石祗の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 350年〜351年
- 没年
- 351年年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓石諱祗呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百七 載記第七(石季龍下、石祗傳。冉閔の記事と交錯)
- 死因
- 晉書 載記第七 石祗
- 即位経路
- 晉書 載記第七 石祗
生涯
どんな皇帝か
援軍と結んで冉閔を大破したが、部将の劉顕に殺され、確かめた晋書・資治通鑑・十六国春秋には本人の言葉が直接の形では見えない。
即位まで
石虎の子の新興王として、襄国に鎮していた。石鑑の治世のうちに姚弋仲・苻洪らと結んで石閔と李農の誅殺を呼びかけ、太宰朝廷で最も位の高い大臣の一つの趙鹿ら万余人が襄国へ逃れてきた。350年に石鑑の死を聞くと襄国で帝号皇帝という称号を称し、州郡に拠る六夷漢人以外のさまざまな異民族はみなこれに応じた。姚弋仲を右丞相左右二人置かれた最高位の大臣のうち右の方として殊礼臣下に特別に許す、格別の礼遇で遇し、子の姚襄にも将軍や刺史州という地方の区画を治めた長官の位を与えた。関中を狙う苻健も、その意図を隠すため、偽って石祗の官を受けた。
史料について
元号を、十六国春秋は永寜、資治通鑑は永守とし、晋書には記述が無い。
治世と最期
同じ年、石琨に十万の兵を付けて鄴を討たせたが、石琨は邯鄲で冉閔に大敗した。冉閔に襄国を百余日囲まれると、351年に石祗は恐れて皇帝の号を去って趙王と称し、慕容儁や姚弋仲に援軍を乞うた。燕への使者には、伝国の玉璽皇帝の印。皇帝の位のしるしを送ると約させた。姚弋仲は姚襄に、お前の才は冉閔の十倍だ、捕えられなければ戻るなと言って救援に送り、援軍が三方から攻めかかると石祗も背後を衝き、冉閔は十余騎で鄴へ逃れた。
続いて劉顕に七万の兵で鄴を攻めさせたが、劉顕は冉閔に大敗した。恐れた劉顕はひそかに冉閔へ降伏を願い、石祗を殺して手柄にしたいと申し出て、石祗と太宰らを殺して首を鄴へ送り、冉閔は首を大通りで焼かせた。
史料について
玉璽の約束は資治通鑑の地の文にある。晋書の慕容儁載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録では、冉閔の使者の常煒が、救いを求めるための言葉にすぎないと言っている。ともに殺された者を、晋書は太宰の趙鹿ら、十六国春秋は趙鹿のほか丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職の石炳や太保君主を補佐する、最高位の位の一つの張挙、資治通鑑は石炳や太宰の趙庶らとする。晋書の中でも慕容儁載記の一箇所だけは、石祗を殺したのを冉閔とする。
石祗とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
350–351年の地図に、石祗が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・親征1
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。350年12月〜351年4月冉閔(冉魏)
- 反乱351年5月劉顕の叛乱・
弑逆
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後趙が