景明帝
前秦(五胡十六国)|在位 352–355年
- 諱(本名)
- 苻健
- 廟号
- 高祖
- 在位
- 352–355年
- 在位期間
- 3年177日365名中216位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 39歳(数え年)269名中・長寿順137位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 4回112名中18位タイ
- 反乱鎮圧
- 6回225名中68位タイ
- 被反乱
- 6回289名中82位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:景明帝
即位の経緯
氐族の首長苻洪の三男。351年に天王・大単于を称し、352年1月に皇帝を自称して前秦を建国。
出典: 晉書 載記第十二 苻健
死因の経緯
皇始5年(355年)に病死。桓温の北伐に際し太子苻萇が矢傷で死去、弟の苻雄も戦争中に死去したことに怒り吐血したという逸話が伝わり、これが健康悪化の一因とされる。
出典: 晉書 載記第十二 苻健
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
351年の天王即位・建元「皇始」と352年の皇帝号改称の2回。原文では352年の皇帝即位時に新元号名への言及はないが、固有注意事項に従い皇帝号改称そのものを1回として算入した。
大赦回数
『晋書』載記第十二の苻健記事中に「大赦」「大赦天下」の明記は見当たらない。永和七年(351年)天王即位時に「赦境内死罪」(境内の死罪を赦す)という記述があるが、これは全国規模の「大赦」ではなく死罪犯に限定した恩赦であり、かつ「大赦」の語も用いられていないため、本項目の基準(「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦)を満たさないと判断しカウントしない。また巻中「(張靖を)赦之」の記事は個人への赦免であり対象外。
立后回数
冊立は1回のみ確認。廃后・再冊立の記述なし。
皇太子廃立回数
永和七年(351年)天王即位時に子の苌を皇太子に立てたが、桓温の関中侵攻(永和十年、354年)の戦闘で苌は流れ矢に当たり戦死し、その後に生(苻生)が改めて太子に立てられた。これは廃立(廃位)ではなく戦死による欠員補充であるため、皇太子廃立には該当しない。健の病中に苻菁が東宮に兵を入れて苻生を殺害しようとした事件があったが、これは苻菁によるクーデター未遂であり苻生(皇太子)自身が廃されたわけではない(苻菁は誅殺され、苻生は太子の地位を保持したまま健の死後に即位)。
親征回数
350年の対杜洪西征は即位(天王351年・皇帝352年)以前だが、即位前の君主号での軍事行動として本ブロックの方針に従い算入した。354年の対桓温防衛戦は親征該当性に解釈の幅がある。
反乱鎮圧回数
353年に張遇の反乱未遂を契機として関中各地で発生した5件の蜂起は、各々独立した首謀者・蜂起地点として個別カウントした。張遇自身の謀反は挙兵に至らず発覚のみで誅殺されたため、鎮圧・被反乱いずれにも含めていない。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同一の6件を対称的に計上した。
遷都回数
晋書載記を通読。苻健の長安定都(建国時の定都)から385年の苻堅死去後の混乱・394年の滅亡まで、恒久的な再定都は確認されない。
即位時年齢・没年齢
『晋書』載記第十二に「健死、時年三十九、在位四年」とあり、崩御時年齢39歳(数え年)が明記されている。生年月日・崩御月日そのものの明記はなし(原文は「数日、健死」とのみで具体的な月日は記されていない)。
在位中の出来事(19件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征350年〜350年11月杜洪(長安を拠点とした独立勢力。名目上は東晋の征北将軍・雍州刺史を自称)
対象: 杜洪(長安を拠点とした独立勢力。名目上は東晋の征北将軍・雍州刺史を自称)
結果: 苻健は自ら大軍を率いて盟津を渡り関中へ西征。潼関で杜洪配下の張先を撃破し、渭北も平定して長安に迫った。杜洪は司竹へ逃走し(後に部下の張琚に殺される)、苻健は入城して長安を本拠とした。
即位(351年天王・352年皇帝)以前、351年の載記調査時の起点である苻洪死後の家督継承(350年)に伴う軍事行動。晋書載記・資治通鑑永和六年(350年)条に基づく。
親征351年4月司馬勲(東晋梁州刺史)
対象: 司馬勲(東晋梁州刺史)
結果: 杜洪・張琚の要請で秦川に侵入した司馬勲の3万の兵を、苻健が自ら五丈原で迎撃して撃退。勲は南鄭へ敗走した。
資治通鑑永和七年(351年)四月条「秦王健御之於五丈原」。
親征352年5月張琚(宜秋に自立した「秦王」、杜洪の旧部将)
対象: 張琚(宜秋に自立した「秦王」、杜洪の旧部将)
結果: 苻健自ら歩騎二万を率いて宜秋の張琚を攻め、斬首した。
