中国皇帝統計

昭文帝

後燕(五胡十六国)|在位 401–407年

諱(本名)
慕容熙
在位
401–407年
在位期間
7年365名中159位タイ
即位経路
擁立
死因
処刑
即位時年齢
不詳
没年齢
23歳(数え年)269名中・長寿順219位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
129名中5位タイ
親征
3112名中24位タイ
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:昭文帝

即位の経緯

慕容盛の死後、皇太后丁氏の意向のもと群臣が熙と平原公元のいずれを推すか協議し、群臣の推戴(勸進)を受けて熙が即位(「群臣勸進,熙以讓元,元固以讓熙,熙遂僭即尊位」)。太后・群臣主導の擁立。

出典: 晉書/卷124補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

馮跋ら22人が結盟し慕容雲(後の北燕建国者)を擁立するクーデターを起こす。熙は龍騰苑に微服で隠れているところを捕らえられ、新たに擁立された慕容雲により弑殺された(「為人所執,雲得而弒之」)。享年23、在位6年。捕縛後に新君主の下で処断された形式のため処刑に分類(ユーザー承認済み)。

出典: 晉書/卷124補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

熙の載記全体を通読したが「改元」の語はこの即位時建元1回のみ出現し、在位中の追加改元の記述はない。

大赦回数

いずれも原文表現は「赦殊死已下」であり「大」字を伴わない(同一載記内の慕容盛即位時は「大赦殊死已下」と『大』字あり)。ただし地域・罪状を限定する語がなく死刑以下すべての罪を赦す全国規模の恩赦と解されるため、他の帝紀で先例のある『赦天下』(大字なし)同様に大赦として計上した。表現の違いがある点はconfidence: mediumとして残す。

立后回数

皇后として生前に正式冊立されたのは貴嬪苻氏の1回のみ確認。廃后や再冊立の記述はない。なお「昭儀苻氏」が没後に「愍皇后」と追諡された件は生前の冊立ではないため対象外とした。

皇太子廃立回数

熙自身の在位中に別途太子を立てた・廃した記述はない。この1件は前帝慕容盛の太子定の廃立であり、熙の即位に直接付随する境界事例のため運用ルールに従い熙側に計上した。ユーザーによる境界判定の確認が望ましい。

親征回数

『晋書』載記(慕容熙載記部分)と『十六国春秋』後燕録を突き合わせて年代を確定。将軍への派遣のみ(光始二年正月の遣拔攻遼西等)や、独立政権である北魏との抗争は親征・鎮圧いずれからも除外した。

反乱鎮圧回数

光始元年閏月の張佛らによる謀立故太子定、光始二年冬の丁太后による廃立謀議、建始元年五月の尚書郎苻進の謀反は、いずれも挙兵・武力行使に至らず摘発・処刑された謀議のみのため、鎮圧・被反乱いずれにも計上していない。

遷都回数

晋書載記を通読。中山→龍城の遷都は慕容宝の代の出来事で、以後の各代(慕容詳・慕容麟・慕容盛・慕容煕)には龍城からの追加の遷都記録はない。

即位時年齢・没年齢

晋書卷一百二十四(慕容熙載記)末尾に「時年二十三,在位六年」と直接記載。没年齢23歳・在位6年は直接記載値として採用。生年月日・崩御月日そのものは載記に記載なく、安帝紀(巻十)でも「是歳」(義熙三年=407年)としか分からないためdeathDateは年精度に留めた。即位時年齢は「在位六年」からの単純な差引き(23-6=17等)で逆算可能だが、独立した年号年ラベルによるクロスチェックができないため(ages-field-policyの逆算要件を満たさない)、accessionAgeへの反映は見送った。

在位中の出来事(11件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元401年即位に伴い光始と改元(「赦殊死已下,改元曰光始」)。

即位に伴い光始と改元(「赦殊死已下,改元曰光始」)。安帝紀(巻十)の隆安五年秋七月の記事に対応(401年)。

出典: 晉書/卷124

大赦401年即位に伴い「赦殊死已下,改元曰光始」(死刑を除く全国規模の恩赦、改元光始と同時)。

即位に伴い「赦殊死已下,改元曰光始」(死刑を除く全国規模の恩赦、改元光始と同時)。地域限定を示す記述はない。安帝紀(巻十)の隆安五年秋七月「段玑殺慕容盛,盛叔父熙尽誅段氏,因僭稱尊號」の記事に対応。

