石弘
後趙(五胡十六国)|在位 333–334年
- 諱(本名)
- 石弘
- 在位
- 333–334年
- 在位期間
- 1年123日365名中282位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 22歳(数え年)269名中・長寿順226位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 7回225名中58位タイ
- 被反乱
- 8回289名中59位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
石勒の子として即位したが、実権は従兄弟の石虎が握る傀儡的立場だった。
出典: 晉書 載記第五 石虎上
死因の経緯
石勒崩御後、実権を握った従兄弟の石虎に自ら禅譲を申し出たが拒絶され、喪中の不孝を理由に廃位され海陽王に降格。母の程太后、弟の石宏・石恢と共に崇訓宮に幽閉された後、まもなく殺害された(享年22)。同一政権内の実権者による粛清のため暗殺に分類。
出典: 晉書 載記第五 石虎上
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元「延熙」1回のみ確認。在位が咸康元年の廃位まで短期間であり、他の改元記事は見当たらない(廃位後の「建武」改元は石虎によるもので石弘の在位外)。
大赦回数
実権者石虎主導の恩赦だが、名目上の在位者である石弘の治世内で発生したためカウントに算入した(帰属判断はmedium)。地域限定の恩赦(石虎の封地内のみ)は文言「大赦」を伴わないため除外。
立后回数
石弘自身が皇后を立てた記述は見当たらない。「立季龙妻郑氏为魏王后」は石虎の妻が石虎の封地・魏王の王后に立てられた記事であり、国家の皇后冊立ではないため対象外。石弘の在位期間(約1年強)は短く、皇后不在のまま廃位されたとみられる。
皇太子廃立回数
石弘の在位期間(咸和七年即位~廃位)中に皇太子を立てた記述、および廃立した記述は見当たらない。石虎の子邃が「魏太子」に立てられた記事はあるが、これは石虎個人の魏王としての太子であり国家(後趙)の皇太子ではないため対象外。
親征回数
石弘自身が軍を率いて出征した記録は晋書本紀・載記のいずれにも見られない。在位中の軍事行動(石朗・石生・彭彪・石聪・郭権・薄句大の討伐)はすべて石季龙・石斌・石韬ら将領が指揮しており、弘自身は終始実権を持たず出陣した形跡がない。
反乱鎮圧回数
石弘の在位(咸和八年七月~九年十一月、333~334年)は事実上、石勒死去直後から石季龙が禁軍・実権を掌握した『傀儡皇帝』期間であり、鎮圧行動の指揮主体は一貫して石季龙以下の将領。石朗・石生・彭彪・石聪・郭権の5件は蔡謨の上表(晋書列伝)で一括して列挙されており信頼度が高いが、刘氏・石堪の謀議と陳良夫・薄句大の羌乱は載記の記述のみに基づく。反乱の粒度(郭権と陳良夫を別件とするか等)には解釈の幅がある。
被反乱回数
鎮圧側と同一の7件に加え、石季龙自身による弘の廃位・弑殺(例外4に該当)を追加で計上。石弘は即位当初から実権を持たない傀儡であり、在位期間全体が石季龙による事実上の簒奪プロセスと重なっている点に留意。
遷都回数
晋書載記を通読。襄国→鄴の遷都は石虎(石季龍)の代の出来事で、以後の各代には鄴からの追加の遷都記録はない(石祗の襄国拠点は鄴陥落後の残存勢力による対抗政権であり対象外)。
即位時年齢・没年齢
『晋書』載記第五(石勒下)末尾、石弘伝の結びに「咸康元年,幽弘及程氏并宏、恢于崇训宫,寻杀之,在位二年,时年二十二。」とあり、崩御時の年齢が「時年二十二」と直接記載されている。ただし崩御月日・生年月日の記載はなし。即位時年齢の直接記載もなし。
在位中の出来事(17件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧333年刘氏・石堪の反石季龙謀議
首謀者: 刘氏(石勒皇后)・石堪
結果: 石勒死去直後、石季龙が禁軍を掌握し弘を強制的に即位させたことに対し、皇太后刘氏と宗室石堪が季龙打倒を謀った。石堪は兖州で挙兵し南陽王石恢を盟主に諸鎮へ檄を飛ばそうとしたが機を逸し譙城へ敗走、追撃されて捕らえられ焼き殺された。刘氏も陰謀露見により石季龙に殺害された。
標的は太尉・魏王として実権を握る石季龙であり弘自身ではないが、蔡谟の上表(晋書列伝)に『将相内外欲誅季龙』とあるように弘朝廷内部で武力を伴う政変未遂が起きたため計上。鎮圧の実務主体は季龙。
反乱鎮圧333年石聪の離反(歴陽・寿春方面)
首謀者: 石聪
結果: 石勒死去の報を受け、寿春・歴陽方面を守る石聪が東晋に降を請うたが、東晋は北伐を決断できず(『朝廷遂不果北伐』)支援しなかったため孤立し、石季龙に討たれた(蔡謨の上表に『杀石聪』とある)。
晋書本紀・載記に詳細な戦闘描写はなく、列伝(郗鑒伝所収・孔坦伝、蔡謨伝の上表)の記述に基づく。
反乱鎮圧333年彭彪の離反(譙郡)
首謀者: 彭彪
