武帝
後趙(五胡十六国)|在位 349年
- 諱(本名)
- 石虎
- 廟号
- 太祖
- 在位
- 349年
- 在位期間
- 131日365名中336位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 55歳(数え年)172名中・若い順164位
- 没年齢
- 55歳(数え年)269名中・長寿順57位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 3回204名中5位タイ
- 皇太子廃立
- 2回29名中2位タイ
- 親征
- 3回112名中24位タイ
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 4回289名中127位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:武帝
即位の経緯
石勒の甥(従子)。石勒崩御後、傀儡の石弘を廃位・殺害し実権を完全に掌握、334年に「居摂趙天王」を称し、349年に正式に皇帝に即位。
出典: 晉書 載記第五 石虎上
死因の経緯
348年、太子石宣が弟石韜を殺害した事件に激怒し石宣を処刑するなど後継者争いの心労が重なる中、349年2月に皇帝に即位したが同年5月26日に病死(享年55)。後継者争いへの心労が背景として語られるが、直接の死因は病。
出典: 晉書 載記第六 石虎下
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
本紀中「改年曰X」「建元曰X」と明記された改元事跡のみをカウントした。咸康元年(335年)の摂政「居摂趙天王」即位に伴う建武への改元と、永和五年(349年)の皇帝即位(天王号から皇帝号への改称)に伴う太寧への改元の計2回。固有の注意事項の通り、349年の皇帝号改称に伴う改元も1回として含めている。咸康三年(337年)の「大趙天王」への進号(南郊で即位、大赦殊死已下)では年号変更を伴う記述がなく(建武の年号のまま)、独立した改元としてはカウントしていない。なお本文中「建元初」(載記第七、永和三年の直前の記事群中)という語句が見えるが、具体的な年号名を伴わず、建武(335~348年)・太寧(349年)以外に第三の年号が存在した確証を欠くため、独立した改元事跡としてはカウントしていない。
大赦回数
「大赦」の語、または「赦」に「境内」等の全国規模を示す語を伴う記事のみをカウントした。咸康元~二年(335~336年)頃、鄴遷都直後の「(季龍大悦)赦殊死已下」(載記第六)は「天下」「境内」等の範囲語を伴わず罪状(殊死以下)による限定のみが明示されているため、部分的恩赦とみなし除外した(既存レコード漢・宣帝紀で「赦殊死以下」を部分的恩赦として除外した先行判定に準拠。一方、漢・高帝紀では類似表現「前有罪殊死以下、皆赦之」を算入するなど既存データ内でも判定基準に揺れがあり、本件は保守的に除外する側を採った)。咸康二年(336年)の「赦二歳刑」は刑期2年以下の者に限定した明確な部分的恩赦のため除外。個人(石邃・朱軌・石宣の幼子)に対する個別の赦免(「既而赦之」「赦朱軌」「季龍欲赦之」)は全国規模の大赦でないため除外。石遵・石鑒・冉閔による大赦(永和五年5月以降、載記第七後半)は石季龍の崩御後の出来事であり、後継者側の事績として本カウントには含めていない。
立后回数
本紀中に明記された「立(其)X為(天王)皇后」の冊立記事を3件確認した。各冊立前の廃后(鄭氏→東海太妃、杜氏→庶人)は本フィールド(冊立回数)の対象外であり別事象として扱った。皇太子石邃・石宣が皇太子だった当初期(咸康元年・咸康三年当初)には皇后が同時に冊立された記述はなく、皇后不在期間があったとみられる。