出典: 晉書/卷124

皇太子廃立401年熙の擁立に先立ち、皇太后丁氏が前帝慕容盛の太子(遼西公)定を廃し(「及盛死,其太后丁氏以國多難,宜立長君……遂廢太子定,迎熙入宮」)、熙を迎えて即位させた。

熙の擁立に先立ち、皇太后丁氏が前帝慕容盛の太子(遼西公)定を廃し(「及盛死,其太后丁氏以國多難,宜立長君……遂廢太子定,迎熙入宮」)、熙を迎えて即位させた。廃立の実行主体は丁太后だが、王朝・在位の境界をまたぐ出来事は後継者側に帰属させる運用に従い熙の在位に計上した。熙自身が自らの意思で太子を廃したわけではない境界事例である点に留意。

出典: 晉書/卷124

反乱鎮圧402年11月石城令高和の乱

首謀者: 高和(石城令)

結果: 熙が北原で狩猟中に、石城令高和が尚方兵(武器庫兵)を率いて司隷校尉張顕を殺害し宮殿を掠奪、武庫の兵器を奪って官署を脅し、城門を閉じて熙に抵抗した。熙自ら騎兵を率いて急行し鎮圧、反乱軍の多くは武器を捨てて投降・誅殺されたが、首謀者の高和本人は逃走して捕らえられなかった。

光始二年十一月辛未。『晋書』載記・『十六国春秋』後燕録ともに同内容を記す。

被反乱402年11月石城令高和の乱

首謀者: 高和(石城令)

結果: 熙自ら鎮圧に成功。反乱軍は誅殺・投降したが首謀者高和は逃走。

rebellionSuppressionCountと同一事件。鎮圧・被反乱の両方に計上。

親征404年9月契丹

対象: 契丹

結果: 熙自ら契丹を北方に襲撃し、大破した。

光始四年九月。日付は月までしか判明しない。

親征405年1月高句麗(遼東)

対象: 高句麗(遼東)

結果: 皇后苻氏を伴い遼東を攻めたが、大雪により士卒の凍死者が多数出て陥落させられず撤退した。

光始五年春正月、戊申の日に遼東に到達し攻撃するも「不克」で引き返した。

親征405年12月〜406年2月契丹→高句麗(木底城)

対象: 契丹→高句麗(木底城)

結果: 当初契丹を襲おうとしたが、その勢威を恐れて撤退を図った際、苻后の反対で輜重を捨てて高句麗へ矛先を転じ、三千余里を進軍して木底城を攻めたが陥落させられず、凍死者多数を出して撤退した。

光始五年十二月に契丹への遠征として出発し、翌光始六年二月に高句麗木底城攻撃で終結した一連の遠征として1回とカウント。

被反乱407年7月馮跋・張興らのクーデター(慕容雲擁立)

首謀者: 馮跋・張興

結果: 中衛将軍馮跋・左衛将軍張興らが、従兄万泥ら禁軍関係者22名と結盟して挙兵。尚方の徒5千余人を発して四門を分屯、弘光門を突破して宮城を制圧し、夕陽公慕容雲(高雲)を主に推戴した。熙は皇后苻氏の葬送から急ぎ龍城に戻り北門攻撃を試みたが落とせず敗走、龍騰苑に隠れていたところを捕らえられ、諸子ともども雲の命により殺害された。後燕はここで事実上滅亡した。

建始元年七月(苻后埋葬直後)。朝廷内部の禁軍将校による兵力を伴うクーデターであり、鎮圧の主体が皇帝側ではなく反乱者側であったためrebellionSuppressionCountには計上していない(判定基準の例外4に該当)。

大赦日付不詳貴嬪苻氏を皇后に立てた際に「立其貴嬪苻氏爲皇后,赦殊死已下」。

貴嬪苻氏を皇后に立てた際に「立其貴嬪苻氏爲皇后,赦殊死已下」。具体的な年月は載記に明記なく、契丹討伐・高句麗遠征記事の間に位置するため在位中期頃と推定。

出典: 晉書/卷124

立后日付不詳貴嬪苻氏(苻謨の娘)を皇后に立てる(「立其貴嬪苻氏爲皇后」)、同時に赦殊死已下。

貴嬪苻氏(苻謨の娘)を皇后に立てる(「立其貴嬪苻氏爲皇后」)、同時に赦殊死已下。後に別人の苻氏(昭儀)が死去し「僞謚愍皇后」と追諡されているが、これは没後の追贈であり生前の正式冊立ではないため本カウントには含めない。

出典: 晉書/卷124

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。