威帝
西燕(五胡十六国)|在位 384–386年
- 諱(本名)
- 慕容沖
- 在位
- 384–386年
- 在位期間
- 2年1日365名中263位タイ
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 26歳(数え年)172名中・若い順97位タイ
- 没年齢
- 28歳(数え年)269名中・長寿順199位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:威帝
即位の経緯
兄・慕容泓の謀臣らが泓を殺害し沖を皇太弟に擁立(「乃殺泓,立沖為皇太弟,承制行事」)。その後長安を占領し阿房城で自ら皇帝を僭称(「慕容沖即皇帝位於阿房,改元更始」)。西燕で初めて皇帝号を実際に称した人物で、先行政権からの継承を伴わない自立的即位のため建国に分類。
出典: 晉書/卷114 苻堅載記下、資治通鑑巻106補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
更始2年(386年)、長安占領後に人心が離反する中、西燕内部の左将軍・韓延に攻め殺された(「左將軍韓延因眾心不悅,攻沖,殺之」)。同一政権内部の臣下による謀殺。
出典: 資治通鑑巻106 晋紀二十八補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中(385年即位~386年二・三月被殺)に確認できる改元は即位に伴う「更始」の1回のみ。彼の死後、部将らが擁立した段随(改元昌平)・慕容顗(改元建明)・慕容瑶(改元建平)・慕容忠(改元建武)による改元は、いずれも慕容沖の死後の出来事であり本人の在位に帰属しない。
大赦回数
慕容沖の在位期間(太元十年正月/384年末~太元十一年二・三月、西暦385年~386年)を『晋書』苻堅載記下および『資治通鑑』晋紀二十八の該当箇所(阿房即位から許木末/韓延による殺害まで)で通読したが、「大赦」「大赦天下」等の記載は見当たらなかった。同時期に見える「大赦」の記事(資治通鑑9375行・9405行・9409行・9421行など)はいずれも東晋朝廷・後燕(慕容垂)・前秦(苻丕)・後秦(姚萇)に帰属するものであり、西燕慕容沖に帰属する大赦記事ではない。
立后回数
在位期間の原典記述に立后の記載は見当たらない。慕容沖は約1年強の短い在位(385年即位~386年被殺)で、阿房での稱帝後は軍事行動に終始し後宮・立后関連の記事は確認できなかった。なお『晋書』苻堅載記下には慕容沖が幼少期(12歳)に苻堅の寵愛を受けたという逸話があるが、これは即位前の話で立后とは無関係。
皇太子廃立回数
在位期間の原典に立太子・皇太弟等の冊立および廃立の記載は見当たらない。慕容沖自身は即位前に兄泓の臣下により「皇太弟」に擁立された(資治通鑑9297行「立冲為皇太弟」、晋書8220行付近同旨)が、これは彼が即位する前段階での自身の地位であり、彼が在位中に自ら立てた皇太子・皇太弟を廃した事跡ではないため、本項目には該当しない。
親征回数
『資治通鑑』晋紀二十七〜二十八(巻105〜106)の記述に基づく。冲自身の出陣は「秦王坚与西燕主冲战于○○」という形で一貫して確認できる。
反乱鎮圧回数
在位期間(384年皇太弟就任〜386年被殺)中、慕容沖自身が主体となって鎮圧した内部反乱・服属民の蜂起は原典に確認できない。太元十年十月に尚書令高盖を派遣して後秦を討たせた件(新平南で大敗し降伏)は対等な独立政権(後秦)との戦争であり、鎮圧・被反乱いずれにも該当しない。
被反乱回数
年代は太元十一年(386年)と推定されるが、月日は原文に明記されないため年精度とした(在位終了=崩御の時期と一致)。
遷都回数
晋書載記を通読。慕容沖ら西燕初期(長安入城まで)は建国時の定都選定過程の一部と判断。長安→長子の遷都は慕容永の代の出来事。
即位時年齢・没年齢
『晋書』苻堅載記下(daizhigev20版晋書.txt 8221行付近)「初、坚之灭燕、冲姊为清河公主、年十四、有殊色、坚纳之、宠冠后庭。冲年十二、亦有龙阳之姿、坚又幸之。」との記載により、前燕滅亡時点(晋書帝紀・太和五年〔370年〕十一月「猛克鄴、獲慕容評」)で慕容沖は数え12歳だったことが判明。これを起点に逆算し生年を359年(370-12+1=359、数え年基準)と推定(年号年ラベル差分による逆算値、原文に生年直接記載なし)。没年齢は在位終了年386年(更始二年/太元十一年、韓延に攻め殺される)から386-359+1=28歳と算出。即位時年齢はreigns[0].startYear=384年(阿房での皇帝即位、晋書帝紀は太元九年十二月条に「慕容冲僭即皇帝位於阿房」と記す)を基準に384-359+1=26歳と算出。原文に生年月日・崩御月日の直接記載はなく、いずれも年精度にとどまる(既存reigns[0].note・duration.sourceでも同様に月日不明と明記済み)。逆算した生没年(359年-386年)は通説とも整合する。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征384年〜385年前秦(苻堅)
対象: 前秦(苻堅)
結果: 太元九年(384年)、平陽太守として自ら挙兵し蒲阪を攻めるも秦将窦冲に河東で大敗し、鮮卑騎八千を率いて兄・慕容泓の陣営に合流。泓死後、皇太弟として長安包囲を継続して指揮し(鄭西・灞上等で秦軍を破る)、太元十年(385年)正月に阿房で皇帝を自称、以後も仇班渠・雀桑・白渠・城西・驪山等で自ら秦軍と交戦を重ね、同年五月ついに長安を陥落させて苻堅を五将山へ敗走させた(苻堅本人はその後長安脱出中に後秦の姚萇に捕らえられ処刑された)。挙兵から長安占領まで同一目的(対前秦戦)の一連の軍事行動として1件に集約した。
起兵は太元九年(384年)の月不明(『資治通鑑』では三月と四月の記事の間に配置)のため年精度とした。長安陥落は太元十年五月と明記。冬十月に尚書令高盖を後秦討伐に派遣した件(新平南の戦い)は冲本人が出陣した記述がないため親征に含めていない。
被反乱386年左将軍韓延のクーデター
首謀者: 韓延(西燕左将軍)
結果: 殺害・敗死
『資治通鑑』:「西燕主冲乐在长安,且畏燕主垂强,不敢东归,课农筑室,为久安之计,鲜卑咸怨之。左将军韩延因众心不悦,攻冲,杀之,立冲将段随为燕王,改元昌平。」長安に留まり続け東帰(関東・龍城への帰還)を望む鮮卑諸将の意に反したため、麾下の左将軍・韓延が兵を率いて冲を攻め殺害した。朝廷内部(自軍将領)による兵力を伴う弑逆であり、鎮圧の主体が冲側でなく反乱側であるためrebellionSuppressionCountには計上せずrebellionSufferedCountのみに計上した(判定基準4に該当)。
改元日付不詳慕容沖、阿房にて皇帝を僭称し、元号を「更始」と改元(建元)。
慕容沖、阿房にて皇帝を僭称し、元号を「更始」と改元(建元)。『資治通鑑』は太元十年(385年)春正月の記事とし、『晋書』帝紀は太元九年(384年)十二月の記事として記す(両者の間で約1ヶ月のズレがあるが、いずれも西暦385年初頭の出来事を指すとみられる)。これが西燕独立・慕容沖即位に伴う最初の建元であり、在位中に他の改元は確認できない。
出典: 資治通鑑 晋紀二十八(太元十年)/晋書 帝紀第九(太元九年十二月)・苻堅載記下