石世
後趙(五胡十六国)|在位 349年
- 諱(本名)
- 石世
- 在位
- 349年
- 在位期間
- 30日365名中356位タイ
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 10歳(数え年)172名中・若い順27位タイ
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
石虎の末子として、父の遺詔により即位。
出典: 晉書 載記第六 石世
死因の経緯
石虎の死後まもなく、異母兄の石遵が挙兵し鄴を制圧。廃位され譙王に格下げされたが、間もなく生母の劉太后共々殺害された(享年11、在位33日)。同一政権内の兄による粛清のため暗殺に分類。
出典: 晉書 載記第六 石世
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
石世の即位(季龙没後、7899行)に際し新元号への改元・建元の記述はない。父季龙が皇帝即位時に「建元曰太宁」(7895行)と定めており、石世はこれを継続使用したとみられ、在位33日間の短期間に改元の記載は存在しない。
大赦回数
石世の在位(季龙死後の即位から石遵によって廃位・誅殺されるまでの33日間、晋書載記第七7898〜7900行)の記述範囲内に「大赦」の語は見られない。同時期に見える大赦は、石世の父季龙が皇帝に即位した際(大赦境内、建元曰太宁、7895行)と、石世を廃した後継者石遵が即位した際(大赦殊死已下、7900行)のものであり、いずれも石世自身の在位中の出来事ではないため、后继者側に帰属させ石世にはカウントしない。
立后回数
石世の在位中に皇后を新たに冊立した記述はない。石世の母刘氏は季龙の在位中に「立…刘氏为皇后」(7894行)とすでに立后されており、石世即位後は「尊刘氏为皇太后」(7899行)として皇太后に上げられているのみで、石世自身による立后の記事は見られない。
皇太子廃立回数
石世の33日間の在位中に皇太子(皇太弟・皇太孫含む)を廃した記述は見られない。石世自身が皇太子に立てられた記事(7894行)は季龙の在位中の出来事であり、石世が即位後に別の皇太子を立てて廃した形跡もない。
親征回数
石世は石季龍の末子で即位時十余歳、在位はわずか33日(晋書載記・資治通鑑晋紀二十によれば永和五年〈349〉四月己巳〈石季龍崩御・即位〉〜五月庚寅〈石遵入鄴・廃位〉)。この間、実権は皇太后劉氏と丞相張豺が握っており、石世自身が軍を率いて出征した記録は晋書載記・資治通鑑いずれにも見当たらない。
反乱鎮圧回数
李農の籠城・武装抵抗を『服属民(政権中枢の高官)の反乱』として1件計上した。石世自身は実権を持たず、実質的な鎮圧主体は摂政劉氏・丞相張豺だが、皇帝側(政権側)が主体である点は満たすため計上。
被反乱回数
晋書載記(石季龍載記末尾)と資治通鑑晋紀二十(永和五年条)の記述が一致しており事実関係の確度は高いが、正確なグレゴリオ暦日付への換算は行っていないためdatePrecisionはyearとした。
遷都回数
晋書載記を通読。襄国→鄴の遷都は石虎(石季龍)の代の出来事で、以後の各代には鄴からの追加の遷都記録はない(石祗の襄国拠点は鄴陥落後の残存勢力による対抗政権であり対象外)。
即位時年齢・没年齢
巻末近くの後継者選定の議論で、季龙が石世について「世方十岁」(世はまさに十歳)と発言(晋書載記第七、7894行)。これは石世が皇太子に立てられ、後に季龙没後に即位する直前の時点での発言であり、厳密な「即位時」の記載ではないが、即位とほぼ同時期の年齢情報として近似的に採用。没年齢・生没年月日の直接記載はなし。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧349年李農の上白拠守(張豺誅殺計画からの逃亡・武装籠城)に対する包囲
首謀者: 李農
結果: 丞相張豺・太尉張挙が司空李農の誅殺を謀ったが漏れ、李農は広宗に奔り乞活数万家を率いて上白に拠って自衛。皇太后劉氏(石世の摂政)は張挙に禁軍を統率させて上白を包囲したが、「上白相持未下」(包囲は膠着したまま)の状態で石世の廃位(石遵の挙兵)を迎え、鎮圧は完了しなかった。包囲は石遵即位後に解かれ、李農は帰順している。
石世在位中(永和五年四月〜五月、349年)に開始・継続した鎮圧行動だが、在位終了までに完了しなかったため『未鎮圧のまま在位終了』の扱い。日付はグレゴリオ暦月日への換算を行っておらずyear精度とした(原文の紀年は永和五年四月)。
被反乱349年李農の上白拠守(張豺誅殺計画からの逃亡・武装籠城)
首謀者: 李農
結果: 丞相張豺の誅殺計画を察知した李農が広宗に奔り、乞活数万家を率いて上白に拠って中央政権(皇太后劉氏・石世政権)に武力で抵抗。石世在位中は包囲が膠着したまま解決せず、石遵の即位後に李農は帰順した。
rebellionSuppressionCountの同一事案と対をなす。
被反乱349年石遵の挙兵によるクーデター(石世廃位・弑逆)
首謀者: 石遵
結果: 石季龍の子で石世の兄にあたる彭城王石遵が、父の訃報に接し姚弋仲・蒲洪・石閔らの軍(戎卒九万)を率いて李城から鄴へ進軍。丞相張豺の軍は瓦解し、石遵は鄴に入城して張豺を誅殺、皇太后劉氏を廃して太妃とし、石世を譙王に格下げの上まもなく殺害して自ら帝位に即いた(石世在位凡そ33日)。
宗室(皇帝の兄)が兵力を用いて幼帝を廃位・弑逆したクーデターであり、判定基準の例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当するため、rebellionSufferedCountにのみ計上しrebellionSuppressionCountには含めない(鎮圧の主体は反乱者〈石遵〉側であり石世側ではないため)。日付はグレゴリオ暦換算未実施のためyear精度とした(原文の紀年は永和五年五月)。