皇太子廃立回数
石邃の事例は「廃邃為庶人」と本人への廃立が明記されており高確度。石宣の事例は本人への「廃」の語の明記がなく、処刑による事実上の地位喪失を廃立と解釈した判断が入るため、全体としての確信度はmediumとした。
親征回数
対象期間は既存レコード(改元・大赦等)の扱いに準拠し、334年の石弘廃位(居摂趙天王即位)から349年の崩御までを通しでカウントした。両戦役とも本人の現場臨場を示す記述(「虎進屯金台」「虎入令支官」「棄甲而遁」等)が晋書載記・資治通鑑双方に確認できる。晩年に計画された大規模な「三方討伐」(南征江表)は諸州兵を集めたが妖異を理由に中止(解厳)されており、実行に至っていないため親征としてカウントしていない。
反乱鎮圧回数
硃縱の一件は載記・通鑑とも記述が一行程度と簡略で、彭城の最終的な帰趨は明記されていない。羌の薄句大(「猶保険未賓」と明記され服属前の独立勢力)、太原の徙人五百余戸の黒羌への逃亡(武力衝突を伴わない離脱)、貝丘人李弘の謀反計画(「事發、誅之」で挙兵前に摘発)は、いずれも本タスクの除外基準に該当するため反乱としてカウントしていない。皇太子石邃による「冒頓の事」計画(337年頃)も、対象が石虎本人ではなく兄弟石宣であり、実際の武力行使(挙兵)に至らず酒に酔って引き返しただけであるため、反乱としてカウントしなかった。
被反乱回数
鎮圧回数(rebellionSuppressionCount)と対称の4件(粒度・件数とも一致)。除外理由の詳細は鎮圧回数側のnoteを参照。
遷都回数
在位中に遷都1回(0335年 襄国→鄴)。
即位時年齢・没年齢
既存レコードdeathCause.noteに直接記載:『晉書』載記第七(石季龍下)系統の記事に基づき「349年5月26日に病死(享年55)」(数え年)とある。享年55から逆算し生年を295年と推定(349-55+1=295、月日不詳のためbirthDatePrecisionはyear)。即位(永和五年=349年正月、南郊で皇帝位に即く)と崩御(同年5月26日)が同一年内であるため、数え年は変わらず即位時年齢も55歳と算出。なお『晉書』載記第六冒頭に「永兴中(304-306年)、勒(石勒)と離散し、後に劉琨が石勒の母王氏および季龍(石虎)を葛陂へ送った際、時年十七矣(数え17歳)」との記載があり、これは生年295年から逆算すると311年頃(永嘉年間)に相当し、時系列上矛盾なく整合する(「永兴中に離散」「後に」17歳で送還、という記述順とも符合)。
在位中の出来事(22件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元335年【皇帝即位前】咸康元年(335年)、石弘を廃した後、群臣の勧進を受けて「居摂趙天王」を称し、「於是赦其境内、改年曰建武」(建武に改元)。
【皇帝即位前】咸康元年(335年)、石弘を廃した後、群臣の勧進を受けて「居摂趙天王」を称し、「於是赦其境内、改年曰建武」(建武に改元)。即位に伴う最初の建元。
出典: 晉書 載記第六 石季龍上
大赦335年咸康元年(335年)、石弘を廃した後、群臣の勧進により「居摂趙天王」を称した際、「於是赦其境内、改年曰建武」(境内=全領域を対象とした恩赦)。
出典: 晉書 載記第六 石季龍上
親征335年東晋(歴陽方面)
対象: 東晋(歴陽方面)
結果: 自ら軍を率いて南下し歴陽に至り、長江に臨んだところで引き返した(『晋書載記』「季龍自率衆南寇歴陽、臨江而旋」)。晋の朝廷は震撼したが、正面からの大規模交戦には至らなかった。
『資治通鑑』咸康元年条は「趙王虎南游、臨江而還」とし、三月〜四月頃の出来事と推定される(載記には月日の記載なし)。
