中国皇帝統計

石遵

後趙(五胡十六国)|在位 349年

諱(本名)
石遵
在位
349年
在位期間
184日365名中326位タイ
即位経路
簒奪
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
0
大赦
1267名中194位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
3289名中146位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

石虎の子。石世を武力で廃位し実権を奪い、劉太后の命と称して即位。

出典: 晉書 載記第六 石遵

死因の経緯

武興公石閔(後の冉閔)を皇太子とする約束を反故にしたため、石閔に疎まれ誅殺を図られたが密告により逆に殺害された(在位183日)。同一政権内の実力者による粛清のため暗殺に分類。

出典: 晉書 載記第六 石遵

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

石遵の在位記事(『晉書』載記第六)中に「建元」「改元」の明記なし。父季龍が太寧元年(永和五年=349年)に建元した「太寧」の年号が、石世・石遵・石鑑の三代の短期在位期間を通じてそのまま踏襲されたとみられ、石遵自身による新元号制定・改元の事実は確認できなかった。

大赦回数

即位大赦のみ1回を計上。なお石冲討伐戦の途上「遇遵赦書」(石冲軍が石遵の発した赦書に遭遇し進軍を躊躇した)との記述があるが、「大赦」「大赦天下」等の明記がなく、対石冲軍向けの限定的な赦免文書である可能性が高いため全国規模の大赦としては計上しなかった。

立后回数

在位183日間で皇后冊立は張氏の1回のみ確認。再冊立や廃后の記載はない。

皇太子廃立回数

石遵は石斌の子・石衍を皇太子に立てたが、廃立の記載はない。石衍は石遵自身が石鑑一派に殺害された際に共に誅殺されたが、これは石鑑側(後継者・実際の実行者)の行為であり石遵自身による廃立ではないため計上せず(設問の帰属ルールに従い後継者側に帰属)。なお石遵は先帝季龍の死後に即位していた石世(皇帝であり皇太子ではない)を廃して殺害しているが、これは「皇太子」の廃立の定義には該当しないため対象外とした。

親征回数

石遵の在位百八十三日(349年5月頃〜11月)中に自ら軍を率いて出征した記録は確認できなかった。石冲討伐(石閔・李農に精卒十万を委ねる)、司馬勲・石苞への対応(王朗に精騎二万を委ねる)、東晋の褚裒・陳逵らへの対応(李農を南討大都督とする)はいずれも将軍への委任であり石遵自身の出陣ではない。なお季龍死去直後、石遵は河内から鄴へ戎卒九万を自ら率いて進軍し輔政の張豺を誅殺しているが、この時点で石遵はまだ大将軍の地位にあり王・天王等の君主号を帯びていなかったため、規定の『即位前の君主号での出征』の要件を満たさず対象外と判断した。

反乱鎮圧回数

晋書載記(石季龍載記末尾、石遵の在位記事)に基づく。両事件とも同一政権(後趙)内部の宗室による帝位継承をめぐる武力反抗であり、対等な独立政権同士の戦争ではないため計上した。東晋(褚裒・陳逵・司馬勲)の侵攻自体は独立政権との対外戦争として除外。

被反乱回数

石冲・石苞の事件はrebellionSuppressionCountと同一集計。最後の石閔らによる弑逆は例外4に該当しrebellionSufferedCountのみに計上。

遷都回数

晋書載記を通読。襄国→鄴の遷都は石虎(石季龍)の代の出来事で、以後の各代には鄴からの追加の遷都記録はない(石祗の襄国拠点は鄴陥落後の残存勢力による対抗政権であり対象外)。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(reigns/deathCause/accessionRoute/rebellionSufferedCount等)および_corpus_cache/houzhao-shizun.txtを確認したが生年・享年の直接記載なし。さらに範囲を広げ晋書(daizhigev20版)載記該当箇所(石遵の挙兵即位記事から「遵凡在位一百八十三日」の弑殺記事まで)を通読したが、「時年」「享年」等の年齢記載は見当たらなかった。石虎の子で彭城公に封じられていたことは分かるが生年不明。349年11月に石閔らに弑殺された(在位183日)ことのみ判明。調査したが原典に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。

在位中の出来事(7件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧349年石冲の挙兵

首謀者: 石冲

結果: 石遵は石閔に黄鉞・金鉦を仮し、李農らと精卒十万を率いさせて討伐。平棘で戦い石冲軍は大敗、石冲は元氏で捕らえられ賜死、その兵三万余人は生き埋めにされた。

石冲は石虎の子で石遵の異母兄弟。幽州の蓟に鎮していたが、石遵が石世を廃殺し自立したことを聞き挙兵、常山に至る頃には十余万に膨れ上がった(同一政権内部の帝位継承争いとして両面計上)。

反乱鎮圧349年石苞の関中挙兵未遂

首謀者: 石苞

結果: 石遵は車騎の王朗に精騎二万を率いさせ、名目上は司馬勲討伐としつつ石苞を捕縛させ鄴へ送った。

長安に鎮していた石苞(石虎の子)が関中の兵を率いて鄴を攻めようと謀り、諫めた左長史石光ら百余人を誅殺するなど実際に兵を動かしたが、東晋の梁州刺史司馬勲の侵攻に巻き込まれ実行前に王朗の計略で捕縛された。石遵の軍勢と直接交戦した記述はなく、鎮圧の実態がやや不明瞭なためconfidence: medium。

被反乱349年石冲の挙兵

首謀者: 石冲

結果: 石閔・李農の率いる精卒十万に平棘で撃破され、石冲は元氏で捕らえられ賜死。兵三万余人は生き埋め。

rebellionSuppressionCountと対応する事件。

被反乱349年石苞の関中挙兵未遂

首謀者: 石苞

結果: 王朗の計略により捕縛され鄴へ送られた。

rebellionSuppressionCountと対応する事件。

被反乱349年11月石閔・石鑑らによる石遵弑殺

首謀者: 石閔(李農・蘇亥・周成ら)

結果: 石閔は李農・右衛王基と密謀し、将軍蘇亥・周成に甲士三十を率いさせ如意観で石遵を捕らえさせ、琨華殿で殺害。皇太子石衍・皇太后鄭氏らも誅殺され、石遵は在位百八十三日で崩じた。石鑑がその後即位した。

石鑑も石遵誅殺を太后の前で提議した共謀者だが、実際に兵力を動かした主体は石閔。宮廷内権力者による兵力を伴う弑逆クーデターであり、鎮圧の主体が皇帝側ではなく反乱者側であるため、規定の例外4によりrebellionSuppressionCountには計上しない。

大赦日付不詳石遵が張豺を誅殺し「僭即尊位於太武前殿」した際に「大赦殊死已下、罷上白圍」と布告。

石遵が張豺を誅殺し「僭即尊位於太武前殿」した際に「大赦殊死已下、罷上白圍」と布告。即位に伴う全国規模の大赦。

出典: 晉書 載記第六

立后日付不詳石遵が復位した後、「尊其母鄭氏爲皇太后、其妻張氏爲皇后」と、妻の張氏を皇后に立てた。

出典: 晉書 載記第六

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