石勒の太子として後趙の位を継いだが、初めから実権を石虎に握られ、廃されて殺された。
石弘の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 333年〜334年
- 没年
- 年月日不詳22歳(数え年)長生き順同率223位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓石諱弘字大雅呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百五 載記第五(石勒下、石弘傳)
- 死因
- 晉書 載記第五 石虎上
- 即位経路
- 晉書 載記第五 石虎上
生涯
どんな皇帝か
学問と儒者を好み、位を追われるときも取り乱さなかった。
即位まで
石勒の子で字を大雅といい、臣下の程遐の甥にあたる。石勒が趙天王を称すると太子に立てられ、士を愛して文詠を好み、親しむのは儒者ばかりで、石勒は将家の子らしくないと評した。石虎は大単于北方の遊牧民の君主の称号(もとは匈奴)の位が石勒の子に与えられたのを恨み、くちばしの黄色い婢の子と陰で罵った。徐光は石虎の権をしだいに奪うよう説いた。程遐が石虎を除くよう説くと、石勒は幼い石弘には強い補佐が要ると退け、母方のおじとして権を独り占めできなくなるのを恐れているのだろうと程遐に言った。石勒が死ぬと、石虎は石弘を捕らえて臨軒皇帝が宮殿の前に出て臣下と向き合うことさせ、程遐と徐光を獄に下し、子の石邃に宿衛宮中に泊まり込んで皇帝を守ること、またその兵を固めさせた。石弘は恐れて位を譲ろうとしたが、石虎は君主が亡くなれば世子王や諸侯の跡継ぎが立つものだと退け、石弘がなお泣いて譲ると怒って、力ずくで即位させた。
史料について
大単于を得た子を、石季龍載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録は石弘とし、石勒載記と資治通鑑は石宏とする。徐光の進言を、載記は石勒が容れたとし、資治通鑑は心では認めても従えなかったとする。即位の年を、晋書の載記は332年とし、成帝紀と資治通鑑は333年とする。
治世と最期
即位後は石虎を丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職・魏王とし、石虎の府僚高官の役所に属する部下の役人と昔なじみが朝廷の要職を占めた。石勒の妻の劉氏は石堪と謀って兗州を襲わせたが失敗し、二人とも石虎に殺された。石虎は遠回しに促して、自分のために魏台を建てさせた。
石弘は自ら璽綬位や官職を示す印とそれを下げるひもを携えて禅位皇帝が位をほかの人に譲ることを申し出たが退けられ、先帝の子孫はもう残るまいと母に泣いた。石弘は海陽王に落とされ、落ち着いて車に就き、天命が去ったのだと群臣に語った。母の程氏や石宏・石恢とともに幽閉され、まもなく殺された。
史料について
資治通鑑は、石虎が石弘を愚かで喪中に礼が無いとして、禅譲皇帝が位をほかの人に譲ることでなく廃位としたと書く。殺された年を、晋書の載記は335年とし、成帝紀と資治通鑑はその前の334年とする。
石弘とつながる皇帝

勢力図
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333–334年の地図に、石弘が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱8・改元1・大赦1
- 改元333年元号を「延熙」とする
- 反乱333年劉氏・
石堪の反石季龍謀議 - 反乱333年石聡の離反(歴陽・
寿春方面) - 反乱333年彭彪の離反(譙郡)
- 反乱333年8月〜334年12月石季龍による簒奪クーデターと石弘の廃殺
- 反乱333年11月石朗の乱(洛陽)
- 反乱333年11月石生の乱(関中)
- 反乱333年12月〜334年4月郭権の乱(上邽・
秦州) - 反乱334年陳良夫・
薄句大の乱(北地・ 馮翊の羌乱) - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
後趙の歴代皇帝
歴代7人の一覧年表
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後趙が