中国皇帝統計

昭武帝

後燕(五胡十六国)|在位 398–400年

諱(本名)
慕容盛
在位
398–400年
在位期間
1年167日365名中278位
即位経路
簒奪
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
29歳(数え年)269名中・長寿順197位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
3112名中24位タイ
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
3289名中146位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:昭武帝

即位の経緯

兄・策を殺害した蘭汗に接近して油断させ、クーデターで蘭汗を討ち取り実権を掌握(「盛夜因如廁…與李旱等誅穆,眾皆踴呼,進攻汗,斬之」)。当初は長楽王として皇帝号を称さず、後に正式に皇帝を称した(「盛於是僭即尊位」)。血統は継ぐが簒奪者から実力で権力を奪取した経緯のため簒奪に分類。

出典: 晉書/卷124補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

左将軍慕容国らのクーデター未遂鎮圧後、その子ら(段璣ら)が夜に禁中で騒乱を起こし、鎮圧に出た盛が賊に襲撃され負傷、その傷がもとで死去(「有一賊從闇中擊傷盛」)。享年29、在位3年。宮廷内部の武官・宗室による謀反のため暗殺に分類。

出典: 晉書/卷124補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位に伴う最初の建元(建平)とその後の正式即位に伴う改元(長楽)の2回をカウント。載記は年月日を明記しないため、帝紀(安帝紀)の干支記事で年を補完した(confidence medium)。

大赦回数

「大赦殊死已下」と明記された2件のみをカウント。称制直後の「赦其境内」(大の字を伴わず、境内限定の恩赦)は「大赦」表記でないため除外した。

立后回数

盛自身の皇后冊立の記事は見当たらない。「尊宝后段氏为皇太后、全妃丁氏为献庄皇后」は伯父全(追尊献庄皇帝)の妃丁氏を追尊したもので、盛自身の在位中の皇后冊立ではないため計上しない。

皇太子廃立回数

盛の在位中に皇太子(子の定、398年建平即位当初は太子未立)を廃した記事はない。定の廃太子は盛の死後、太后丁氏の意向で叔父熙が擁立された際の出来事であり、後継者(熙)側に帰属する事象。

親征回数

晋書載記(慕容盛載記)と資治通鑑(晋紀三十二〜三十四)を照合し、いずれも盛本人の出陣が明記されている事例のみを親征に計上した。李朗の乱鎮圧は将軍李旱の派遣によるもので盛本人は出陣していないため親征には含めない。

反乱鎮圧回数

慕容豪・張通・張順(資治通鑑では留忠ら)の「謀叛」は、原文が「謀叛,盛皆誅之」と摘発・処刑のみを記し実際の挙兵の記述がないため、鎮圧・被反乱いずれにも計上しなかった。

被反乱回数

慕容国・秦舆・段賛の謀議(丁亥、死者500余人)を挙兵前の摘発と解釈して除外したが、死者数の多さから実際に一定の武力衝突を伴った可能性も否定できず解釈の余地がある。段玑によるクーデターとの連続性(同一反乱の第二波と見るか独立事象と見るか)についても史料の記述が簡略で断定は難しい。

遷都回数

晋書載記を通読。中山→龍城の遷都は慕容宝の代の出来事で、以後の各代(慕容詳・慕容麟・慕容盛・慕容煕)には龍城からの追加の遷都記録はない。

即位時年齢・没年齢

晋書載記(卷124)に「俄而有一贼从暗中击伤盛……熙未至而盛死,时年二十九,在位三年」と明記。没年は本文では相対年代のみだが、晋書帝紀第十(安帝紀)隆安五年秋七月条「段玑杀慕容盛」により401年7月と特定できる。生年・即位時の年齢についての直接記載はなし。

在位中の出来事(12件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元398年兰汗を討ち長楽王として称制した際に建元「建平」。

兰汗を討ち長楽王として称制した際に建元「建平」。載記本文は「其年」とのみ記すが、晋書帝紀(安帝紀)隆安二年秋七月条に対応する記事があり398年と推定。

出典: 晋書載記第二十四(慕容宝・盛・熙・雲)

