石鑑の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 349年〜350年
- 没年
- 350年年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 石遵後趙石鑑は石遵の兄
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓石諱鑑呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百七 載記第七(石季龍下、石鑑傳)
- 死因
- 晉書 載記第七 石鑑
- 即位経路
- 晉書 載記第七 石鑑
生涯
どんな皇帝か
石閔を除こうとして果たせず、幽閉されてからも鄴を襲わせようとして露見し、殺された。
即位まで
義陽公として関中にいたころは重い賦役税と、国に課される力仕事で人心を失い、官人の長い髪を抜いて冠の紐にしたので、石虎に呼び戻された。石世の即位後は石遵とともに丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職となった。349年、石遵が母の鄭太后の前で石閔を誅すべきか議すると、石鑑らは誅殺を請うたが、鄭太后は殺すなと退け、石鑑は退出するとこれを石閔に知らせた。石閔は李農らと謀って部将に石遵を殺させ、石鑑が帝位に就いて石閔を大将軍将軍の中でも特に高い位・武徳王とした。
史料について
載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録は石閔の部将が殺したとするが、晋書の穆帝紀と苻洪載記、魏書、十六国春秋の輯本失われた書を他書の引用から集め直した本は、石鑑が石遵を殺したと書く。魏書と輯本は石鑑を石遵の兄とする。
治世と最期
苻洪に迫られるのを恐れ、関中の都督軍をまとめて指揮する長官と雍州牧に任じて遠ざけようとした。石苞らに夜の琨華殿で石閔と李農を討たせたが失敗すると、知らぬふりをして李松・張才を斬り、石苞も誅した。
襄国の石祗が石閔らの誅殺を呼びかけると、石琨を大都督多くの軍をまとめて率いる総大将とする歩騎七万がこれを討ちに出た。孫伏都が台へ上ろうとしたので理由を問うと、李農らが反したと答え、石鑑は功臣だ、報いを心配するなと励ましたが、攻撃が失敗すると石閔を恐れて門を開き、孫伏都が反したので討てと告げた。のちに石閔は石鑑を御龍観に閉じ込め、食事を吊して与えた。
350年、石閔らが出陣した隙に、ひそかに張沈らに鄴を襲わせようとしたが、使いの宦者が石閔に告げた。戻った石閔らは石鑑を廃して殺し、石虎の孫三十八人を誅して石氏を滅ぼした。
史料について
苻洪を遠ざけようとした話は資治通鑑による。魏書は、石苞が石閔殺害を謀って死んだとだけ書き、石鑑が命じたことは書かない。石祗討伐の兵を、載記は石鑑が出したとし、資治通鑑は石閔と李農が出したとする。誅された石虎の孫を、十六国春秋の輯本は二十八人とする。
石鑑とつながる皇帝

勢力図
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349–350年の地図に、石鑑が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・大赦1
- 反乱350年1月(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 349年12月)石祗(新興王)の挙兵
- 反乱350年3月冉閔・
李農による石鑑弑逆(クーデター) - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
後趙の歴代皇帝
歴代7人の一覧年表
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後趙が