中国皇帝統計

慕容麟

後燕(五胡十六国)|在位 397–398年

諱(本名)
慕容麟
在位
397–398年
在位期間
151日365名中332位
即位経路
簒奪
死因
自尽
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
0
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
0
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

慕容詳を武力で排除した後、麟自身も中山で帝位を僭称。禅譲等の形式を経ない実力による即位。

出典: 晉書/卷124補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

北魏に敗れ鄴に逃亡し叔父・慕容徳(南燕)に降伏、司空・尚書令に任じられたが、密かに反乱を謀ったことが発覚し賜死(自裁を命じられた)(「事覺,賜死」)。実行形式が本人による自裁のため自尽に分類。

出典: 晉書/卷127 慕容徳載記

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

直前に帝号を僭称した慕容詳については『晋書』に「詳僭稱尊號,置百官,改年號」と明記されているのに対し、麟については「麟率丁零之衆入中山,斬詳及其親黨三百餘人,復僭稱尊號」とあるのみで、改元・建元を示す記述がない。同一史料内で詳の建元が明記されている点との対比から、麟については建元の記録自体が存在しないと判断し、confidenceはmediumとした(在位が約1〜2ヶ月と極めて短く、即位直後から新市出撃・義台敗戦・鄴逃亡と続いたため、正式な改元手続きを行う余裕がなかった可能性が高い)。

大赦回数

『晋書』巻124慕容宝載記に「麟率丁零之衆入中山,斬詳及其親黨三百餘人,復僭稱尊號。中山饑甚,麟出據新市,與魏師戰于義臺,麟軍敗績。魏師遂入中山,麟乃奔鄴」とあるのみで、大赦の記事は一切ない。中山は飢饉のさなかで、即位直後から新市への出撃・義台での敗戦・鄴への逃亡と続く極めて短い(約1〜2ヶ月)在位期間であり、恩赦を行う余裕・機会がなかったと考えられる。

立后回数

慕容麟が皇后を冊立したという記述は原文に見当たらない。在位が極めて短期(約1〜2ヶ月、中山飢饉下での即位から新市出撃・義台敗戦・鄴逃亡まで)であり、宮廷儀礼を行う時間的余裕がなかったとみられる。

皇太子廃立回数

慕容麟の在位中に皇太子を立てた記録も廃した記録もない。在位が約1〜2ヶ月と極めて短く、中山陥落・鄴逃亡に至るまで軍事的混乱の連続であったため、立太子・廃太子の余地がなかったとみられる。

親征回数

在位はわずか約1ヶ月(397年9月即位〜10月敗走)で、記録されている軍事行動はこの北魏との義台の戦いのみ。なお、即位直前に丁零の衆を率いて中山に入り慕容詳とその党300余人を斬った行動(麟率丁零之衆入中山,斬詳及其親黨三百餘人,復僭稱尊號)は、麟が即位する直前・即位を成立させる行為そのもの(先行君主号なしの実力奪権)であり、対等政権への親征や在位中の反乱鎮圧のいずれの性質とも異なるため、personalCampaignCount・rebellionSuppressionCountいずれにも計上しなかった(データセット上はaccessionRouteフィールドの『簒奪』としてすでに記録済み)。

反乱鎮圧回数

在位期間(397年9月〜10月頃)を通じて、麟の政権に対する内部の反乱・蜂起の記録は見当たらない。在位中に直面した唯一の脅威は対等な独立政権である北魏であり、これは鎮圧・被反乱の対象外(親征の対象)とした。即位直前の慕容詳誅殺は慕容詳が麟に対して反乱を起こしたものではなく、麟が実力で先行の僭主を打倒して即位した行為であるため対象外。

被反乱回数

麟の在位中(即位から北魏に敗れ鄴へ敗走するまでの約1ヶ月間)に、部下・服属民による反乱を受けた記録は見当たらない。政権崩壊の直接の原因は対等な独立政権である北魏との軍事的敗北(外征の失敗)であり、内部からの反乱ではない。なお鄴に逃れた後(慕容徳への服属後、司空・尚書令として仕えた時期)に麟自身が反乱を謀って発覚し賜死されているが、これは麟自身が皇帝を称していた在位期間の後、既に臣下となってからの出来事であり、かつ麟自身が首謀者側(攻撃の主体)であるため、麟の被反乱カウントの対象にはならない。

遷都回数

晋書載記を通読。中山→龍城の遷都は慕容宝の代の出来事で、以後の各代(慕容詳・慕容麟・慕容盛・慕容煕)には龍城からの追加の遷都記録はない。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(reigns/deathCause/accessionRoute等)および_corpus_cache/houyan-muronglin.txtには生年月日・没年齢の記載なし。china-history(晋書白話訳「慕容宝伝」等)・daizhigev20(晋書・資治通鑑注・御批歴代通鑑輯覧・歴代建元考・通典)を横断的に確認したが、同時代人の慕容宝(享年44、隆安三年没)には「時年四十四」の記載があるのに対し、慕容麟については即位(397年)・敗走・慕容徳への降伏・反乱発覚による賜死(隆安二年=398年頃)いずれの場面にも年齢・享年の直接記載が見当たらなかった。調査したが原典に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。

在位中の出来事(1件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

親征397年9月〜397年10月北魏

対象: 北魏

結果: 中山の飢饉の中、麟は新市に出て拠点を構え、義台で北魏軍と交戦したが大敗(麟軍敗績)。中山も北魏軍に陥落し、麟は鄴へ敗走した。これにより麟の帝号僭称も事実上終焉した。

『晋書』巻124慕容宝載記および安帝紀隆安元年条に基づく。麟自身が丁零の衆・自軍を率いて新市に出撃し義台で戦ったことが明記されている(麟出據新市,與魏師戰于義臺,麟軍敗績)。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。