反乱鎮圧335年硃縱(朱縱)の彭城帰順事件
首謀者: 硃縱(徐州従事)
結果: 配下の徐州従事硃縱が刺史郭祥を殺害し、彭城を挙げて東晋に帰順した。石虎は将軍王朗を派遣して攻撃させたが、硃縱本人は淮南(晋領)へ逃走し捕縛に失敗した。
『資治通鑑』は咸和九年(334年)十二月の出来事とする(載記は咸康元年の記事群中に配置)。
被反乱335年硃縱(朱縱)の彭城帰順事件
首謀者: 硃縱(徐州従事)
結果: 配下の徐州従事硃縱が刺史郭祥を殺害し彭城を挙げて東晋に帰順、討伐軍を派遣したが本人は淮南へ逃走し捕縛できなかった。
鎮圧回数と同一事象。
遷都335年9月襄国 → 鄴
石虎(石季龙)が石弘を廃して趙天王を称した直後、咸康元年(335)九月に国都を襄国から鄴へ遷した。晋書載記第六(石季龙上)「季龙将迁于鄴,尚书请太常告庙…及入鄴宫,澍雨周洽,季龙大悦,赦殊死已下」。月次は資治通鑑巻九十五・咸康元年条「九月,赵王虎迁都于鄴,大赦」で確認。なお石勒期にも鄴宮を造営し洛陽を「南都」に位置付ける動きはあったが(「勒以成周土中,汉晋旧京,复欲有移都之意,乃命洛阳为南都」)、実際の遷都には至らず石勒は襄国のまま没しており、正式な遷都には数えない。(出典: 晋書 巻一百六 載記第六(石季龍上);資治通鑑 巻九十五 咸康元年九月条)
反乱鎮圧336年〜337年侯子光の乱
首謀者: 侯子光(安定の人、「仏太子」「大黄帝」を自称)
結果: 安定の侯子光が「大秦国から来た仏太子」を自称し、年号「龍興」を建てて杜南山で数千人を集めて挙兵したが、鎮西将軍石広に討たれ斬殺された。
載記・資治通鑑ともに咸康年間(337年頃)の記事として配置。
被反乱336年〜337年侯子光の乱
首謀者: 侯子光
結果: 「仏太子」「大黄帝」を自称し数千人規模で挙兵したが、討伐され斬殺された。
鎮圧回数と同一事象。
大赦337年咸康三年(337年)、殷周の制に依り「大趙天王」を僭称し南郊で即位した際、「大赦殊死已下」。
出典: 晉書 載記第六 石季龍上
立后337年咸康三年(337年)、大趙天王即位時に「立其鄭氏為天王皇后」(鄭氏を天王皇后に冊立)。
出典: 晉書 載記第六 石季龍上
立后337年皇太子石邃を誅殺し鄭氏を東海太妃に廃した後、「立其子宣為天王皇太子、宣母杜昭儀為天王皇后」(宣の母・杜昭儀を天王皇后に冊立)。
皇太子石邃を誅殺し鄭氏を東海太妃に廃した後、「立其子宣為天王皇太子、宣母杜昭儀為天王皇后」(宣の母・杜昭儀を天王皇后に冊立)。記事の配置(咸康三年の即位記事の直後)から咸康三~四年(337~338年)頃と推定されるが、原文に確定的な年次記載はない。
出典: 晉書 載記第六 石季龍上
皇太子廃立337年皇太子石邃が父の殺害・簒奪(「冒頓の事」)を謀っていることが露見し、朝見の礼を欠いたことにも激怒した季龍が「廃邃為庶人」。
皇太子石邃が父の殺害・簒奪(「冒頓の事」)を謀っていることが露見し、朝見の礼を欠いたことにも激怒した季龍が「廃邃為庶人」。その夜、邃とその妻子ら26人を殺害した。咸康三年(337年)の大趙天王即位記事の直後に配置されており、同年~翌年頃と推定。
出典: 晉書 載記第六 石季龍上
親征338年段遼(遼西鮮卑)
対象: 段遼(遼西鮮卑)
結果: 桃豹・支雄・姚弋仲らを率いて段遼を攻撃、自らも金台に進駐し令支まで進んだ。段遼は密雲山へ逃れて降伏を申し出、石虎はその民二万余戸を司・雍・兗・豫四州へ移し、令支の宮に入って論功行賞を行った。段遼側の勝利。
『資治通鑑』咸康四年(338年)春正月〜三月の記事に対応。載記では段遼戦と後続の慕容皝(棘城)戦がひと続きに記述されるが、対象・結果が異なるため別件としてカウントした。
親征338年前燕(慕容皝・棘城)
対象: 前燕(慕容皝・棘城)
