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後趙(五胡十六国)第4代

石世

在位 349年(33日)

日本は古墳時代

後趙の石虎が劉曜の幼い娘に生ませた子で、資治通鑑では石虎の死と同じ日に即位した。

石世の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 349年〜349年
33日長い順同率353位/365人10歳で即位(数え年)
没年
349年年齢不詳
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 武帝後趙石世は武帝の子
次代
  • 石遵後趙石遵は石世の兄
呼び名
姓石諱世呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻一百七 載記第七(石季龍下、石世附)
死因
晉書 載記第六 石世
即位経路
晉書 載記第六 石世

生涯

どんな皇帝か

政治は母の劉太后と張豺が握り、・十六国春秋・資治通鑑に石世本人の言動は残らないまま、兄の石遵に廃されて母とともに殺された。

即位まで

老いて病んだ石虎を見た張豺は、石世を立てて劉氏を太后にし自らが政を執ろうと考え、母が貴く子が孝である者を立てるよう説いた。石世を太子に立てるよう請うに、の曹莫は幼い者を立てるべきでないとして署名しなかったが、石虎は曹莫を忠臣だが自分の意を分かっていないと評した。石虎は前の太子の石宣の凶行を引き、石世はまだ十歳だと述べて、348年に石世を皇太子に、劉氏を皇后に立てた。石虎は太子の傅を任じる際、これまでの轍を改めたいと願うからだと述べた。石虎の病中、劉氏は燕王の石斌が政を執れば石世が害されると恐れて張豺と謀り、張豺が弟らに石虎の命と偽らせて石斌を殺させた。349年に石虎が死ぬと石世が即位し、劉氏が皇太后としてした。

治世と最期

張豺と張挙が李農を殺そうと謀ると、張挙がこれを李農に告げ、李農は上白に拠って包囲された。石遵の軍が迫ると、古老たちや羯の兵は、天子の子が喪に来たと言って城壁を越えて出て行った。劉氏は泣いて張豺に策を問うたが、張豺はうろたえるばかりで、劉氏は石遵に重い官を加えてなだめようとした。

石遵は張豺を斬って自ら位を継ぎ、石世を譙王に、劉氏をに落として、まもなく二人とも殺した。位にあったのは三十三日だった。沛王の石沖は、先帝の命を受けた石世を石遵が勝手に廃して殺したとして兵を挙げた。

史料について

兵らの言葉を、資治通鑑は彭城王が喪に来たとする。劉氏の落とされた位を、十六国春秋の別伝と晋春秋はとする。三十三日とするのは載記と十六国春秋で、資治通鑑考異は干支で数えると二十二日だと指摘する。殺した者を、魏書は序紀で石遵、羯胡石勒伝で石閔とする。

石世とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(349年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

349年の地図に、石世が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2
  1. 反乱349年李農の上白拠守(張豺誅殺計画からの逃亡・武装籠城)
  2. 反乱349年石遵の挙兵によるクーデター(石世廃位・弑逆)

後趙の歴代皇帝

歴代7人の一覧

年表

五胡十六国の時代を年表で見る

後趙が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「世襲」の120名をデータベースで見る

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