晋書載記「健率步骑二万攻琚,斩其首」、資治通鑑永和八年(352年)五月条に同内容。
反乱鎮圧353年7月〜353年11月孔特(孔持)の乱
首謀者: 孔特(孔持)
結果: 池陽で挙兵。丞相苻雄が討伐し、孔特を斬った。
張遇の反乱未遂事件を契機に関中各地で同時多発した蜂起の一つ。
反乱鎮圧353年7月〜353年12月劉珍・夏侯顕の乱
首謀者: 劉珍・夏侯顕
結果: 鄠で挙兵。清河王苻法・苻飛が討伐し、劉珍・夏侯顕をともに斬った。
同一地点・同時挙兵のため一件として計上。
反乱鎮圧353年7月〜354年8月喬秉(喬景)の乱
首謀者: 喬秉(喬景)
結果: 雍で挙兵。丞相苻雄が討伐に向かうが陣中で病没、太子苻萇が引き継いで討伐し斬首。これにより「関中悉平」(関中がことごとく平定された)と記される。
反乱鎮圧353年7月〜354年1月胡陽赤の乱
首謀者: 胡陽赤
結果: 司竹で挙兵。丞相苻雄が本拠の司竹を攻略し、胡陽赤本人は霸城の呼延毒のもとへ逃走した。
拠点の陥落をもって当該蜂起の鎮圧とみなした。本人は呼延毒の乱に合流。
反乱鎮圧353年7月〜354年6月呼延毒の乱
首謀者: 呼延毒
結果: 霸城で挙兵(後に胡陽赤の残党を吸収)。桓温の関中撤退に呼延毒配下一万が同行したが、追撃した太子苻萇らにより潼関付近で桓温軍もろとも大きな損害を受けた。
原文に呼延毒本人の生死・捕縛の明記はなく、鎮圧の確度は中程度。
被反乱353年7月〜353年11月孔特(孔持)の乱
首謀者: 孔特(孔持)
結果: 池陽で挙兵し数万規模の勢力となったが、丞相苻雄に鎮圧され孔特は斬られた。
rebellionSuppressionCountと対応。
被反乱353年7月〜353年12月劉珍・夏侯顕の乱
首謀者: 劉珍・夏侯顕
結果: 鄠で挙兵。清河王苻法・苻飛に鎮圧され両名とも斬られた。
rebellionSuppressionCountと対応。
被反乱353年7月〜354年8月喬秉(喬景)の乱
首謀者: 喬秉(喬景)
結果: 雍で挙兵し約1年抵抗するが最終的に太子苻萇に斬られ、関中が平定された。
rebellionSuppressionCountと対応。
被反乱353年7月〜354年1月胡陽赤の乱
首謀者: 胡陽赤
結果: 司竹で挙兵するが拠点を丞相苻雄に攻略され、本人は霸城の呼延毒のもとへ逃走した。
rebellionSuppressionCountと対応。
被反乱353年7月〜354年6月呼延毒の乱
首謀者: 呼延毒
結果: 霸城で挙兵し数万規模となったが、桓温撤退戦に巻き込まれ潼関付近で秦の追撃軍に大敗した。
rebellionSuppressionCountと対応。呼延毒本人の最終的処遇は原文に明記なし。
親征354年2月〜354年9月桓温(東晋征西大将軍)
対象: 桓温(東晋征西大将軍)
結果: 桓温が4万の兵で関中に侵攻(東晋の第一次北伐)。苻健は長安小城に籠り老弱六千を自ら率いて守備し、精鋭三万は太子苻萇・丞相苻雄らに委ねて藍田・白鹿原で交戦させた。桓温軍は清野戦術による食糧不足で撤退し、追撃戦(潼関付近)で秦軍が大戦果を挙げた。
苻健自身の戦闘参加は長安籠城守備が中心で、野戦の主力指揮は太子・丞相らに委ねられている。親征に該当するか判断に幅があるため中程度の確信度とした。
反乱鎮圧355年6月苻菁の乱(クーデター未遂)
首謀者: 苻菁(苻健の兄の子、平昌王)
結果: 苻健重病の隙に苻菁が兵を率いて東宮に乱入し太子苻生の殺害と自立を図ったが、苻健自ら兵を率いて端門で応戦、苻菁を捕らえて誅殺した。
苻健自身が鎮圧の主体であり、クーデターは失敗に終わった(例外4の朝廷内クーデター成功例には該当しない)。
被反乱355年6月苻菁の乱(クーデター未遂)
首謀者: 苻菁(苻健の兄の子、平昌王)
結果: 苻健重病時を狙って兵を率い東宮に乱入・自立を図ったが、苻健自身が兵を率いて応戦し、苻菁を捕らえて誅殺した。
皇帝自身への武力を伴う内部クーデター未遂として被反乱に計上。
改元日付不詳【皇帝即位前】永和七年(351年)、苻健が天王・大単于を僭称し、元号「皇始」を建元(即位に伴う最初の建元)。
【皇帝即位前】永和七年(351年)、苻健が天王・大単于を僭称し、元号「皇始」を建元(即位に伴う最初の建元)。「僭称天王、大単于、赦境内死罪、建元皇始、繕宗廟社稷、置百官於長安」
出典: 晋書載記第十二(苻健)
改元日付不詳【皇帝即位(改元同時)】永和八年(352年)、苻健が太極前殿にて皇帝号を僭称(「健僭即皇帝位於太極前殿」)。
【皇帝即位(改元同時)】永和八年(352年)、苻健が太極前殿にて皇帝号を僭称(「健僭即皇帝位於太極前殿」)。本人物固有の注意事項により、天王即位と皇帝号改称の両方をeraChangeCountに算入。
出典: 晋書載記第十二(苻健)
立后日付不詳永和七年(351年)、天王即位に伴い妻の強氏を天王皇后に立てた(「立妻強氏為天王皇后」)。
永和七年(351年)、天王即位に伴い妻の強氏を天王皇后に立てた(「立妻強氏為天王皇后」)。以後、皇帝号への改称(352年)時に皇后の再冊立を示す記述はなく、同一の強氏が皇后位を継続したと解される。
出典: 晋書載記第十二(苻健)