石遵の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 349年〜349年
- 没年
- 349年12月年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓石諱遵呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百七 載記第七(石季龍下、石遵傳)
- 死因
- 晉書 載記第六 石遵
- 即位経路
- 晉書 載記第六 石遵
生涯
どんな皇帝か
石閔を後継ぎにすると約しながら守らず、石閔が手なずけた殿中皇帝の宮殿の内の将士の名を書き出して抑え、将士はみな恨んだ。
即位まで
石虎が太子を議したとき、張挙は石斌と石遵を推したが、石世が立てられた。石虎の病が重くなると関右へ出されることになり、禁兵宮中や都を守る兵三万を付けられて泣いて鄴を去った。石虎の死を聞いて河内に駐屯すると、姚弋仲・苻洪・石閔らに鄴を討つよう説かれ、事が成ればお前を後継ぎにすると石閔に約した。兵九万で進むと、鄴の古参の羯の兵士は城を越えて迎えに出て、石遵は出迎えた張豺を捕らえて斬り、その三族罪人とともに罰せられる近い身内の範囲を滅ぼした。劉太后の令と偽って位を継ぐことにし、辞退してみせたのちに即位した。
史料について
資治通鑑は、張豺が石斌の母の卑しさと石遵の母の廃位を挙げて二人を退けたと書き、載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録の同じ場面にこの発言は無い。
治世と最期
即位すると石世を譙王に封じて万戸の邑を与えたが、劉氏を太妃皇后でない皇帝の母や、先帝の妃の称号に落とし、まもなく二人とも殺した。上白に拠った李農が帰って罪を請うと、元どおりに遇した。母の鄭氏を皇太后、妻の張氏を皇后とし、石斌の子の石衍を皇太子に立てたので、石閔は大いに失望した。
沛王の石沖が挙兵すると石閔と李農に討たせ、石沖は捕らえられて死を賜り、士卒三万余人が坑殺生き埋めにして殺すことされた。僧の道安を華林園に招いたが、道安は国運が衰えたとして去った。石閔は功を頼んで朝政を専らにしようとしたが、石遵は任せなかった。石閔の兵権軍隊を指揮する権限を少しずつ奪い、石鑑らを鄭太后の前に召して石閔の誅殺を議ると、石鑑らも賛成したが、鄭太后は石閔がいなければ今日は無かったと止めた。
議の場を出た石鑑がこれを石閔に知らせ、捕らえられた石遵は、石鑑を立てても幾時もつものかと言って殺され、鄭太后や太子も誅された。
史料について
道安の話は十六国春秋の輯本失われた書を他書の引用から集め直した本による。石閔を任せなかったわけを、載記と十六国春秋は忌んだためとし、資治通鑑は聞き入れなかったとだけ書く。殺害を、載記と資治通鑑は石閔の謀とし、晋書の天文志も冉閔とするが、穆帝紀と魏書は石鑑が殺したとする。
石遵とつながる皇帝

勢力図
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349年の地図に、石遵が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱3・皇后1・大赦1
- 反乱349年石衝の挙兵
- 反乱349年石苞の関中挙兵未遂
- 反乱349年12月石閔・
石鑑らによる石遵弑殺 - 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
- 皇后日付不詳皇后を立てる
後趙の歴代皇帝
歴代7人の一覧年表
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後趙が