奪った即位。
- 先代
- 赫連昌夏・
五胡 赫連定は赫連昌の弟
- 赫連昌夏・
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓赫連諱定幼名直獖呼び名の見方
出典
- 在位
- 十六国春秋輯補 巻六十八 夏録三(赫連定)
- 死因
- 魏書/卷95
- 即位経路
- 魏書/卷95
生涯
どんな皇帝か
晋書は、平涼で帝号皇帝という称号を称しついに魏に滅ぼされたと一句で記し、別の載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録で慕末を殺したと書く。
即位まで
赫連勃勃の第五子で、若いころから凶暴無頼で、父に認められていなかった。427年に北魏が統万を攻めたとき、兄の赫連昌が呼び戻そうとすると、赫連定は、城は堅いので奚斤らを捕らえてから内と外から撃てばよいと答え、兄もそれをもっともだとした。428年に兄が北魏に捕らえられると、残兵数万を集めて平涼に戻り、即位して勝光と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
史料について
427年の言葉は、魏に降った夏の将が伝えた話である。即位の形を、魏書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は残衆が王に立てたとし、同じ魏書の夏の記事は尊号たたえて贈る呼び名や、皇帝など君主の位の称号を称したとし、資治通鑑と十六国春秋は皇帝の位に即いたとする。
治世と最期
同じ年、追ってきた北魏の奚斤らを隴山の弾箏谷の伏兵で挟み撃ちにして捕らえ、魏兵六、七千人を殺した。429年には弟の酒泉公が北魏へ奔った。同じ年、統万を取り返そうと東へ兵を進めたが、侯尼城まで来て引き返した。山に登って本国を望み、先帝が自分に大業を継がせていたらと泣き、狐の群れを射させても一匹も得られないと、ああ天道よと嘆いた。
430年に宋と河北を分ける約を結ぶと、北魏の太武帝は先に赫連を討とうとし、崔浩も、赫連定は残った根で摧きやすいと西征を勧めた。平涼の救援に向かうと鶉觚原で水を断たれて大敗し、重傷を負って上邽へ逃れ、弟たちも捕らえられた。まもなく平涼も落ち、囚われていた奚斤らは救い出され、太武帝は赫連定の妻を豆代田に賜った。
431年、叔父に南安を攻めさせて西秦の乞伏暮末を降し、暮末とその一族五百余人を殺した。北魏を恐れて民十余万を連れ、黄河を渡って北涼の地を奪おうとしたが、渡河の途中で吐谷渾に襲われて捕らえられた。432年に北魏へ送られて殺された。
史料について
奚斤を、宋書は斬ったとし、資治通鑑の考異は魏書に従って捕らえたとする。侯尼城で進む勇気がなかったとするのは十六国春秋で、魏書は引き返したとだけ書く。豆代田に賜ったのを、魏書は妻、十六国春秋は后とする。魏書の本紀は北魏へ送ったことだけを記し、宋書は引き渡しまでを書いて、殺されたことを書かない。
赫連定とつながる皇帝

勢力図
南北朝の勢力図で見る
428–430年の地図に、赫連定が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
親征4・改元1・大赦1
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。428年兄の赫連昌が北魏に敗れて捕らえられたあと、残兵数万を収めて平涼に拠り皇帝位に即いて境内へ殊死已下の赦を行った。
- 改元428年3月元号を「勝光」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。428年4月北魏(奚斤軍)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。429年北魏(統万城)
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。430年北魏(隗歸・
世祖親征軍) - 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。431年7月北涼(沮渠蒙遜)
夏・五胡の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代武烈帝419–425年病死
- 第2代赫連昌425–428年処刑
- 第3代赫連定428–431年処刑
年表
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