結果: 譙郡太守彭彪が東晋に降を請い、東晋は督護喬球に救援させたが敗れて撤退(『遣督護乔球率众救彪,彪败,球退』)。彭彪は石季龙に捕らえられた(『禽彭彪』)。
石聪と同じく列伝・天文志の記述に基づく。石聪と近接した地域・時期の離反だが人物が異なるため別件として計上。
被反乱333年刘氏・石堪の反石季龙謀議
首謀者: 刘氏(石勒皇后)・石堪
結果: 季龙打倒を謀った石堪は挙兵に失敗し捕殺され、刘氏も殺害された。
鎮圧回数と同一件。標的は石季龙だが弘朝廷内部での武力事案として計上。
被反乱333年石聪の離反(歴陽・寿春方面)
首謀者: 石聪
結果: 東晋の支援を得られず孤立し、石季龙に討たれた。
被反乱333年彭彪の離反(譙郡)
首謀者: 彭彪
結果: 東晋の救援も撃退され、彭彪は石季龙軍に捕らえられた。
被反乱333年7月〜334年11月石季龙による簒奪クーデターと石弘の廃殺
首謀者: 石季龙(石虎、太尉・魏王)
結果: 石勒死去直後から石季龙が禁軍を掌握して実権を握り、弘の即位も名目上のものにすぎなかった。咸和九年十一月、石季龙は弘を廃して海陽王とし、まもなく弘とその母程氏、弟石宏・石恢らを幽閉のうえ殺害、自ら居摂趙天王を称して後趙の実権を完全に掌握した。
朝廷内部の権力者(石季龙)による兵力を伴う弑逆・クーデターに該当するため、rebellionSufferedCountにのみ計上しrebellionSuppressionCountには含めない(弘は鎮圧の主体ではなく被害者側のため)。
反乱鎮圧333年10月石朗の乱(洛陽)
首謀者: 石朗
結果: 洛陽鎮守の石朗が季龙政権に対して挙兵。石季龙が子の石邃に歩騎七万を率いさせて金墉城を攻略し、石朗を捕らえて刖刑の上斬首した。
反乱鎮圧333年10月〜333年11月石生の乱(関中)
首謀者: 石生
結果: 関中鎮守の石生が挙兵し秦州刺史を自称、東晋に降を請うた。潼関の戦いで後趙軍(石挺ら)が敗れるも鮮卑渉璝部が石生を裏切り、石生は単騎で長安に逃走後、鶏頭山に潜伏中に部下に斬殺された。長安も石季龙軍に攻略された。
本紀は十月条に石朗と合わせて『俱滅之』と記すが、載記の記述からは潼関での敗退・逃亡・部下による斬殺まで数ヶ月を要した経過が窺える。
被反乱333年10月石朗の乱(洛陽)
首謀者: 石朗
結果: 季龙軍に金墉城を攻略され、石朗は捕らえられ刖刑の上斬首された。
被反乱333年10月〜333年11月石生の乱(関中)
首謀者: 石生
結果: 潼関での緒戦は後趙軍が敗れたが、鮮卑部の裏切りにより石生は逃亡、最終的に部下に斬殺され鎮圧された。
反乱鎮圧333年12月〜334年4月郭権の乱(上邽・秦州)
首謀者: 郭権
結果: 石生の旧部将郭権が上邽に拠って東晋に帰順し鎮西将軍・雍州(秦州)刺史に任じられ、京兆・新平・扶風・馮翊・北地の諸郡が呼応した。石季龙が郭敖・石斌に歩騎四万を率いさせて討伐、咸和九年四月に郿で撃破。その後上邽の豪族が郭権を殺害して投降した。
被反乱333年12月〜334年4月郭権の乱(上邽・秦州)
首謀者: 郭権
結果: 石斌軍に郿で撃破された後、上邽の豪族に殺害され鎮定された。
反乱鎮圧334年陳良夫・薄句大の乱(北地・馮翊の羌乱)
首謀者: 陳良夫・薄句大(北羌四角王)
結果: 長安から逃れた陳良夫が北羌の薄句大を誘い北地・馮翊を侵させたが、石斌・石韬が挟撃してこれを破り句大は馬蘭山へ敗走。ただし追撃した郭敖の別働隊は羌軍に敗れ死者多数を出しており、完全な平定には至らなかった可能性がある。
石弘の廃殺(咸和九年十一月)までに最終決着が明記されておらず、鎮圧行動自体は着手・部分的に成功しているため計上した。
被反乱334年陳良夫・薄句大の乱(北地・馮翊の羌乱)
首謀者: 陳良夫・薄句大(北羌四角王)
結果: 石斌・石韬に一旦撃破されたが、追撃した後趙軍の一部が返り討ちに遭うなど完全鎮定は不明確なまま弘の治世が終わった。
改元日付不詳石勒の死後、石虎の逼迫により咸和七年(東晋成帝の年号による紀年)に即位を強要され、「遂以咸和七年逼立之,改年曰延熙」と即位に伴う建元(改元)が明記されている。
石勒の死後、石虎の逼迫により咸和七年(東晋成帝の年号による紀年)に即位を強要され、「遂以咸和七年逼立之,改年曰延熙」と即位に伴う建元(改元)が明記されている。石弘自身の在位中に建てた唯一の年号であり、これが実質的な即位建元。月日の記載はなし。
出典: 晉書 載記第五 石勒下
大赦日付不詳石生(関中)・石朗(洛陽)の反乱を石虎が鎮圧し襄国に帰還した際、「季龙还襄国,大赦,讽弘命己建魏台,一如魏辅汉故事。
石生(関中)・石朗(洛陽)の反乱を石虎が鎮圧し襄国に帰還した際、「季龙还襄国,大赦,讽弘命己建魏台,一如魏辅汉故事。」と「大赦」の語で明記される全国規模の恩赦が行われた。実権者は石虎だが、石弘はこの時点でまだ廃位前(在位中)の皇帝であり、その治世内の出来事として帰属させた。具体的な年月日は原文に記載なし。なお、直前(即位直後)の「季龙伪固让,久而受命,赦其境内殊死已下」は石虎が魏王として与えられた封地(魏郡等十三郡)内に限定された恩赦であり、地域限定のためカウントに含めていない。
出典: 晉書 載記第五 石勒下