石祗
後趙(五胡十六国)|在位 350–351年
- 諱(本名)
- 石祗
- 在位
- 350–351年
- 在位期間
- 1年31日365名中290位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
石虎の子。冉閔による胡人虐殺(殺胡令)に対抗し、後趙の残存勢力を糾合して襄国で自立し帝位を称した。正統な継承手続きを経ない再興のため建国に分類。
出典: 晉書 載記第七 石祗
死因の経緯
冉閔討伐に派遣した部将劉顕が大敗し、冉閔の追撃を恐れて密かに降伏を申し出。石祗殺害を条件に助命を得た劉顕に、丞相楽安王石炳・太宰趙庶ら10人余りと共に殺害された。首は鄴城に送られた。同一政権内の部将の裏切りによる殺害のため暗殺に分類。
出典: 晉書 載記第七 石祗
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
『晋書』載記第七・石祗関連記述(行7917「石祗闻鉴死、僭称尊号于襄国」)には、即位に伴う建元・年号制定の記述が見当たらない。同載記内で先代の石季龍(行7895「僭即皇帝位于南郊…建元曰太寧」)や競合者の冉閔(行7916「僭即皇帝位于南郊、大赦、改元曰永兴」)は建元が明記されているのに対し、石祗の即位(行7917)にはそれが伴わない。本プロジェクトの先例(劉永=『後漢書』に建元記述なくcount:0、行5788参照)に準じ、正史本文に建元の記述がない場合は捏造を避けてcount:0とする。ただし『佛祖歴代通載』(庚戌年条「赵石祗、三月即位、襄国改永寧」)および『五礼通考』紀元表(「後赵石虎族子祗僭称帝于防国改元永寧」)という『晋書』以外の史料には、石祗が即位に際し「永寧」の元号を建てたとする記載があり、これが史実であれば実際にはeraChangeCount=1相当となる可能性がある。今回の調査対象は『晋書』載記第七に限定されているため、この点は本文未確認としてconfidence:lowで記録し、count自体は原典に忠実に0とした(要ユーザー確認事項)。
大赦回数
『晋書』載記第七の石祗関連記述(行7909、7917-7920)には「大赦」「大赦天下」等の語は一切現れない。同じ載記内で石遵(行7900「僭即尊位…大赦殊死已下」)、石鑑(行7907「鉴乃僭位、大赦殊死已下」)、冉閔(行7916「僭即皇帝位于南郊、大赦」)はいずれも即位時の大赦が明記されているのに対し、石祗の即位(行7917「石祗闻鉴死、僭称尊号于襄国」)にはそうした記述が伴わない。本紀通読の範囲内で大赦の記述が確認できないためcount:0とする。
立后回数
『晋書』載記第七の石祗関連記述には、石祗が皇后を立てたという記述は存在しない。同載記内で石遵(行7901「其妻張氏為皇后」)、石季龍(行7894「刘氏為皇后」)には立后の記述があるのに対し、石祗にはそうした記述がなく、在位期間も短いため皇后不在と判断しcount:0とする。
皇太子廃立回数
『晋書』載記第七の石祗関連記述には、石祗が皇太子(または皇太弟等)を立てたという記述自体が存在しない。在位期間が350年〜351年のわずか1年強で、大半が冉閔・劉顕との攻防に費やされており、立太子・廃太子いずれの記録もない。記述がない以上、廃立も発生しようがないためcount:0とする。
親征回数
晋書載記(石季龍下)・資治通鑑(永和六~七年条)に一致して「石祗自ら冲撃した」旨明記されており、親征として計上した。石祗が弟の石琨や大将劉顕に軍を委任して行わせた遠征(邯鄲攻撃・鄴攻撃)は石祗自身が出陣していないため親征に含めていない。
反乱鎮圧回数
冉閔(冉魏)との一連の戦争は、冉閔が既に石鑑弑殺後に独自の国号(魏)・年号を称して自立した独立政権であったため、対等な独立政権同士の戦争として鎮圧・被反乱いずれからも除外した(前趙vs後趙等と同型の扱い)。それ以外に石祗の在位期間(永和六年~七年、350~351)中に服属民や配下による挙兵で石祗側が鎮圧に成功した事例は原典上確認できなかった。
被反乱回数
晋書載記・資治通鑑ともに劉顕が石祗を殺害した経緯(鄴攻撃失敗→冉閔への内応→石祗殺害)を明確に記しており、対称基準の例外4(内部権力者による兵力を伴う弑逆)に該当すると判断した。
遷都回数
晋書載記を通読。襄国→鄴の遷都は石虎(石季龍)の代の出来事で、以後の各代には鄴からの追加の遷都記録はない(石祗の襄国拠点は鄴陥落後の残存勢力による対抗政権であり対象外)。
即位時年齢・没年齢
既存レコード(deathCause.note/accessionRoute.note/reigns[].note等)および_corpus_cache/houzhao-shizhi.txt(『晋書』載記第七、石祗関連本文)を確認したが、生年月日・即位時年齢・享年・没年齢に関する直接記載は見当たらなかった。石虎(石季龍)の子であることは判明しているが、生年を示す記述は原典になく、逆算に用いる年齢の直接記載も同載記内に存在しないため、accessionAge/deathAgeともnullとする。没日については、reigns[0].endDateRawも同様にnullで月精度(351年4月頃、劉顕による殺害)までしか判明していない。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征350年11月〜351年3月冉閔(冉魏)
対象: 冉閔(冉魏)
結果: 冉閔率いる魏軍10万に約百余日包囲された襄国において、姚襄・石琨(汝陰王琨)・悦綰の援軍到来に呼応し、石祗自ら城内から出撃して魏軍の背後を急襲(「祗冲其後」「趙王祗自後衝之」)、魏軍を大破した。冉閔は十余騎のみで鄴へ敗走し、司空石璞・尚書令徐機ら魏の将士十余万人が戦死した。
被反乱351年4月劉顕の叛乱・弑逆
首謀者: 劉顕
結果: 石祗配下の大将軍劉顕は七万の兵を率いて鄴を攻めるも冉閔に大敗し、追撃を受けて阳平で三万余を斬られた。窮した劉顕は密かに冉閔に降伏を申し出て、その証として石祗殺害を約し実行、石祗および丞相安楽王炳・太宰趙鹿ら十余人を殺害してその首を鄴に送った。これにより石氏後趙(後趙最後の政権)は滅亡した。
配下将軍による兵力を伴う弑逆・クーデターにあたるため被反乱側にのみ計上し(鎮圧の主体が反乱者側のため)、鎮圧回数には含めていない。