石鑑
後趙(五胡十六国)|在位 349–350年
- 諱(本名)
- 石鑑
- 在位
- 349–350年
- 在位期間
- 92日365名中341位タイ
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
石虎の子。石遵殺害後、冉閔・李農により擁立され即位した傀儡的皇帝。
出典: 晉書 載記第七 石鑑
死因の経緯
石閔(冉閔)・李農を排除しようと配下に暗殺を試みさせたが失敗し軟禁される。軟禁中に外部と密書をやり取りし鄴奪還を企てたが露見し、冉閔・李農により廃位の上、殺害された(在位103日)。石虎の孫28人も皆殺しにされた。
出典: 晉書 載記第七 石鑑
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
石虎が「建元曰太宁」(晋書載記第七)で太寧の年号を建てて以降、石世・石遵・石鑒の即位記事にはいずれも改元・建元の記載がなく、石鑒も太寧を継続使用したとみられる。次の改元は冉閔の「改元曰永興」(石鑒死後)。
大赦回数
在位103日間の記述中に確認できる大赦は即位時の1回のみ。他に大赦の記載なし。
立后回数
石鑒の在位中(103日間)に皇后冊立の記載はない。
皇太子廃立回数
石鑒の在位中に皇太子を立てた記述自体がなく、廃立の記載もない。
親征回数
在位約103日(永和5年11月〜永和6年閏正月)の間、石鑑自身が軍を率いて出征した記録は晋書載記(石季龍載記末尾)に見られない。石祗討伐(歩騎七万)も『晋書』本紀・資治通鑑いずれも指揮の主体を冉閔・李農(または汝陰王石琨を大都督とする派遣)としており、石鑑本人の親征ではない。
反乱鎮圧回数
石鑑自身の主体性が乏しい(実権は冉閔・李農にあった)ため、鎮圧主体の帰属判定に幅がある。
被反乱回数
石鑑の治世はきわめて短く(103日)、宮廷内部の権力闘争が錯綜しているため、事件の主体・帰属の解釈に幅がある。
遷都回数
晋書載記を通読。襄国→鄴の遷都は石虎(石季龍)の代の出来事で、以後の各代には鄴からの追加の遷都記録はない(石祗の襄国拠点は鄴陥落後の残存勢力による対抗政権であり対象外)。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(reignData・deathCause・accessionRoute等)および_corpus_cache/houzhao-shijian.txt(晋書載記第七 石鑑関連記事)を確認したが、生年月日・即位時年齢・享年についての直接記載は見当たらなかった。石虎の子であること以外の年齢情報は原典になく、換算・逆算の手がかりとなる年号年ラベルの年齢記載も存在しないため、accessionAge/deathAgeともにnullとする。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧349年12月石祗(新興王・石虎の子、石鑑の弟)の挙兵鎮圧未遂
首謀者: 石祗
結果: 石祗が襄国で姚弋仲・苻洪と連兵し、冉閔・李農誅殺を諸方に檄した。朝廷(実質は冉閔・李農が指揮)は汝陰王石琨を大都督とし張挙・侍中呼延盛と歩騎七万を分けて石祗らを討たせたが、決着がつかないうちに石鑑自身が弑逆され、鎮圧は完遂されなかった(石祗は石鑑死後、襄国で自ら皇帝を僭称し独立政権化した)。
『晋書』石季龍載記は『鉴遣石琨為大都督…分討祗等』とするが、『資治通鑑』晋紀二十では『閔・農以汝陰王琨為大都督…分討祗等』とあり、実際の派兵決定者は冉閔・李農であった可能性が高い。ただし当時は名目上なお石鑑の治世であり、政権側の軍事行動として計上した(confidence medium相当の解釈)。
被反乱349年12月石祗(新興王)の挙兵
首謀者: 石祗
結果: 石祗が姚弋仲・苻洪と結んで冉閔・李農誅殺を檄し挙兵。石鑑の治世中には鎮圧に至らず未決着のまま石鑑が弑逆され、以後(冉閔の代)まで抗争が継続した。
rebellionSuppressionCountの石祗討伐と対称の1件。
被反乱350年2月冉閔・李農による石鑑弑逆(クーデター)
首謀者: 冉閔・李農
結果: 石鑑は密かに宦者を遣わし張沈らに鄴急襲を命じたが発覚。石渎で張賀度討伐中だった冉閔・李農が急遽引き返し、石鑑を廃して殺害、あわせて石虎の孫38人を誅殺し石氏一族をほぼ根絶した。石鑑在位103日。
廷臣(大将軍冉閔・大司馬李農、いずれも兵権を有する政権内実力者)が武力で皇帝を弑逆・廃位した事例のため、鎮圧主体が反乱側であることから rebellionSuppressionCount には計上せず、rebellionSufferedCount のみに計上(判定基準の例外4に該当)。なお石鑑自身も即位直後から2度(夜襲による石苞・李松・張才を用いた暗殺未遂、孫伏都・劉銖の挙兵への黙認的関与)冉閔・李農の先制打倒を試みており、これらは石鑑自身が攻撃主体であったため両カウントから除外した(判定基準の例外3)。
大赦日付不詳石遵を殺して即位した際、「大赦殊死已下」(死罪以外を赦す全国規模の恩赦)を発した。
出典: 晋書載記第七