結果: 段遼討伐の勢いに乗じ、燕王慕容皝が軍を出さなかったことを咎めて棘城を攻めたが、旬余り包囲しても落とせず、慕容皝の子・慕容恪の奇襲を受けて大敗、鎧を捨てて敗走した(『晋書載記』「季龍大驚、棄甲而遁」)。趙軍の敗北。
『資治通鑑』は咸康四年(338年)中の出来事とし、慕容恪の追撃で趙軍に三万余の戦死者が出たと記す。
立后348年石宣が弟石韜を殺害させた事件の発覚・処刑(杜氏を庶人に廃す)の後、石世を皇太子に立てるのと同時に「劉氏為皇后」(劉曜の娘・劉氏を皇后に冊立)。
石宣が弟石韜を殺害させた事件の発覚・処刑(杜氏を庶人に廃す)の後、石世を皇太子に立てるのと同時に「劉氏為皇后」(劉曜の娘・劉氏を皇后に冊立)。永和三年(347年)~五年(349年)の間の記事群中に配置されており、永和四年(348年)頃と推定。
出典: 晉書 載記第七 石季龍下
皇太子廃立348年皇太子石宣が弟石韜への嫉妬から刺客(楊柸ら)を放って殺害させたことが発覚し、季龍は宣を席庫に幽閉のうえ顎に鉄環を通して猪犬同様に扱い、最終的に火刑に処した。
皇太子石宣が弟石韜への嫉妬から刺客(楊柸ら)を放って殺害させたことが発覚し、季龍は宣を席庫に幽閉のうえ顎に鉄環を通して猪犬同様に扱い、最終的に火刑に処した。廃立を明示する語は宣本人には使われていない(母の杜氏には「廃宣母杜氏為庶人」の語あり)が、皇太子の地位はこの処刑により実質的に喪失したため廃立事象として計上した(前漢武帝期の皇太子劉拠が正式な廃太子の詔なく自殺により皇太子位を喪失した事例の既存判定に準拠)。永和三年(347年)~五年(349年)の間の記事群中で、永和四年(348年)頃と推定。
出典: 晉書 載記第七 石季龍下
反乱鎮圧348年石宣の弑逆計画・石韜殺害事件
首謀者: 石宣(皇太子、石虎の子)
結果: 皇太子石宣が弟の秦公石韜を刺客(楊柸ら)に暗殺させ、続いて父石虎の弔問時を狙って弑逆する計画を立てたが、密告により発覚。石虎は石宣を捕らえて顎に鉄環を通し猪犬同然に扱った上で鄴北で火刑に処し、関与した東宮衛士・宦官ら数百人も誅殺した。
宮廷内の権力者(皇太子)による兵力を用いた弑逆計画だが未遂に終わり、皇帝側(石虎)が主体となって鎮圧・処罰しているため、鎮圧・被反乱の両方にカウントした(成功したクーデターを鎮圧側から除外する例外4には該当しない)。
被反乱348年石宣の弑逆計画・石韜殺害事件
首謀者: 石宣(皇太子、石虎の子)
結果: 皇太子石宣が弟石韜を刺客に殺害させ、続けて石虎本人の弑逆も計画していたが未遂に終わり、石宣は捕らえられ火刑に処された。
宮廷内部の権力者(皇太子)による兵力を伴う弑逆未遂であり、被反乱側にカウントした。
改元349年1月【皇帝即位(改元同時)】永和五年(349年)正月、病が癒えたのを機に南郊で皇帝位に即き(天王号から皇帝号への改称)、「大赦境内、建元曰太寧」(太寧に改元)。
出典: 晉書 載記第七 石季龍下
大赦349年1月永和五年(349年)正月、病が癒えたのを機に南郊で皇帝位に即いた際、「大赦境内、建元曰太寧」。
出典: 晉書 載記第七 石季龍下
反乱鎮圧349年1月〜349年3月梁犊(高力)の乱
首謀者: 梁犊
結果: 涼州へ謫戍される途上の元東宮衛士(高力)約一万人が梁犊を推戴して蜂起し、晋征東大将軍を自称。関中から潼関を経て洛陽方面へ進撃し勢力は十万に達し、李農率いる討伐軍を新安・洛陽で二度撃破した。最終的に石虎が燕王石斌・姚弋仲・苻洪らを派遣し、滎陽で梁犊を斬って残党を殲滅した。
石虎の崩御(349年5月26日)以前に鎮圧が完了している。
被反乱349年1月〜349年3月梁犊(高力)の乱
首謀者: 梁犊
結果: 元東宮衛士ら約一万人が蜂起し勢力十万に拡大、政府軍を二度破ったが最終的に討伐され梁犊は斬られた。
鎮圧回数と同一事象。