改元398年僭即尊位(正式に皇帝を称す)した際に改元「長楽」。

僭即尊位(正式に皇帝を称す)した際に改元「長楽」。晋書帝紀(安帝紀)隆安二年八月丙戌条「慕容盛僭即皇帝位於黄龍」に対応。

出典: 晋書載記第二十四(慕容宝・盛・熙・雲)

大赦398年慕容盛が兰汗を討って長楽王を称し「摄天子位」した際、僭即尊位して「大赦殊死已下」(死罪以下を大赦)を行った。

慕容盛が兰汗を討って長楽王を称し「摄天子位」した際、僭即尊位して「大赦殊死已下」(死罪以下を大赦)を行った。追尊・立太后・改元「長楽」と同時期の記事。

出典: 晋書載記第二十四(慕容宝・盛・熙・雲)

親征398年慕容奇(丁零嚴生・烏丸王龍之ら反乱勢力)

対象: 慕容奇(丁零嚴生・烏丸王龍之ら反乱勢力)

結果: 龍城近郊の横溝で大破し、慕容奇を捕らえて連行(後に賜死)、龍之・嚴生ら100余人も斬った

資治通鑑は「盛出撃,大破之」と明記し、盛本人の出陣が確認できる

反乱鎮圧398年慕容奇の乱

首謀者: 慕容奇

結果: 鎮圧成功。盛自ら出撃して横溝で大破し、慕容奇を捕らえて連行(後に賜死)、与党の丁零嚴生・烏丸王龍之ら100余人も斬った

兄弟策の子で兰汗の外孫。当初は共に兰汗打倒に協力したが、盛が兰汗を誅した後に兵を返さず丁零・烏丸勢力と結んで叛いた(服属していた勢力の離反のため服属民の反乱として計上)

被反乱398年慕容奇の乱

首謀者: 慕容奇

結果: 盛が自ら出撃して鎮圧に成功

rebellionSuppressionCountと同一事象

反乱鎮圧399年9月李朗(遼西太守)の叛乱

首謀者: 李朗

結果: 鎮圧成功。族滅を恐れた李朗が魏に通じて叛いたが、辅国将軍李旱が令支を攻略し、広威将軍孟広平が無終で李朗を追撃・斬殺した

盛本人は出陣せず将軍李旱・孟広平による鎮圧のため親征には計上しない

被反乱399年9月李朗(遼西太守)の叛乱

首謀者: 李朗

結果: 将軍李旱・孟広平により鎮圧

rebellionSuppressionCountと同一事象

親征400年2月高句麗

対象: 高句麗

結果: 自ら3万の兵を率いて新城・南蘇の二城を落とし、境を七百余里広げ、五千余戸を遼西へ徙して帰還(勝利)

資治通鑑「燈王盛自将兵三万袲之」、平夜・南蘇二城を降した

親征401年庫莫奚

対象: 庫莫奚

結果: 大いに虜獲を得て帰還(勝利)

正確な月日は原典(晋書載記)に記載なし。高句麗遠征後、401年7月の政変直前の記事として載記されるため401年と推定

被反乱401年7月段玑・秦興・段泰らのクーデター(盛弑逆)

首謀者: 段玑

結果: 盛は自ら左右を率いて応戦し賊衆はいったん潰走したが、混乱の中で暗がりから何者かに刺されて負傷、輿で前殿に運ばれた後に死去(在位のまま暗殺され崩御)。首謀者の残党は盛の死後に即位した叔父・熙により捕らえられ夷三族に処された

宮廷内部の武官(前将軍・思悔侯段玑ら)が禁中で夜襲を起こし盛を弑逆したクーデターのため、基準4によりrebellionSufferedCountにのみ計上しrebellionSuppressionCountには含めない。直前(丁亥日)に発覚した左将軍慕容国・秦舆・段賛の謀議(死者500余人)は、実際の挙兵前に摘発された陰謀と判断し別事象として除外した(挙兵に至らぬ謀反計画の除外基準を適用)。

大赦日付不詳子の遼西公定を皇太子に立てた際に「大赦殊死已下」(死罪以下を大赦)を実施。

子の遼西公定を皇太子に立てた際に「大赦殊死已下」(死罪以下を大赦)を実施。庫莫奚討伐前の記事で、正確な年月は原文に明記なし。

出典: 晋書載記第二十四(慕容宝・盛・熙・雲)

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。